第187話・薄気味の悪い人
白石健吾と別れ、自分自身の役割を努め上げた後、
髙城家の実家に帰ってきた。
夜空の下に聳え立つ白亜の豪邸は非常に絵になる。
本当ならば、離縁したも同然の髙城家に用はない。
この家に帰るのだって気乗りはしないのが本心だ。
実母と実兄が、居なくなった家。
けれど。今は、
(…………母さんの死んだ意味は何だったのだろう)
息子だから、その意味を知る権利はある筈だ。
髙城家に居るのは憂鬱な気分だが、
理事長である父親と、実母を押し退けて
妻の座に座った後妻に、真相を吐くまでは居座ってやる。
さあ、今日も、
髙城家の血を引く子供を抱えた後妻を見るとしよう。
もしかしたら、彼女も関わっている可能性も否めない。
身重の継母は、
理事長に近付く為の道具に過ぎない。
母親の死の真相を知る為に生まれた利害、髙城家に居る事はその理由を引き出す為の惰性。
沸き上がる気分の悪さに口元を押さえる。
悪阻だ。
しかし美菜はこの沸き上がる気分の悪さは悪阻だけではない、と思っていた。
(…………あの子のせいよ)
先妻の息子である、芳久。
再婚してからは
彼が家を出て行ったので、気付く事もなかったのだが
芳久が実家に帰省してから美菜は次第に芳久に対して、
言葉に出来ない気味の悪さを感じていた。
常に屈託のない爽やかな笑顔。
微塵のミスのない気遣いと計らい。
彼が家政婦だったならば完璧な品格を備えた人間だろう。
芳久は抜かりない、優秀な息子。
だが。
その屈託のない微笑みと態度は、いつだって変わらない。
変わらない笑顔からは一切感情が読み取れない。
何を考えているのか、何を思っているのか。
一切に穏和な微笑を浮かべ、
表情も態度も変えないその姿勢は、微塵も人間味が感じられない。
それが更に薄気味の悪さを増長させる。
小言も文句も一つ言わず、
表情を一つ変えずに後妻の、継母の身の回りの世話を完璧にこなしている。
その姿は感情のない人形のよう。
まるで仮面を外さないピエロのようだ。
次第に薄気味が悪く、美菜は芳久を不気味に思う様になっていた。
(どういう心境で、継母の、妊婦の面倒を見る事をどう思っているの?)
至れり尽くせりのマタニティ生活は、悠々自適だけれども
芳久の気味の悪さだけは、不快な気分に晒されて不安を感じる。
時折に自分自身の身体にいる、子供を殺められてしまいそうな感情すら拭えない。
こんな不安定な気分では、この子を失ってしまいそうになる。
長年の不倫の末に、漸く英俊の妻の座に座れる事、
プランシャホテル理事長の妻で入れられる事に今まで優越感に浸っていた。
なので先妻の息子なんて、邪魔な存在でしかなく、継母になるつもりなんて更々なかった。
『あたしを、母親とは思わないで頂戴ね』
後妻となった時に、先妻の次男に吐いた言葉。
プランシャホテル理事長の妻、高城英俊の愛妻になっただけで、
憎い先妻の義理の息子の母親になった訳ではない。
暴言としか受け取れない言葉を、彼はどんな心境で聞いていたのか。
美菜が最初に見た芳久の印象は、影の薄い暗いな青年。
芳久という青年が与えた印象は、ただそれだけ。
だから、つけ上がっていたのかも知れない。
いつしか、髙城英俊の息子に警戒心を抱くようになったこの頃。
今日も平然と堂々とした顔で、奴は継母の面倒を見ている。
芳久の私服姿を美菜は見た事はない。義理の息子は、いつもスーツに腰エプロン姿だ。
彼の素の表情も、素の姿も、見た事がない。
完璧な『髙城芳久』は見ているけれど、素顔の人間味のある『髙城芳久』は一度も見た事がない。
彼は一体、どんな人間なのだろうか。
(その仮面の下にある本当の姿は、一体どんなものなの?)
「大丈夫ですか?」
不意に降りかかってきた、穏和な声にはっとした。
「顔色が悪いですよ」
恐る恐る見上げた、青年の表情は心配そうな表情をしていた。
嗚呼。その顔。その隙のない柔らかな表情と態度。
けれど、その青年には人間味はない。
「…………………貴方って気味が悪い」
美菜の呟きに、芳久は首を傾げた。
継母は長成りのソファーを座ったまま後退りし距離を置くかの様に芳久から離れた。
美菜は、腕組みをしながらおぞましいものを見る眼差しだ。
次第に腕組みしている腕は、腹に当てられている。
まるで何かから、自身の身を、己の子を守るかの様に。
芳久は無言。
心配そうな表情を浮かべ、
憂いの表情を浮かべた青年は静かに目を伏せた。
その色白で端正な顔立ちに憂いの表情は、美しい。
やっと人間らしい表情を浮かべた青年は、俯いた後に顔を上げた。
顔を上げた時には、先程の表情に戻っていた。
ただ微笑はない。真剣な表情には疑問が浮かんでいる。
「………それよ、その表情よ。
貴方は人間なの? 薄気味が悪くて気持ち悪い。
どうしていつもいつも、表情や態度が変わらないの?
そんな不気味で薄気味の悪い表情を、浮かべて!!」
怯える表情を浮かべている美菜に対して、
芳久の表情も感情も変わらない。
ただ一つ浮かんだ感情。
(この人は心底、先妻の息子が嫌いなんだな)
凍って、叩き割られた心は動きはしない。まるで石膏の様に。
悪いが、継母のヒステリーに付き合っている予定はない。
芳久が知りたいのは、”実母の死の真相“だけ。
「貴方を見ていたら、貴方に、この子を殺されそう………」
己の腹を擦り、泣きそうな美菜。
芳久は目を伏せた後で、口を動かした。
「そうですか。分かりました。…………ごめんなさい」
誠実な、素直な謝罪だった。
「僕が居たら、気分が酷くなりますよね。
胎教にも悪いですし、僕は失礼します」
けれど。
浮かべている微笑みは、変わらない。
その不気味さを感じる、人間味のない雰囲気も。
青年は去っていく。
だが。
何かを思い出した様に、此方を振り向いて呟いた。
「もしかしたら、
貴女なら、“あの事”を知っているかと思いまして」
「…………あの事?」
この青年が言っているのは、何の事だ?
「でもやめておきます。
僕が居たら、母体に、貴女を、気を悪くしてしまう。
貴女にも、 その子にも申し訳ないですから」
芳久が並べた言葉は、全て便宜上だ。
当たり障りのない、心にもない言葉を並べて平穏を保つ。
最悪な事態に成らぬ様に。
何も情報の収穫がないまま、
髙城家に追い出されたら、全てが水の泡だ。
脳ある鷹は爪を隠す。それが不本意だとしても、
お人好しの青年を演じて、継母に尽くしてる息子であらねば。
淡い微笑みの中で切なさが混じる。
そう言い捨てた後に、青年は完全に去った。
部屋に置き去りにされた美菜は、固まったままだ。
意味を探るにももう青年はいない。
(あの事って、何の事?)
美菜には、検討も着かなかった。




