第151話・諦観者を甦らせたもの
夜が深まる。
母と兄の眠る墓地に行き、理香を送り届けてから
芳久は高城家に来ていた。
星一つもない夜空。
それらを見詰めた後で、重い足取りで高城家に入る。
芳久は身辺整理をしていた。
ホテルに間借りしている部屋、高城家の自室。
もうすぐしたら、自分自身は居なくなってしまうのだから。
高城家には、あまり足を踏み入れたくなかった。
もう優しい母と兄のいない家に行く意味も無い。
後妻は自分自身を疎ましく思っている。
「最近、よく帰ってくるのね」
ふと、声をかけられる。
嫌味の混じった声音に視線を向けると小柄な体格。
ボブカットの髪に愛らしい顔立ちをした彼女は、高城美菜。
高城家の後妻だ。
美菜はリビングの入口のドア枠に、背を預け腕を組んでいる。
美菜は、嘗て父親の秘書を勤めていた。
距離が近かかった故に、父親が美菜を見惚れるのを引き換えにして家族を棄てたのも、二人が愛人関係になるのも時間はいらなかった。
美菜は、前妻の子供である芳久が疎ましい。
対して芳久も美菜を良くは思っていないのだが。
長い長い愛人期間を経て、本妻の座に居座る事が出来た喜び。
美菜は英俊を愛しているからこそ、夫婦の時間を邪魔されたくないのだろう。
「断捨離でも始めようかと思いまして。
騒がしくてしまいすみません」
「そう言う事なの」
美菜は、ふっと笑った。
「でも今日は、英俊さんが帰って来るまで居てね」
「……何故です?」
「大丈夫な話があるからよ」
手を交差させて、微笑む姿はまるで少女の様だった。
高城家のリビングは、
ホテルのVIPルームと変わらない広さと家具を備え付けてある。
調度な家具の数々に、クラシカルな雰囲気漂う部屋。
芳久。英俊と美菜。
テーブルを挟んで対面式にソファーに座っている。
「久しぶりだな。芳久。少し窶れたか」
「いえ。昨日は少し徹夜していたので」
(_______不味い)
芳久の中で生まれた危機感。
病を患っている事を悟られてしまったら終わりだ。
悟られる様に適当に話術を使い、はぐらかした。
英俊の隣に座っているだけなのに、
勝ち誇った美菜の微笑みは溢れんばかり。
わざわざ同じ空間に家族が揃って何事であろうか、と思う。
(手短に終わってはくれないだろうか)
家族で集まる為に、高城家に来た訳じゃない。
自分自身は単なる身辺整理で来たのだから、言わば
芳久にとっては興味が無く、早く終わって欲しい事柄であった。
「父さん、美菜さんからお聞きしました。大事な話があると。
大事な話とは何なのですか?」
「ああ、それはな」
理事長の男の微笑みが深まる。
「先日。美菜が妊娠している事が分かった。
やはり家族の事は家で話した方が良いと思ってな。
だから。
お前はやがて兄になるんだ」
「今年の残暑か秋には産まれるそうよ」
端から見れば、嬉しそうな夫婦。
しかし多少驚きはしたものの、芳久には特別な感情は生まれて来なかった。
美菜は妊娠を待ち望んでいた事は知っていた。
後妻が妊娠したから、自分自身はそれを聞く為に引き留められたのか。
ただ。芳久の中である思いが横切った。
(______御愁傷様だ。高城家に生まれてくるなんてさ)
妹か、弟か分からない胎児にそう芳久は思う。
不謹慎だが自然とそう思ってしまった。
けれど。
自分自身はもうすぐ死んでしまう身だ。
という事は高城家の未来は、全てこの子に託されるという事か。
今は、高城家の一人息子。
英俊も芳久にかなり執着している。
お腹の子が生まれてくるのなら。
そう思うと、少し重荷が降りた気がした。
自室の身辺整理も大概、進んだ。
あまり物の影もない。部屋を出て、不意に____
奥の部屋に視線が行った。
高城家の後継ぎしか入れぬ、特別な部屋。
前に下調べに来たっきり、あれから入ってはいなかったが。
自然と足が向いて、部屋に入る。
綺麗に整理整頓され、塵や埃も一つもない。
社員の履歴書を見ていたが、やがて歴代理事長の資料に芳久は手を付けた。
高城家は、
曽祖父の代から始まりかなりの歴史を残している。
理事長が召していた服や使っていた愛用の文房具等。
それらは、汚れる事の無い様に厳重に保管されているのだが。
時代の流れもあってか、
書物や写真、ペンは少し色褪せている。
それらを見、時に腫れ物に扱う様に芳久は触れていたのだが。
書物を戻そうとした時。
誤ってペンを落としてしまった。
咄嗟に拾おうと屈んで、指先が黒いペンに触れかけた時。
(……………?)
浮かんだ疑問。
他のペンは色褪せているというのに、まだそれは新しかった。
拾って、品定めする様に芳久は見詰める。
何の変哲もない黒い万年筆だ。
けれど手で書く際に
持ち手が隠れる部分に、少しだけ凹んだ丸い形。
何かのスイッチの様だった。少し躊躇ったが、芳久はそれを押した。
『いつになったら、私を正妻にしてくれるの!?』
甲高い女の声音。
聞き覚えのある声の相手は分かった。___美菜だ。
独り言では無い様子だった。何故なら男の息を飲む声が聞こえたから。
『………いつだって、あなたの傍にいたのは私よ。
優子さんよりも。私の望みは貴方の正妻になって
傍にいる事だけなの』
(_____昔の音声か?)
美菜が、愛人だった頃の。
熱くも切ない声音で語りかけている先は、
なんとなく想像が着いてしまった。
芳久は知っている。
早く正妻にして欲しいと、何度も英俊に迫っていた事も。
子供を宿せば勝ちだと、長年に渡り不妊治療をしていた事も。
『君が叫ばなくても、優子はもうすぐ死ぬ。
安心しろ。私が、優子の死を早めるから。
優子が死んだら君を妻として迎える』
「………………」
芳久は、愕然とする。
優子の死を早める?
死を早める事は、どういう事だ?
(…………………)
刹那。悟ってしまった。
優子が早く息を引き取る様に下したのは、英俊?
「………う、」
嘘、と言いかけた。
しかし実際、美菜が愛人となってから
英俊は妻の優子の事を蚊帳の外にしていた。
酒に溺れるかの如く、早くから愛人だった美菜に泥酔していたのは、否めない。
(_______父さんが、母さんを殺した……?)
だから。
優子が死んだ途端に、早々と籍を入れたのか?
芳久は、愕然としたまま動けなかった。
【補足】
美菜は妊娠3ヶ月、季節設定は1月の設定でございます。




