第188話・婚約者の野望、悪魔の執着
心菜に繭子に拐われるのならば、
心菜が去ってしまうのなら、自分自身が先に彼女を拐えばいい。
この世界は弱肉強食の早い者勝ちだ。
強者で世渡り上手だけが生き残る世界。
博人は人知れず、此処に来て危機感と焦燥感に襲われていた。
心菜と婚姻を結ぶには、
婿となる自身が森本家の婿養子、姑との二世帯同居、
その二つが婚姻の条件。
繭子には今まで弟の治療費の支援して貰っていて、
可愛がって貰っていたから、結婚後も自分自身への態度は変わらないものと思い込んでいた。
けれど先程の空間で、生憎にも博人は悟ってしまったのだ。
(お義母さんと一緒にいたら、心菜は奪われてしまう)
それは、繭子と心菜の箱庭の様だった。
その箱庭に足を踏み込もうとしても、その箱庭には
まるで鋭利な茨が脚に絡み付き行く手を阻むだろう。
母娘だけ
箱庭を包み込んで誰にも入らせない様な、
まるで、触れる事自体が禁忌の様な
特別な威圧感と雰囲気を感じ、その度に異様な様な感覚に襲われる。
母と娘だけの、空間。
他の者が土足で踏み込もうとすれば、
箱庭を包む茨の針にズタズタにされてしまいそうだ。
だから、傍観者になるしかなかった。
自分自身が居る事は忘れられたかの様な、
酷い孤独と孤立感に襲われたとしても。
繭子が見せる娘への執着は、凄まじい。
まるで名の通り、彼女を繭で包み離れない様にするかの如く。
だから。
(結婚しても、この人は、娘を僕に譲ってはくれない)
(この人が居る以上、心菜は、僕のモノにはならない)
蚊帳の外へ放り出されている中で、博人はそう悟った。
きっと婿入りの形で結婚し二世帯同居の生活が始まっても、
きっとこの孤立感は拭えない。
自分自身はずっと蚊帳の外へ放り出されるのだろう。
ならば。
(奪われる前に奪ってやろう)
ずっと恋い焦がれ、待ち続けていた心菜を奪われるのは嫌だ。
愛している彼女を、奪われるのは耐えられないから。
だから奪わるのなら自分が彼女を箱庭から拐って仕舞おう。
気を失った後頭部座席に彼女を寝かせた後、
博人は運転席に座り、シートベルトを装着した。
後は逃げるだけだ。そうすれば、彼女は永遠に
自分のモノになって、二人だけで生きて行ける。
(心菜は、僕のモノですよ。お義母さん?)
勝った。自分自身の方が先に手に入れた。
そう問いかけると共に、自然と口角が持ち上がる。
微笑しながら博人は後頭部座席に視線を遣り、愛しい彼女へ呟いた。
「ずっと一緒に居ような。僕らは一心同体だよ」
(好き勝手に言っているんじゃないわ)
気持ち悪さを感じながら、理香は心底で呟いた。
どいつもこいつも自分勝手な欲望に汚れた奴らばかりだ。
反吐が出そうになる。
実を言うと、理香は寝たふりをしている。
表向きは気絶したふりをしているだけだ。
しかし理香も柔くない。殴られた鳩尾は痛むが、
殴られた瞬間に途切れそうな意識を手放しはしないと、舌を噛んで痛感を通して意識を保っていた。
意識を手放して好き勝手にされる訳にも、
誰かの落とし穴に嵌まる訳にはいかない。
だから博人の様子を伺って、逃げる隙を冷静に見計らっていたのだ。
博人の時々呟く独り言は全て耳に入っている。
どうやら車にロックはかかっていないから、
その気になれば車から逃げ出せる。博人にまた捕まったとしても、護身用に学んだ柔道、師範の資格を持っている理香の技量ならば成人男性一人くらい簡単に投げ飛ばせる。
(逃げるなら、今かしら)
車が出発する前に。
理香は闇の中で、音に過敏になりながら注意を払う。
チャラリ、と車のキーのキーホルダーの音がした瞬間を見計らって逃げ出そうとした。
しかし、その刹那、
理香と博人の乗っている軽自動車が酷く激しく揺れ動いた。
かなりの揺れに地震を連想をさせて、理香の身は
後頭部座席の足許に投げ出されうつ伏せになる。
何が起こったのか分からない。
しかし。
ひっ、と恐怖に震えた博人の呻き声を、理香は聞き逃さなかった。
(何が起きたの?)
理香は自身の長髪が視界を包む様な体制だ。
バレない様に薄く瞳を開ける。だが、髪の隙間から微かに見えた光景にぎょっとして絶句した。
繭子が、博人の目の前にいた。
車のボンネットに乗り両手をフロントガラスに貼り付けて座り込んでいる。
その顔に刻まれた深い無数の小皺、瞳は血走り充血しギラギラとしている。
その形相はまるで、悪魔、般若の様だった。
その姿は獲物を狙う、猛獣の様だ。
(………やっぱり、この人、人間じゃないわね)
理香は冷静に心内で呟いた。
奇怪な行動、この人間離れした形相は、この女にしか出来ないだろう。
(何故、そんなところに……)
博人は苛立ちと共に、焦燥感を覚えた。
アクセルを踏み出せば逃げ出せるのに。
誰にも邪魔されず、愛している女性を拐えるのに。
「何をしているの?」
どす黒く座った怒声が、響いた。
繭子の形相と共に黒く据わった声音に博人に恐怖心を植え付ける。
理香は唖然と呆気に取られていたが、繭子の行動に絶句するしかない。
世間敵に回しをスキャンダルの渦を巻き起こしているジュエリー会社の女社長が、こんな奇怪な行動をしていたら世間は引いてしまう。
ただ、静観な住宅街で人気のない場所なので、
この悪魔の奇怪な行動を見られなかったのは唯一の救いだろう。
博人は相変わらず、固まっているままだ。
繭子は車内の様子を睨むと同時に、後頭部座席に、
艶やかな落ち着いた色の髪が見えた。
その顔を覆う、零れ落ちた髪の隙間に、
あの女と同じ琥珀色の瞳が、見えた。
(狸寝入りしているの?)
(あたしから逃げたくて、博人を唆したの?)
憎悪と共に怒りがこみ上げ、繭子はぎりり、と歯軋りした。




