第199話・浮かび上がる欠片、現れた条件
お待たせしてしまう形となり、
誠に申し訳ございません。
今、目の前にいる青年は、あの無害な次男坊とは違う。
人間は変わるものだと人伝に聞いていたけれども、
この次男坊はいつの間に変わってしまったのだろう。
それとも、変わっていなくて次男坊の本性を
自分自身が今まで知ろうとしなかっただけか。
今は、高城芳久が怖い。
無害な青年という雰囲気を纏いながら、その中で見せる威圧感のある表情や物言い、表情は、どす黒い。
しかし怯んでいる場合ではない。
美菜にはどうしても捨てられない意地とプライドがある。
漸く手に入れた理事長夫人という座、玉の輿婚。
悠々自適に広められた、好き放題に出来るこの生活も玉座も手放したくない。
上目遣いで酷く義理の息子を睨みながら、美菜は告げた。
「あたしは、離婚しないわよ」
芳久の表情は変わらない。
しかし俯くと内心で、くす、と小さく嘲笑った。
(叶いもしない事を抗う)
継母は夢に浸ったまま、有頂天でいる。
この夢から覚める事を拒んでいるのは見え見えだが、
あの王様気取りの理事長には勝てない事も、抗えない事も目に見えているのに。
「そんな個人的な感情、“あの人”に通ると思います?」
「あたしがどれだけ苦労して、英俊さんと一緒になったと思っているの!?」
「貴女はただ理事長夫人っていう立場が欲しかっただけなのに?」
図星を付かれて、美菜は押し黙る。
最初から高城家の身内として生まれ落ちた青年とは違い、
自分自身は高城理事長夫人となる為に一から、全てを築き上げた。
英俊に媚を売り、誘惑し、気に入られる様に費やした年月の努力は、言わないだけで幾らでも自慢出来る。
(あたしが自力で築き上げたものを、簡単に手放すものですか)
「離婚なんて恥じよ、あたしの努力に傷を付けるも同然じゃない!!
英俊さんにどれだけ詰め寄られても、あたしは離婚には同意しないわ!!」
高城芳久への恐怖心を押し殺しながら、そう叫んだ。
しかし目の前の青年の表情は、何も変わらない。
________その威圧感も、恐怖心も。
(女性の狂気って、独特だ)
穢い大人を見詰めきた芳久の心は、良い意味で酷く冷静だった。
自分自身の為に地位に拘る女、
自分自身の気に食わない者を虐め倒し、人格崩壊させて、自己満足に浸っている悪女。
自分自身を棄てても、誰かを奈落に落とす復讐者。
誰もが誰も、自分自身の心に秘めた欲情を晴らしながら、それに満足しながら息をしている。
……………うち一人は被害者だが。
男の見え透いた、読み易く掴み易い欲望とは違って
女の欲望は何処か読みにくくて掴みにくい。
だがその狂気が露になった時の、威勢は凄まじい。
しかし、芳久は、美菜の狂気を見詰めながら思った。
(この人が息を出来続けるのは、もう少しだな)
高城英俊が、自分自身の邪魔者を悠々と息をさせている筈がない。
自分自身に逆らう人間が居たら尚更の事だ。
あの男は虫を殺さない穏やかな理事長の仮面を被りながら、自分自身の害になる者は自分自身の手を一切汚さず、始末してきた。
美菜が離婚に同意しないままであれば、英俊の手によって消されるのも時間の問題。
誰も知らないだけで息が出来るリミットは迫っているのかも知れない。
(_______貴女、このままだと消されますよ)
そう言ってしまおうかと思った。
けれど夢から覚めないつもりなのならば、このままでも居て貰おうか。
それが実母と実兄を死に追い詰めた報復にして、
この長年抱いてきた積年の恨みを晴らそうか。
「また振り向かせて見せるわ。あの人を。
知ってる? 英俊さんは、あんなの母親よりもあたしを愛していたのよ。
現に家に帰って来なかったじゃない。それが証拠よ!!」
「もうあんな失態を見せたら、無理ですよ?」
「そんな事はないわ!!また、あたしに夢中になる様にして見せる。貴女の母親には無理でも、あたしには出来るのよ!!」
美菜の言葉に、カチン、と頭に来た。
実母を、実兄まで侮辱されている様に感じたからだ。
もう現実では高城英俊から見放されたというのに
自己満足の夢に浸っているこの女はまだ自意識過剰な様で気付いていない。
淡い消灯の明かりだけが着く、闇夜の世界。
流石に言葉が無くなったのだろう。彼は俯いている。
表情は伺えないけれども、彼の持つ独特の威圧感も消えた気がして、美菜は強気になる。
芳久が黙り込んでいる隙に、美菜は身を乗り出した。
「これだけは確実に言えるわ」
「…………………?」
「あたしは、あんな女より、勝っている。
現に浮気されても英俊さんから逃げられて、引き留められなかったじゃない!!
対してあたしは英俊さんを逃がしはしなかった。
あんたの母親を無力よ!!旦那の一人も引き留められないなんて。
だからあんな無様な死に方をしたのよ?」
「……………無様の死に方?」
嘲笑う様に、高らかに美菜は、優子を侮辱する。
絶対的な自信が美菜の心には存在した。
優子には出来なかった事を自分自身は成し遂げている。
「………無様な死に方?」
「そうよ。貴女の母親の無様な死に方をしたでしょう?」
芳久が顔を上げた。
優子は無様な死に方をしただと?
この女を嘲笑った。
自分自身を優位に見せる為に威勢を張ったが為に墓穴を掘ったのだ。
(それは、あなた達が仕向けた癖に)
「…………例えば?」
この上無い優しい声音。
青年は少し首を傾けて、悟り切った表情を浮かべている。
それは何かを諦めた様なものだった。
「…………どんな無様な死に方をしたのでしょう。僕の母は」
その刹那。
美菜をはっと、我に帰った。
『これは、私達だけの秘密だ。闇に葬った事だ』
優子の病床で伏せている時、英俊が呟いた言葉。
優子の事は口にはしないと、決めた事を、
つい自分自身の迸った感情が放ってしまった。
「ねえ」
「もう白状しちゃいましょうよ。………何かを知っているんでしょう?」
その方が、楽でしょう?
いつの間にか、芳久は自分自身の傍らにいた。
耳許で囁かれた言葉は、優しい声音な筈なのに、
何処か薄幸と悲壮感に満ちている。
「でも、貴女だけ物を差し出すのは嫌でしょうから
僕からも何か条件を差し出します」
「………条件は何よ?」
「貴女が、この秘密を教えて下さるのなら、
僕が父に話を持ちかけましょう。………“離婚は考え直して欲しい”と」
離婚を取り消してくれる。
それは美菜は無しにしたい、藁にもすがる願いだ。
今の美菜にとって何事にも変えられない誘惑。
「……本当?」
「はい」
浮かべられた微笑み。
そう呟いた青年の言葉と、表情は穏やかだった。




