第203話・野望の終演を
英俊が見舞いに来た。
時間は要したのであろうが、あの
(あの、息子も使えるわね)
払った代償は大きい気もしたが、
安泰な理事長夫人という立場に居座れるのなら、静寂な安いものだとさえ思った。
だが。
美菜の元に来たのは、
“最愛の夫”ではなく、“プランシャホテル理事長”であった。
英俊は記入済みの離婚届を、消灯台を叩き付けると
「何故、芳久の耳にあの事を入れたんだ!!」
と叫び、鬼の形相で睨み付けてくる。
一瞬、美菜は目の前の現実が解らなくなり、茫然自失とした。
あの事、とは言い訳のしようがない、二人の過ちだろう。
「結婚する時に、お前は誓約書まで書いた筈だ。
それなのに軽はずみにお前は、事を口走りよってからに………。
私を何処まで失望させる気だったとは………」
「…………ごめんなさい。でも離婚は止めて」
「黙れ!!」
刹那にバシン、と渇いた音が響いた。
美菜は衝撃と痛みから涙ぐみ、赤くなった頬を押さえ、疼くまっている。
それでもまだすがり着きたくて、上目遣いで、英俊を見上げた。
「もうお前に発言権はない!!」
「あたしに、責められる権利なんてないわ!!」
「なに?」
(離婚を帳消しにしてくれる、って言ってた。
なのにどうして、英俊さんはこんなに怒っているの?
………何をしたの?)
「良いから、離婚届にサインをしろ」
冷たいドスの効いた声に、背筋が凍る。
こんな冷たい声音なんて出会って
きっと優子よりも大事にされていたから、
英俊の冷たい声音や態度を見、聞いたのは初めてだった。
まるで、ヤクザに脅されている様だった。
涙ぐみながらも、記入する。自分自身が離婚届にサインをしたふりをして、この紙切れは破ろうと
思っていたのにそれは判子を押した刹那に、素早く奪われた。
「これは、お前の分の荷物だ」
キャリーケースが傍らには二つ。
嗚呼、本当に見捨てられるのだと、美菜の瞳に静かに涙が零れた。
まだ実感も湧かない。けれど、もう相手は振り向きもせず、病室から出て行った。
(……………こんなに呆気ないなんて)
全てに勝った気でいた。
有頂天になっていたけれど、間違いだったみたいだ。
自然と視界がぼやける。大粒の涙が頬を伝い、そのまま美菜は何時間も何時間も泣き続けた。
(全部、高城芳久のせい……)
あの憎い女の息子のせいだ。
あの青年さえいなければ。芳久が憎くて堪らなくて
理事長夫人という肩書きが消えてしまった事が、悲しくて、哀しくて仕方なかった。
夜。
泣き腫らした顔が、窓ガラスに写っていた。
感情も少しは落ち着いたからこそ、携帯端末を握り電話をかける。
『はい』
聞き慣れた、落ち着いた声音。
憎らしい声音。
「どうして!?
離婚は帳消しにしてくれるって言ったじゃない!!」
感情的な声で、端末の向こう側にいる青年を罵った。
しかし凍り付いた芳久の態度や感情は微塵も動かないままだ。
先程、離婚したという報告自体は、英俊から受けていた。
『貴女と同じ事をしたまでです。
貴女も最初は僕の母が居なくなってさぞかし、精々したでしょう?
邪魔者はもういないって安堵していたでしょう?
けれど、人生はそんなに上手く生きませんよ。
_____自分自身の理想通りにならないのが、現実ですから』
『数年間だけでも、理事長夫人になれたんですから
良かったじゃないですか。甘い現実って続かないと
よく聞きますけど持った方ではないですか』
狂気を秘めた青年はそう嗤った。
知りたかったのは、母親の死の真相だけ。
そして優子を死へ至らしめた、あの二人に迫って二人の感情や野望を剥き出しにさせ、生きた心地を危うくさせただけだ。
結果的に二人は醜い反吐が出る感情を、互いに露にして自滅した。
もう高城家にも用はないのだが、
兄が守りかけていたものの責任だけは、果たそう。
(兄さんの責任は、俺が果たすから。大丈夫だよ。
不出来な弟だけれど………)
「母さんを泣かせてしまったかも知れない。
ごめんなさい。でもあの二人は自分自身の野望を果たす為にいた夫婦だったんだ。
愛はなかったよ」
「それとごめんなさい。
母さんを助けられなくて………生きていたかったよね。
退院する事が目標だった、って言っていたよね」
西洋風の、実母の墓地の前で花を手向け、そう呟く。
二人の人間を破滅させた罪悪感は不思議とないけれど
実母への懺悔は止まない。
しかし芳久の顔は心なしかやや晴れ晴れとしていた。
醜い野望は、何時か自滅を迎える。
継母の姿を見て、そう学んだ。
ここまで読んで下さりありがとうございました。
芳久の復讐劇は、この話にて終わりとなります。
母娘の愛憎、復讐劇から脱線した様に思いますが
芳久はもう一人の主人公なので、芳久ならば
どんな復讐をするのだろう、と思ったのがきっかけでした。
長々となってしまい、申し訳ございません。
次回からはまた、平常運転に戻る予定です。




