第197話・切り札が狂気になる瞬間(とき)
美菜への違和感を感じたのは、実家に戻って間も無くの頃だった。
悪阻で体調が優れない継母の面倒を見るのは、
実母の死の真相を知る為と割り切っていた。
だが。
プランシャホテルから帰宅した際、
『…………ねえ、労ってよ』
媚びのある口調。
ちらりと覗いて見ると、継母は携帯端末を握り締めて
誰かと会話している様だった。
通話が終わってから顔を出すか、と思っていた刹那。
『高城家の戸籍に入っても、この子は貴方の子なんだから………』
冷静な思考の中で、バリバリと硝子がひび割れた様な何かが音を立てて崩れていく。
しかし先日、美菜の心内を知ってしまった芳久は、妙に冷静に事を飲み込んでいた。
(…………嗚呼、そういう事か)
美菜の腹に居る子供は、英俊の子でも、
高城家の血を引いている訳ではないのだ。
美菜が身籠っていたのは、表向きは英俊の子と偽りながら、浮気相手との間に授けた子。
『遅かったわね。
あたしを餓死させて、あたしとこの子を殺すつもり?』
『何時までも、昔に拘って…………』
『あたしがどんな思いをしたか…………。
英俊さんの隣に座る為の努力を貴方は無にするのね………。
可哀想なあたし。可哀想なこの子………』
『………どうしても欲しかったのよ。
プランシャホテルの理事長の妻という名前が」
『当然、英俊さんにも惹かれたわ。けどね。貴方の母親は幸せそうだった。プランシャホテル理事長の妻のブランドを持っているもの。
だって高貴な肩書きを持っているだけでも、
それは自分自身の誇りになるでしょ。羨ましく仕方なかった。
プランシャホテル理事長の息子という肩書きを持っている貴方も』
『だから、欲しくなったのよ。
例え奪った形になったとしても構わなかった』
憎悪が沸いた。
継母は単なる“プランシャホテル理事長夫人”という肩書きが欲しかっただけで、
子供は名目上、授かれなければならなかったからだ。
可笑しいとは思っていた。
美菜の態度を見てきた芳久の目に写ったのは
“悪阻と闘う母親”、“我が子が生まれるのを待ち望んでいる母親”には到底、見えなかったのだ。
悪阻が体調が優れない時は腹に向かって癇癪を起こしていた程だ。
所詮は自身が守られた温室に居たいだけの女。
美菜は、肩書きにしか執着心がない。
子供は人質に取った素振りを見せるものだから
裏では何かあったのだと確信し、探偵を雇って美菜の行動を観察して貰って証拠を集めて貰っていたのだ。
ゆっくりと英俊に近付くと、青年はその微笑を深める。
「……………許しませんよ。僕は。
貴方は“僕の母さん”にした仕打ちの心辺りがあるでしょう?」
「…………………?」
微動打しない、その何処からだ虚ろで据わった目付き。
その瞳の中にある諦観と憎しみの籠った色。
儚いながらも厳冬に咲いた冷たい花の様な凍った表情。
「芳久。何を言っている?」
瞬間、あからさまに英俊を鼻で嘲笑った。
この身勝手な男は、何処までも嘘を突き通すつもりらしい。
自分自身を献身的に支えて貰った本妻には
亭主関白を貫き冷たくし仕舞いには棄て、愛人には
嫌われまいと逃げられまいと良き夫になり泥酔した男は、嘲笑と哀れみしか浮かばない。
「母さんは、病死だろう?」
英俊は怒りという感情を抱く前に見せた、
見た事もない次男の表情に驚いては身動きが取れない。
自分自身を嘲笑されているならば当然怒りが込み上げ、
相手を罵倒している筈なのに、何故か出来なかった。
この男は危ない奴だと、心が警報を鳴らし続けているからだ。
英俊の言葉に芳久は、目線を俯かせていたが。
次の瞬間、静寂の理事長室に、ダン、と轟音が迸った。
一瞬、何が起こったのか分からなかったが
恐る恐る目を見開いた瞬間、背筋が凍った。
英俊は壁際に追い詰められ、片方の肩は青年に掴まれている。
本当にそれは人力かと見疑う程に。
そして、英俊は恐れた。
何故ならば、自分自身の隣では果物ナイフが壁に刺さっていた。
それよりも息子の圧巻される、ドスの効いた迫力感のある虚ろに据わった目付きと諦観の備わった面持ちに動けない。
息子に怯え額に汗を浮かべる英俊を見て、芳久は微笑を深めた。
「嗚呼、そうですか。病死ですか。
___“貴方”の中ではね」
「でも、貴方と奥様が病死になる様にと、
細工して死に向かう様に仕向けたんですよね?」
「……………お前、何を言っている!?」
そう背筋が凍り付く中で、そう叫ぶのが精一杯の抵抗だった。
「…………お前、可笑しいぞ」
「何処がでしょう?」
悟りを開いた微笑を、芳久は浮かべている。
「母さんの死を誤解している。
私と美菜が、母さんを死を追い込んだ?
