第18話・知らないふりの者
壊れたものは修復出来るものと、出来ないものがある。
例えば物にもよれば、修復が可能な物とそうでないものがあるだろう。
けれど、人間の心が壊れてしまった場合はどうなのだろうか。
_______私は、森本心菜。
_______あの森本繭子の一人娘。けれど、それは名目だけのもの。
_______理不尽な私を虐待し続けた女を、許すつもりもない。
だから。
今度は、私が復讐するの。
あの女が私にした無残な仕打ちを、そのまま返せば良い。
小さな便箋に綴ったのは、弱虫な心。
自分自身の思いの丈の全てを、理香は衝動的に書き綴っていた。
それを全て書き留めると、細かく折って自分の胸ポケットに入れる。
(______貴女への憎しみを、一瞬も忘れやしないわ)
これは、自分自身を奮い立たせるけじめだ。
躊躇いと恐怖を拭い捨てる為の決意を身につけて居れば良い。
決別の意を込めた印を抗う為に、刻んだ誓いの言葉。
ホテルは、いつもより更に活気を増していた。
この時期に何故か、ウェディングと挙式を挙げる者達が多かったからだ。
理由は明確だった。
それは、提携経営が決まり統合のプラン等が増えたからだ。
新しいものに飛び付く者が多くホテルに訪れたお陰なのか、
普段よりもかなり慌ただしい。
式の日取りや顧客のプランの打ち合わせ、
そして花嫁や新郎の衣装合わせや、披露宴や式のイメージなど。
それらを全てこなすには、簡単に言葉を綴ったスケジュールよりも大変で休憩をする時間もない程だった。
特にエールウェディング課の実力者である
椎野理香にお願いしたい、という依頼は多かった。
だが流石に全部というのは引けてしまい、理香の体調も壊れてしまうに違いない。
その面のフォローとして、エールウェディング課の先陣として
同じく同僚で、椎野理香と成績を一位二位を争う実力者である
指名も多い優秀なウェディングプランナーである、高城芳久と分割でこなし始めた。
理香自身、
あの悪魔との提携を結んだ事で更に栄えるプランシャホテルは
何処かで悪魔に利用されているのだと冷静に物事を考えては
傍観者の如く、見詰め続けていた。
(____これでまた、あの人の懐は、満たされるわね)
ねえ、満足?
本当は繭子の前で、そう問いて見たかった。
怒涛のスケジュールは、慌ただしく過ぎて行った。
何時もより、どれだけのドレスに触れ迷い、式を躊躇う花嫁に淡い言葉をかけたのだろう。
花嫁のウェディングドレスの評価を、メモに刻んだ事だろう。
数え切れない中で、理香は仮面という名の偽りを被って、
必死に椎野理香を演じているに過ぎなかった。
本当はクールな性格で、あまり他者との関わりを
避けている筈なのだが、仕事は仕事、と割り切り働く。
第一、自分自身を押し殺す事は癖となり、
慣れ切っているのだから。これくらいの言葉は、どうという物ではない。
_______プランシャホテル、エールウェディング課、会議室。
「我がウェディング課の業績は、提携経営を結んだことにより
普段よりも倍増した結果を出している。順調に上がって行っていることは喜ばしい事だ。
これからもこのペースを維持し、続けていくとともに____」
慌ただしいスケジュールが終わってからの、
エールウェディング課のミーティングだった。
暗転された会議室の前に映し出されるモニターには、
エールウェディングの業績グラフが写し出されている。
見るからに慌ただしい生活の結果だろう。
モニターに写し出されたグラフは緩やかな右肩上がりに上昇している。
これが提携経営の出した結果だと悟り、かなり力を示している事は明らかだった。
熱心に解説する理事長。
確か提携経営を勧めている張本人だと、同僚が言っていたか。
ホテル界では最高峰と評されるプランシャホテルと、
ジュエリー界の女王とのタッグは、予想以上の成果を生み出している様だった。
そのせいか、やけに理事長の言葉に熱が通っていると思いながら
これは悪魔の手の中で遊ばれている駒なのだと、理香は何処かで思っていた。
此処に、提携経営を結んだ先の
社長の令嬢がいるとなれば、きっと皆が仰天するだろう。
そんなこと、口が裂けても言えない____否、言いたくない話だ。
知らない者のふりで通すこと。
それが理香に出来る事であり、欺く形でも復讐だ。
巻き添えとなってしまったプランシャホテルには申し訳ないが、
物理的な縁は切れなくとも、他人の振る舞いで、あの悪魔を追い詰めてみせる。
(_____この提携経営は
貴女の砂の城を壊す為の、必要な道なのでしょうね)
だが、正直なところ、あまり悪魔の話は聞きたくはない。
森本繭子の顔を見る度に、あの頃に引き戻された感覚に陥るからだ。
もう悪魔の操り人形としては脱出したが、
心の奥底では植え付けられた感覚が、未だに残っている。
囚われ続けた心は、フラッシュバックとして時折、脳裏に甦り、無垢な彼女を苦しめる。
だが自分自身ではどうしようもない。
ただ職場では、聞くしか選択の余地はないのだから。
それに、この提携経営が悪魔を追い詰める一つの糧となるならば、好都合だ。
薄ら心内で微笑を浮かべて理香は、
熱弁を振るう理事長に視線を送っていた。
会議も無事に終了して、皆が帰って行く。
自分自身も立ち上がった瞬間、そんな時、くらりと視界が微かに回った。
額に頭を当てて冷静沈着な理香の思考回路に疑問符が浮かんだ。
元からある貧血のせいだろうか。
それとも慌ただしさに追われて、最近は寝不足気味だったせいか。
この眩暈の理由は解らない。
(こんな時期にふらふらとしている場合じゃないのに)
今は、最も大事な時期だ。
「理香? 大丈夫?」
「ええ…………平気。だい_____」
心配そうに様子を伺ってくる芳久にそう言ったものの
その瞬間、大きく視界が回り、ぐらりと身体の軸を失うと
棄てられた人形の如く理香は倒れた。
倒れた事は、すぐに悟った。
けれど気怠く重い身体が言う事を利かない。
倒れたと同時に薄れゆく意識が遠くなっていく。
ぐらりと芯を失った体が傾いて倒れていくと同時に、
自分自身の名前を呼ぶ同僚の声すら聞こえないまま、
理香は意識を手放して、静かに瞳を閉じた。