第132話・霧の沈黙
プランシャホテル。
誰も居就かぬ、廃棟の一室。
カーテンが締め切られている影響もあり、今が昼か夜かも分からない。
けれど、確かめる気までに視線が行かない。
其処で彼女はベッドの傍らに立ち佇んでいた。
時間がどれくらいに経ったという実感も、目も行かないくらいに。
部屋の空気も変えなければとも思っていたが、体は動かない。
新しく冷やしたタオルを
青年の額に、静かに当てると理香は目を伏せる。
病院から逃げ出して自室へ帰ってしまったが、芳久はまた倒れてしまった。
(…………顔色が悪いわ。疲れた顔をしてる、どうなのかしら……)
あれから痛みを訴えて、再び意識を失ったが
今までの事を、思うとまた長く眠りに就いてしまうのだろうか。
固く瞳を閉じた青年の寝顔を見詰めた。
尋常でもない、危機が迫っている事は分かっている。
けれど。手術をするも病院で戻るも、全ては芳久の意思で決めるもので、理香が独断で行動して良いものではないのだ。
けれど、芳久本人は何も望まないらしい。
手術も。
生きることも。
青年はただ惰性と、諦観で息をしている。
青年がいる事
理香にとっては日常で、あわよくば当たり前であった。
社会人となり会社に入社して初めて出来た友人であり、同僚。
そして自ら率先し、復讐の協力者となってくれたのだ。
彼はかなり力になってくれていた、芳久が居なければ
自分自身一人では出来なかった事もあるだろう。
色々と心配をかけた。
けれど自分は芳久の身が危うい事も、芳久の事も何も知らなかった。
(___私は貴方の事、何も知らなかった)
家でも、会社でも気を抜けない日々だろうに。
それを彼は理不尽さに耐えて、父親に忠実に従ってきた。
それを知っておきながら、自分は復讐しか見ずに、彼に要らない背負わなくて良い重荷を背負わせてしまったのだ。
理香は呆然と、青年の目覚めを待ちながら、自分自身を悔い責めた。
(……………時間はない)
余命宣告を告げられという事は、彼の死の迎えは刻々と迫って来ている。
このままで居れば必ず、確実に。
(___私も、疫病神よね。貴方の、)
「………………」
「……………う」
微かに指先が動いた。
傍らに座り俯き青年を見詰めていたが、指先が微かに動いたのを理香は見逃さなかった。
「……………」
ゆっくりと開かれた、灰色の双眸。
その瞳が彼女へ向いた瞬間、青年は呟いた。
「____理香?」
『____お掛けになりました番号は、電源が切られているか、電波の届かない所に___』
苛立ちがまた一つ生まれ、昂って行く。
これで何度目だろうかと思いながら、繭子は身を投げる様に乱暴に社長室の玉座に腰掛けた。
机を指先で書くと、歯軋りを一つ。
「なんで、電話に出ないのよ。心菜……」
椎野理香が突然、無断欠勤をし姿を消して数日。
十回、何十回と椎野理香_心菜に電話をかけ、繋がろうと試みるが、連絡は一向に繋がらない。
聞こえて来るのは、決まった無機質な台詞。
それももう聞き飽きてしまった。
(小娘のあんたに、あたしをシカトする権利なんて無いのよ……)
椎野理香は、心菜は、徹底的に無視に走るらしい。
早く捕まえなければ逃げられてしまう__と怒りにも似た焦燥感を繭子は覚えていた。
どんな罠を
繭子の腸にある理香への憎悪が増して行った。
意識が戻った。
理香は安堵を覚えながら、冷静な声音で尋ねる。
「___芳久? 此処が分かる?」
「…………うん。全部覚えているし、分かるよ………」
「気分はどう? 頭痛とかは………」
「今は大丈夫」
記憶も鮮明に思い出した。
そうだ。自分を捜し回ってくれた彼女は最終的に此処に行き着いて、代わりに自分自身に余裕が無いせいで、彼女に知られたく無くて、きつい言葉を浴びせたか。
___そう思うと、気不味いが。
(____理香に知られてしまったんだ)
自身の病を。
それだけは、悟った。
知られたくなかった。無害な協力者で彼女を見守っていたかった。
母への復讐しか目に見えない彼女に、他の色等、心配なんて入れたくなかったのに。
けれど。
「さっきは、怒鳴ったりしてごめん。
理香はずっと面倒を見てくれたのに」
「………………そんな事位で気にしなくて良いわ。貴方も色々あるだろうし」
くるりと背を向けて、再びタオルを冷やす理香。
彼女の表情も態度も常に通常運転で変わらないからか、相変わらず真意は読めない。
身を起こした芳久は、己の掌を見詰めると、視線を落とす。
(___いよいよ自分自身でコントロールが利かなくなったんだ………)
もう突然の頭痛に苦しみ、意識を留める猶予もない。
それを自覚した瞬間に、病魔が蝕んでいる事、それに加えて死を実感すらした。
余命宣告の通り、このまま迎えれば、自分自身は確実に死ぬだろう。
「……………理香は、」
「…………………」
「知ったんだろう? 俺の病気の事を」
「……………ええ。全部」
タオルを冷やし直していた時
理香は視線を俯かせ、少し躊躇い黙った後にそう頷く。
微動ひとつしない冷静沈着な理香の言葉に、芳久は悟り、話始めた。
「何ヵ月か前、ずっと頭痛が続いて内緒で病院に行ったんだ。
単なる偏頭痛かと思っていたけど、其処で脳腫瘍があると告げられたんだ」
「………………そう」
それは、まるで昔話を語る様に。
悟った表情と眼差しをする青年の話を、彼女はただ聞いていた。