とんでもない誤解をしているじゃないか。
大体、そんな証拠なんて、何処にも無いだろう」
「……………これを聞いても?」
熱のない表情と声音で、芳久は呟いた。_______刹那。
『いつになったら、私を正妻にしてくれるの!?』
その瞬間、英俊は凍り付いた。
この録音音声を厳重に保管していた。もしバレて終えば一抹の終わりとなる。
それを何故、息子が持っている? 息子は一体、何処で見付けたのだ?
忍ばせていた切り札を、青年は器用に隠していた。
これを差し出せば、この男は逃げられない。
『君が叫ばなくても、優子はもうすぐ死ぬ。
安心しろ。私が、優子の死を早めるから。
優子が死んだら君を妻として迎える』
「……………これは、どういう事でしょうか」
微笑を深めながら芳久は、問う。
英俊は怯えや戦きの感情から、大量の冷や汗をかいている。
何か言いたげに口をぱくぱくとさせているが、上手くいかないらしい。
(黙っているという事は、それが答えか)
その父親の様子から漸く、嘘ではないと確信した。
「……………やっぱり、嘘ではないですね。
母さんは回復に向かっていたのにも関わらず、命を落とした。
貴方と美菜さんのせいで」
何故ですか、と問おうとした瞬間、
芳久の携帯端末が震えた。昼休憩は終わりだというアラームだ。
このまま問い詰めようとも思ったが、生憎、午後からは仕事が立て込んでいる。
自分自身の担当の仕事を蔑ろにする訳にはいかない。
芳久は、英俊から離れた。
「まあ、今はお怒りを鎮めるのが良いかと。
美菜さんだってまだ憔悴しておられるでしょうし責めるのは良くないです………」
芳久の狂気の表情は、一瞬で消え去った。
いつの間にか何時も自分自身が見ている、
穏和な表情と物腰に戻っている。
今までの狂気を掻き消したかの様に。
「…………では、理事長。失礼致しました」
『“僕の母さん”を見棄て、冷たい仕打ちを下した貴方に、
同じくしてまた妻を責め棄てる権利が御自分には存在すると?』
凍り付いたあの言葉は、本物だ。
「でも______」
「安心しないで下さいね。
何時か、貴方には、“この秘密”を吐いて貰う事になる」
冷酷に据わった声は思わず、
逃げられないと悟らせる威力がある。芳久に英俊は驚異を抱く。
今まで害のない大人しい次男坊だと思っていた英俊の思考を覆された。
それは、恐怖の存在だと言わせる者だ。
(…………こいつはただ者ではない、危険だ)
(…………あの事を知られていたとは………)
何時も通りの満面の笑みを浮かべ、青年が去った後、
震えた膝と共に英俊は、崩れ去り地面へ座り伏せた。




