第190話・心の壺、血の涙の代償を償う為に
野望、野心、私利私欲、
人は自分自身の心の壺を満たす為に生きているらしい。
誰かの犠牲と、血の涙を踏み潰した上で
満たされている悪魔の心の壺。
自分の異父姉、自分自身の、知らない父親、
尾嶋博人、プランシャホテル理事長・髙城英俊。
________そして、森本心菜。
悪魔は一体、自分自身の懐を満たす為に
どれだけの人を不幸に突き落としたのだろう。
どれだけ自分自身の欲望の壺をを満たせば、彼女は満足するのだろう。
(____いや、この人は満足しない)
理香は、博人の行方が気がかりになっていた。
しかし、繭子の存在も無視できない。
悪魔は、娘の腕を酷く掴むと、
そのまま別荘のリビングルームへ雪崩れ込んだ。
そして、繭子は張り手を食らわしてから理香をそのまま突飛ばした。
_________バシン、ドスン。
様々な不協和音が、母と娘の空間に響く。
「よくも、あたしの人生を滅茶苦茶にしてくれたわね!?」
無防備だった理香は投げ飛ばされ、
リビングルームの床に転がる様に、床に伏せた。
理香は動かない。無防備に突飛ばされた影響で、
衝撃と共に痛みが走るが、そんな事はどうでもいい。
(そうだ。
この人には満足感なんてない。
生きている限り、この人の犠牲に、餌になってしまう)
悪魔の心の壺。
悪魔が、この世で息をしているかぎり。
それを絶ち切らねば、この負の連鎖は終わらない。
その負の連鎖を終わらせる事が出来るのは、
きっと自分自身しかいない。
(……………貴女を認めたくはない。
けれど。罪を、受け入れましょう。
人を裏切り、無慈悲にも、血の涙を流してきたこの罪を………)
私は、
貴女の、分身。
理香は起き上がり、
疎ましげに憂いた瞳で、繭子を見る。
それは、まるで軽蔑するかの様な、呆れた何かを見据える様な。
その冷たい眼差しは、悪魔の心を逆上させた。
「_______________っ、あんた!!」
繭子は走り理香の上に跨がると、その胸ぐらを掴んだ。
瞳は充血し血走り皺がめり込んだその形相や迫力は、悪魔としか言えない。
そんな怒りの沸騰している繭子とは反対に、理香は凛と無表情のままだ。
「それよ…………その、他人事の様な、顔。………腹が立つ。
佳代子に全てそっくり。その顔も仕草も、何処まで似ているの!?」
「……………………」
理香は無表情。
その顔には壊れたかの様な無表情が浮かばせている。
佳代子に似ている、そっくりな平静な顔立ちが、繭子を憎悪を増殖させる。
「なんか言いなさいよ!!」
だが強く胸ぐらを掴まれている理香は変わらず冷静なままだ。
繭子の仰のままに、操り人形の様に、
理香の身体は項垂れ芯を失っている。
アンニュイの表情を浮かべたまま、理香は静かにしていたが。
軈て。
『…………繭子』
ぽつり、と溢れた言葉。
『繭子』
その刹那、懐かしい脳裏に焼き付いた様に呟かれた。
佳代子。憎たらしい異父姉。憎たらしい女。
自分自身から無慈悲に全てを奪う女。
「ああああああ_____________!!」
悪魔の絶叫が、別荘に響き渡る。
脳裏に焼き浮かんだ異父姉の澄んだ声を掻き消す様に。
離れたい、離れたい。
佳代子は消したつもりだ。現に佳代子は息をしていない。
もうその身体もこの世にはいないのに。
その筈なのに、目の前には憎い憎い異父姉が、居る。
段々と現実と幻想の区別が、ぼやけていく。
(なんで、あんたが、居るのよ_____)
膨れ上がり爆発しそうな憎悪と共に
繭子は胸ぐらを強く掴み直すと、そのまま理香を引き寄せた。
「あんたは、どこまであたしを貶めて邪魔をするつもり!?」
般若の様な、悪魔の様な、きつい血走った形相は
この世のもの、人間が見せる表情ではないとだろう。
悪魔の感情の心を逆撫でする事は、計画の内だ。
だからこの感情は微動もしない。
否。こんな悪魔如きに、
感情を剥き出しにする事すら無駄な行動だと思ってしまう。
こんな悪魔、悪女一人の為に。
「………………貴女が、言える事かしら」
「……………え?」
抑揚のない言葉で呟いた。
理香は繭子が茫然自失とした隙を見計らって繭子を押し退け突き飛ばした。
「貴女も、心菜を貶めたじゃない」
純粋無垢な、ただ母親の愛情を求めていた、穢れなきに少女を。
テーブルにあった飾られていた果物と
共に置かれていた果物ナイフを、片手に忍ばせて。
ソファーの傍に突き飛ばされた繭子は理香を睨んだが、娘の表情を見た刹那、言葉が失せた。
理香は繭子に近付き、
屈くと、そっと悪魔の頬を両手で包んだ。
氷の様に凍りついた熱のない華奢な手のひら、何かの感情を潜めた微笑。
まるで、人形の様な抑揚のないその読めない冷たい表情が怖い。
凍る手のひらが、恐怖心をそそらせた。
「…………ねえ。貴女のせいで、誰もが血の涙を流してきた」
「佳代子叔母さんは、その代表だわ。
貴方は異父姉が憎たらしくて仕方なかったのでしょう?
だから、自分自身の手を汚さずに彼女を殺めた。
優越感に浸ったでしょう? あの人が消えて。
貴女が生きている限り、貴女は、人を不幸にする事しか出来ない。
貴女の私利私欲が満たされる度に、誰かが血の涙を流す」
「……………………」
「私は、貴女の娘である事、
貴女の元に生を受けた事を、不幸に思うわ。
森本心菜、母親に操られた哀れな人形。
けれど、気付いたの」
「________私と貴女は、運命共同体。
認めたくとも、その事実は変えられないわ。………だから」
「……………二人で奈落に、地獄に堕ちましょう?
それが貴女に出来る破滅よ」
血の涙の代償を背負いながら、地獄の其処まで堕ちよう。
どう抗っても、この“悪魔の娘”というレッテルは消えないのだから。
ね、と浮かべた優しい微笑は、酷く異父姉に似ていた。
酷く凍っていく背筋、逃げたい筈なのに、不思議と足は動かない。
酷く恐怖心に満ちた表情を浮かべている繭子に、理香は変わらない。
柔らかく優しい微笑。
それは理香の仮面が剥がれ、佳代子と同化した様に思う。
ずっと心の壺は、空っぽだった。
振り向いて欲しくて、空っぽの心の壺にたったの1滴でもいいと望んだ愛情。
けれどこの、心の壺は愛情で満たされる事は無いのだろう。
愛情の代わりに満たされるのは、憎しみという黒。
(この運命からは、永遠に逃げられない)
(だから、憎い憎い貴女と、この運命を終わらせるの)
理香は、背中に潜めていたナイフを、振り上げた。




