第209話・知り得ぬ覚悟
【警告】
刃物等の、言葉が有り。
苦手な方ご注意下さい。
_______病院、処置室。
処置室のベッドで、理香は眠っている。
静かな寝息を立ててただ昏々と眠っている姿は、
その繊細な美貌も相まって、まるで眠り姫の様だった。
けれども、白い首筋に貼られた大きな白い絆創膏が目立つ。
眠り姫を目覚めるのを待ちながら協力者は、傍の椅子に佇んでいる。
あれから、病院に直行した。
理香の首筋の怪我が気掛かりだったからである。
素人で傷口を断定するのは不味い。季節は厳冬。
傷口の箇所と、傷口が何処に関わらず、
このまま失血が続ければや低体温に陥ってしまう。
それだけは避けたい。
理香の心情を心配しながら、ただ車を走らせた。
『首元の傷なので、傷口が開かない様に安静して下さい』
理香が自分自身で傷付けた、傷口は深かった。
首筋にはかなりの神経や血管が混じっている為に
それらを傷付けない様に慎重な処置が置かれた。
理香の様子を伺いながら、
芳久は健吾の言葉を思い出していた。
『理香を、繭子の見えないところに拐ってくれ』
出来る限り遠くに。
この母親から、離して欲しい。
それが、白石健吾の訴えだった。
椎野理香が姿を消してから、彼女の行方を調べていた。
理香はかなりのミステリアスな人間でその行動も心情も読めない。
芳久は普段は嫌っている
高城英俊の息子という、コネクションを利用して
プランシャホテルの関係者に尋ねてみる事にした。
けれども人は案外、人には興味を示さず、
他者の行動は覚えていない。
悟りの心を開き
知的な芳久はそういう生き物だと理解している。
きっと椎野理香の行動を聞き出すのは難しいだろう
と思っていた所で、
気になったのは、受付嬢の一言。
『この人の姿は、出勤時には見かけますけれど
帰りのロビーで見た事はないです』と。
相手は、かなりのお局受付嬢だ。
新人社会人となっていた頃からずっと知っている筈だ。
それにロビーの隅にはプランシャホテルだけの改札口がある、それを会員証を通して帰らなければならない。
ロビーの改札口を通らなければ
エールウェディング課のタイムカードだけになる。
しかし調べてみれば、改札口のタイムカードにも
帰宅したであろう夕方の時刻が毎日、記載されていた。
ならば
椎野理香は帰りの改札口にも通っている筈だ。
(ロビーの会員改札口を通らなければ帰れる通路はない筈だ)
椎野理香は
何処からプランシャホテルを出て、帰っていたのか。
それならばあまり他者と群れる事を好まない彼女ならではの、裏通路を見付けていたのか。
それが謎だった。
しかし別荘に着いた時、それが確信に変わった。
既に壊れた車と尾嶋博人が倒れていたからだ。
理香が警戒心を抱いている上に疎ましく思っている
博人に容易く着いていく性格ではないのは芳久が一番、知っている。
だから尾嶋博人が理香を連れ去った、という現実は明白だった。
きっと、椎野理香だけが
知っている裏通路を知った隙に、博人が連れ去ったのだろう。
話すのは躊躇ったが
理香には、母親が選んだ婚約者がいる事、
その人物がかなり難があるしぶとい人間である事を
話すと、白石健吾に話すと彼の顔色が変わった。
「僕が思うに理香は、
この人に連れ去されたのでは、と思うのですが」
「…………きっとそうだ」
そう伝えると健吾は納得した。
理香の行方を相談する内に、芳久は健吾のある変化に気付いた。
(これが、父性、というものか)
健吾は理香が、実の娘と知ってから彼女を救おうと
力になろうという感情と必死さと感じた。
これが父性だろうか、と薄々、思ったものだ。
「理香は婚約者を疎ましく思っていました。
疎ましく思っている婚約者に付いていくでしょうか………」
理香が警戒心を抱いている上に疎ましく思っている
博人に容易く着いていく性格ではないのは芳久が一番、知っている。
彼に着いていく筈がない。
そう伝えると健吾は、
「森本繭子がその場にいたら?」
「……………」
芳久は固まった。
婚約者ならば眼中にないので、無視するであろうが、
母親が共に居たとなれば、無視出来なかっただろう。
けれど長い付き合いになれど、
椎野理香の本心だけは分からない。悟れない。
自分自身の身、命が危うくなるであろうに、理香は自分自身の首筋を切った。
『…………これは、あの人を脅す為に
自分自身で傷付けたの。私の自業自得』
それは、森本繭子への脅しだったのか。
それとも、死を選ぶつもりだったのか。
思い詰めていた理香だったから、
本気で死を選ぶつもりではなかったのか。
自傷の覚悟が、本気で母親に向き合っていたのは解る。
あの言葉にはし難い独特なダウナーな空間と、張り詰めた緊迫感のある空気は、
あの母娘にしか造れないものだと背筋が凍るものだったろう。
けれど森本繭子の何処か怯えた表情だった。
あの品格と名誉のある女社長の姿ではなく、あれは
全てを奪われた、悪魔の様な、妖怪の様な顔付き。
だがこれだけは確実に言える。
(母親は、娘に怯えていた)
欲望の亡者が持っていたものを、
復讐者は相手に焦燥感と絶望的を与えながら一つ一つ破滅させてきた。
娘を潰す毒親だった反面、変わり果てた娘の姿に、怯えていたのかも知れない。
椎野理香が、あの場で何かを言っていたのかは
森本繭子しか知らないけれども、娘を脅して威圧していた母親は寒空に凍える様に何処かで震え怯えていた。
そんな悪魔を追い詰めた復讐者は、
謎の恍惚の表情と眼差しで見詰めながら、
怯え凍える悪魔を、血に染まった刃物を握り締めたままだった。
その母娘に堂々と諭す様に、
立ちはだかった白石健吾の根性は凄まじいと感じたのは忘れられない。
けれども白石健吾のその行動は偽りのない娘を思う父親の姿だった。
この文章を読んで、ご不快に感じられた方、
お詫びを申し上げます。物語の構成上とはいえ
誠に申し訳ございません。




