第177話・申し訳なさ、愛憎の執着の狭間で
事務所には、
濃紺色の夜空と黄金色の月明かりが差し込む。
寒空によって、カーテンが淡く揺らめかせた。
それはまるでウェディングベールの様だ。
机には何十冊という、週刊誌が置かれ、
ある人物の頁が広げられていた。
______JYUERU MORIMOTO、プランシャホテルを裏切り、ジュエリーブランド・auroraと提携経営の契約か。
______JYUERU MORIMOTO、
自社の業績を改竄したとの疑惑。
_______森本繭子、経歴、学歴詐称か。
今まで書いてきた、
森本繭子のスキャンダル記事を見詰めながら、
それらを机に放り投げ、彼は額で杖を着いた。
“嵐の女”はスキャンダルは大々的で、センセーショナルに話題を拐う。
元々『ジュエリー界の女王』と呼ばれていたのもあり
記事を書き、世間に放つ度に旋風を巻き起こした。
しかし、健吾の心境は複雑だった。
(………娘にとっては良い事なのだろうか)
娘が望んでいる事とは言え、
父親が、母親を追い詰め世の中へ生き恥を晒す行為をしているのは。
椎野理香が森本心菜であり、生き別れの娘と知った今、
自身が書き暴いてきた記事に疑念と、こんな母親を貶めている行為を疑念を抱き始めた。
最初は自信があった。
そして、嘗て自分自身を
裏切り去って行った女の華やかな地位を貶める事に、満足感を覚えた。
椎野理香という女性が現れた事すら感謝を抱く程であったのに。
しかし今の心境は複雑だ。
娘の父親として、やって良い事なのだろうか。
プランシャホテルでの勤務も終わり、理香は不意に思っていた。
(尾嶋 博人は、諦めてくれたかしら………)
そう考えて、理香は首を横に振った。
繭子の息子と名乗っても良い程に、執念の性格の持っている。
森本繭子の事だけでも気が重いのに、彼が加わると殊更、理香の心は重くなった。
理香は馴れ合いには、慣れていない。
だから意識的に人を避けていた。
なので人手の多いロビーを通るのではなく、
地下室から、駐車場にある出口へ向かって帰るのが理香のルーティンだ。
駐車場に通りかかった時、
少しばかり聞き慣れた靴音に眉を潜めた。
目の前に居るのは、繭子のお気に入りであり、“森本心菜の婚約者”。
何故、プランシャホテルにいるのか疑問に思ったが
平常心を保って接する。
「………………」
「“迎えにきたよ”」
そう言いながら、博人が浮かべる微笑は
ピエロが浮かべる仮面によく似ていた。
呆然と理香は固まっている。
「……何故、」
「婚約者を迎えに来る事は普通だろ?」
「……………悪いけれど、私は貴方の婚約者ではない。
それに、これから予定があるの」
何処か素っ気なく、そつなく返したつもりだった。
博人の存在感を忘れて通り過ぎようとしたその瞬間だった。
すれ違った刹那_____。
「“高城芳久”のところに、か?」
殺意にも取れる、どすの利いた低い声。
無意識にぞっとして背筋が凍った。
理香に真実を告げられた時、博人は見ていた。
理香と歩く青年の姿を。
実を言うと博人と“芳久とは面識があった”。
なので高城芳久の顔はよく記憶している。
だから、
高城芳久と婚約者が並んで歩く姿を見た時、
二人はかなり親しそうだった。恋人同士と言っても過言ではないくらいに。
二人の姿を見ては、自然と嫉妬心が燃え滾っていた。
その瞬間、理香は強く腕を引かれそうになったが、
隙を見ていた理香は博人へ背負い投げを一本、かました。
まさかこんなところで護身術で始めた柔道が役立つとは思ってもいない。
「悪いけれど、私、そんな柔じゃないの」
にやり、と浮かんだ微笑。
博人は倒れ伏せながら、鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔をしている。
理香の華奢の容姿に、こんな怪力と力があったなんて予想外だったからだ。
「悪いけれど、森本繭子のお縄にはかかわらない。
貴方の元にも戻るつもりもない。
………前に言ったでしょう?」
輪とした面持ちと、落ち着いた声音で告げる理香。
それは言葉には出来ない強い芯が通っていた。
背負い投げを一本、
喰わした所で再び去ろうとした瞬間、
博人の強い力で腕を掴まれ、気付けば車に乗せられていた。
柔道にて黒帯を頂く程の力を着けたつもりだったけれど、
やはり女の細腕と成人男性の力には敵わないのだと悟る。
理香は助手席に乗せられ、唖然としている。
逃げ出そうとドアの施錠部分を後ろ手で触ったが、施錠されていた。
これでは逃げられない。
「………ちょっと………どうするつもり?」
「俺の言う事を聞け!!」
車内に、怒号が響く。
背もたれに背を押し付けられ両腕を掴まれ、
そう顔を近付け、きっと睨まれた。
悪魔が取り憑いた様な表情や、血走る見開いた瞳は尋常じゃない。
掴まれた腕が、痛く感じる。
一瞬、理香は固まったまま、動けずにいる。
何故ならば、繭子の鬼の形相がフラッシュバックしたからだ。
心だけが昔に戻り支配された錯覚に陥ったが、
理香も正気に戻ると、博人を静かに睨んだ。
(………貴方も、繭子に同じ生き物になりつつあるのね)
哀れみ、呆れ、様々な冷たい感情が理香の中で交差する。
軈て不気味な微笑を浮かべながら、
博人は嘲笑うピエロの如く理香の耳元で呟く。
「………君は、僕のものなんだよ?」
その瞬間に、理香は後退りしたくなり、背筋が凍る。
けれど同時にこの場から離れられないと悟る。
いつの間にか
理香の華奢な手首には、結束バンドが嵌められていた。




