第149話・復讐者に浮かんだ疑惑
ガリ、と言う音と共に不気味な感触。
瞬間に広がるのは、じわじわとした痛みと鉄錆の味。
(しまった)
理香は誤って、口内を噛んでしまっていた。
痛みに従い鉄錆の味もするのだから、深く噛んでしまった様だ。
軽く面持ちが険しくなり、少し俯く。
この口内に広がる味は、好きじゃない。
不快極まりないのだ。
幼い頃、嫌と言う程に味わった。
何度、この鉄錆の味を飲み込んだだろう。
大人となって離別した今この味を飲み込みたくはないのだけれど。
(椎野理香は、いつまでもったいぶるのだろうか)
健吾は、情報を整理しながらそう思った。
彼女の表情や態度、口振りからまだ森本繭子の隠し玉を持っていそうだ。
けれど、それを引き出せない。
(不思議な人だな)
追おうと、近付こうとする度に彼女は遠退いていく。
それは不自然ではなく自然に。
彼女から近付く来ることは決してない。
だからだろうか。何故か、遠退いていく度に近付こうという気になってしまうのは。
(どうかしてる)
健吾は、けせら笑った。
相手は一回りも年の離れた若い娘。
単なるリーク情報を与えてくれる関係者でしかないのに。
だが。
森本繭子の娘だと告げられた瞬間、意識が変わった。
あの日。繭子に弄ばれ、全てが偽りだと知ってから
森本繭子を、
その子供も憎んでやると健吾はずっと思っていた。
26年間、ずっとそう思い続けて生きてきた筈だ。
椎野理香は、森本心菜。
繭子の一人娘で、佳代子の姪。
彼女こそ自分自身が憎しみを持つ女の娘だと知った筈なのに。
けれど
彼女に対して、憎しみは湧かなかった。
全てを完璧に着飾り作っている繭子に
理香は、化粧気の一つも着飾る事もなく自然美だ。
繊細な美貌に、何かを加えてしまう事は、彼女の良さを無くしてしまう様に思う。
母親とは微塵も似ていない代わりに叔母に生き写しの彼女を、
世の中の人々が『ジュエリー界の女王』の娘だと思うだろうか。
どっとした疲れを覚えながら、健吾はカフェを出た。
外は暗雲で、空は淡い灰色に包まれている。
泣き出しても不思議じゃない空の顔色を伺いながら、ふと思う。
(_____もし、あの子が生きていたら)
別れを切り出されたあの日。
繭子は、妊娠したと言っていた。
まだ何も知らなかった自分自身は、彼女も、
彼女の腹にいる自分自身の子供も責任を取って受け入れるつもりだった。
生きていれば。
生きていれば、子供は成長して。
もし娘が居れば、椎野理香くらいの年齢に、姿に成長していたのだろうか。
繭子の妊娠は、
単なる他人の気を引く法螺吹きだったらしい。
けれど子供が居たのならば、その姿を見て行きたかった。
そこまで思って、健吾ははっとする。
(______森本繭子の、娘?)
娘。
娘なんて、彼女にいたか。
(…………最近、静かね)
理香は内心、そう思う。
今の所、悪魔が暴走せずに大人しくいる。
それは繭子を近くでずっと見てきた理香にとって、少し異様に映る。
これを平穏と捉えて良いのか。
それは、分からない。
けれどいつまた、繭子が暴走し出すか分からない。
昔はそんな母親にただ怯えていたが、今は理香も繭子も違う。
母親から、華やかな名誉や地位を奪った瞬間。
会社が絶望視されていた頃、繭子は取り乱して壊れた。
誰にも知られぬままに心療内科へ通い、精神安定剤を服用している事も、理香は知っている。
威勢は張っているだろうが、何処か脆くなったのも事実。
人、一人の人生を狂わせ壊した。
けれどこれが間違っているとは、思えない。
(_____先に壊したのは、貴女の方だもの)
自分自身は、知らぬ間に壊されていた。
だから。今度、もしまた再び暴れ出しでもしたら。
(_____何度だって貴女を壊し潰すわ。
貴女がした仕打ちみたいに。……戻れなくなるくらいに、ね)
ある意味、自分自身も繭子の罪の一部だろう。
彼女のせいで苦しんだ人々は数知れず。悪魔の罪は只でさえ重い。
自分自身もその罪の一部なのだろう。誰かを犠牲にして生まれたのだろうから。
共に地獄へ堕ちる覚悟もある。そうなっても構わない。
その代わりに、理香は自分自身の幸せも望んでいない。
否。人生に絶望した日に、人としての幸せを持つ事を、理香は全てを諦めたのだから。
娘。
確かに、森本繭子に娘が居る事は世間は知っている。
森本繭子には一人娘が居て、数年前から行方不明らしい。
けれど。
彼女に夫が居た、配偶者が居たという話は聞いた事がない。
そもそも彼女がいつ結婚したのか、或いは離婚していたのか。
それらの情報は全く世間には知れ渡っていない。
(_____何故だ?)
娘が居るならば娘の父親が、繭子の夫が居る筈だ。
そう思い、ネット検索を森本繭子の経歴を隅々まで、調べていた。
だが
やはり森本繭子の配偶者の話は、一切出てこない。
微塵も掠りもせず、娘も一般人という事もあってか情報がない。
繭子は、
自分自身と別れてから結婚したとばかりに思っていた。
けれどその相手、或いは娘の父親は見つからない。
トントンと数回、指先で、机を叩く。
椎野理香は、実娘だ。
彼女もそう言っていたし、繭子の異父姉と生き写しの容姿を持っている辺り、本物だろう。
椎野理香はまだ、語っていない何かしらがある筈。
けれど彼女の口振りや背景からは、父親の存在が全く感じられない。
一人親家庭で育ったのは、薄々解る。
だったら。
森本繭子の配偶者、娘の父親は誰だ?
少し考えて見てから、
不意に浮かんだある疑問に、健吾はぞっとする。
(…………まさか)
一度は否定する。
繭子が妊娠したと言っていたのは、相手を引き付ける為のもので、事実はない筈。
でも。
もし子供が生まれ、生きていたと仮定してみて考えてみれば。
椎野理香、森本心菜は。
(_______俺の、娘……?)
浮かんだ思考に、健吾は唖然として動けなかった。




