第201話・父親の見知らぬ息子
俯きながら、長身痩躯のスーツ姿の青年が
ゆっくりと一定のリズム感の靴音が、静寂な闇夜に響く。
芳久は、静かに嘲笑う。まるで自分自身で自傷するかの様に。
全ては高城家、高城英俊の駒だったのだ。
其処に欲望や野望が存在しても、愛や情等、存在はしない。
(母さんは、死んだんじゃない。殺されたんだ)
優子の死は、偶然ではなく必然的に仕組まれたのだと
腹を括っていたが、やはり自分自身が抱いた疑念が
確信にとなった現実に、ショックはないと言えば、嘘になる。
優子は、ただ純粋に夫に仕えて支えては、二人の愛情を注ぎ慈しんだ。
慈愛に満ちた、一人の純粋な女性であり、母親であった。
そんな
まるで玩具の様に、人一人の人生を左右させた。
血も涙もない冷徹な男と、自分自身の野望に満ちた良心の一欠片もない女。
二人の利害によって、人一人の命が消えた。
だん、と拳を壁にぶつける。
吐き出したい程の煮え滾る諦観と憎しみ。
ぎりり、と静寂な闇に残響する、言葉に出来ない歯軋りは、彼の絶望。
しかし厳冬の憐れみが、芳久の瞳に佇んだ。
(良いでしょう。
そちらがその気ならば、俺の考えを味わって貰いましょう)
寧ろ、優子の死の白黒がはっきりして良かったのかも知れない。
やっと割り切る事が出来るのだから。
そう霧が晴れれば、感情も冷酷になれる。
高城家に帰る頃には、夜明けが迫っていた。
“契約”と“利害”によって高城家に佇んでいたが、契約が切れて、利害が膨らんだ今、もうこの家に居る必要はない。
さっさと、出て行ってしまおう。
「……………帰宅したのか」
「…………はい」
落ち着いた口調で、芳久は告げる。
しかし英俊は異変を感じていた。…………何かが違う。
“高城芳久”という、落ち着いた掴めない息子である事には変わらないのに。
その色白で端正に整った面持ちは、心なしか
げっそりと痩せて見え、目の下の隈がうっすらと浮かんでいる。
「話がある。来なさい」
「………分かりました」
________高城家、書斎。
父親の書斎に足を踏み入れるのは、生まれて初めてかも知れない。
一面に置かれた巨大な本棚には、隙間無く、様々な本が並べられ詰められている。
部屋の中央にあるのは、豪奢なデスクと椅子。
机に置かれたランプには淡い色が揺らめいている。
テーブルには、一枚の紙切れが置かれていた。
緑のラインの線が見えた時点で、芳久は紙切れの意味を理解した。
この男の人生計画は、また計画通りにレールを引いているらしい。
後ろに着いてきた芳久の存在感を横目に、
英俊は椅子に腰掛け、直立の姿勢で立っている息子を見た。
「________離婚届の保証人になってくれないか」
「……………お話の事、ですか」
美菜の破滅は、近付いている。
否。破滅になる様に彼女は、無自覚にしかし破滅の道を進んだも同然だ。
現に英俊の信用を一瞬で失望に蹴落とした。
あんなにあの女に浮かれていたのに、この代わり様に、芳久は嘲笑う。
否、この男に、“愛情”というものはあるのだろうか。
愛情なんて、この男にはないのだろう。
だったら、こんな一瞬で手の平を返したりしない。
優子が去った時も、美菜が自滅した時も。この男は、あっさり切り替えた。
自分自身の為に、人を簡単に切り捨てる。
それは当人の意思の固さを物語っているのだけれど。
(………あんなに執着していたものを、自分自身で壊すなんて無様だな)
予定通り、妻を捨てるらしい。
この男が唯一、執着し続けるのは、“高城家の後継ぎ”だけか。
時に首を締め付けられる様な執着は、当然と言えるが。
裏の一面を知っている息子には、時に見苦しくも思えてしまう。
しかし芳久は密かにこの空間と、この瞬間を嘲笑い、微笑みが止まらない。
「…………分かりました。署名します」
そのまま一歩前に出、ペンを持つとそのまま走らせ証人欄に署名する。
端正で達筆な文字はすらすらを絵を描くような様だった。
署名した後で、芳久は一歩後ろへ下がり、
「よろしいですか」
と聞いてきたので、英俊はそのまま頷いた。
安堵した様な、満足げな表情を浮かべる英俊に、
芳久は切り札を手に身を乗り出す。
後ろ手に隠していた切り札。
一部始終、美菜が吐き棄てた毒の数々。
『………どうしても欲しかったのよ。
プランシャホテルの理事長の妻という名前が』
その音声に刹那、芳久は瞳を見開く。
「…………美菜さん、貴方には愛情はなかったみたいです。
プランシャホテル理事長の妻という名目に、愛情はあったみたいですけど」
芳久はさらり、と毒を吐き出した。
英俊は息子の行動に、背筋が凍る。
(…………………こんな人間だったか?)
“無害な息子”という英俊の思い込みを、目の前の青年が塗り替えていく。
高城芳久は、こんな高尚な計算高い人間だっただろうか。
裏を返せば、冷静な理知的さを秘めている証拠だろう。
しかし、今は無性にこの息子に警戒心を覚える。
「それと父さん、僕、最近、“ある事”を知ってしまったんです」
「…………何を?」
恐る恐る、尋ねた。
息子が実父の利害を知っているとも知らず目線を落とし、表情に影を落としたその刹那。
『_______あたしを、奥さんにして』
そして、モルヒネ、と言葉が呟かれた瞬間、
みるみる英俊の顔は顔面蒼白になっていく。
ICUレコーダーに録音されたのは、美菜の自白。“あの秘密”の一部始終。
(何故、芳久が………)
(美菜が簡単に口を滑らせる筈はないのに)
あの時、
結婚の条件として、優子の死を闇に葬ると決めた。
現に美菜に口を割らないと誓約書も書かせたのだ。
二人だけしか知らない秘密、
欲望の利害の一致の末の過ち、忘れてしまおうとすら思っていた。
_______なのに。
「あれだけ、罵詈雑言を吐いて否定していたのに、
本当だったんですね。母さんを、殺した事を」
「口を謹め、殺したとは人聞きの悪い!!」
その刹那。
青年の瞳に狂気が、表に露になる。
ダン、という轟音。
首元を締め付ける様な感覚を覚えた瞬間、
目の前には静寂な狂気を瞳に秘めた青年が目の前にあった。
見た事もない表情。
逆鱗の、厳冬の、灰色の瞳。
何時もは理性に満ちた青年が、人の胸ぐらを掴みながら微笑を浮かべているのは信じがたい。
「_____ふざけないで下さいよ。
これを、“殺し”以外に何を表すというのです?」
「…………………」
「僕が何も知らないとでも? 全部、知っていますよ。
母さんを裏切った事だけでも許せなかった。
加えてまさか、愛人の為に、妻を裏切り棄てて息子から母親を奪った、なんて、ね………」
その諦観と哀れみに満ちた声音は、まるで鋭い刃物の様だった。




