第130話・漠然の消えた姿
闇の中で、ただ無機質な音だけが響く。
他には何もない。真っ暗な闇に佇み、呆然としていた。
不意に目を開けた。
目を開けて見えるのは真っ白な、澄み切った様な天井。
闇に居た頃に染み着き慣れた、無機質な音。
そして青年は気付いた。
自分が沢山の管に繋がれ、ベットに眠っている事に。
頭の激痛が今は柔いでいる様に感じる。
酸素マスクの存在に、ふと上げた腕には、点滴の管。
憂いた眼差しで、芳久はそれを見ると悟った表情で、だらんと腕を元に戻す。
記憶を辿れば、確か自分は喫茶店で倒れた、だったか。
薬を飲む猶予もないくらいに、自分の身体は限界まで行き着いているらしい。
あれからどれくらい時が経ったのだろう。
今、自分の現状を見ればきっとあれから病院へ運ばれたのだろう。
たが、倒れた直前の記憶は、まるで誰かが盗んだかの様に、綺麗さっぱり抜け落ちていた。
キョロキョロと辺りを見回せば自分以外誰も居ない。
ゆっくりと身を起こした後、
(___いつまでも、此処に居る訳にはいかないよ)
病気の事は、自分自身しか知らない。
誰かに悟られてしまったら、その時点で終わりだろう?
それは不味い。避けてしまいたい事だ。
幸いか否か痛みは柔いでいる。だからこそ今の内に。
浮かび上がった考えに青年は酸素マスクを離し、身体中に繋がれていた管を引き千切った後に、すぐに行動に移した。
辺りは心身と凍えてしまいそうな、冷たい外気。
寒い真冬の冷たさを乗せた淡い風が頬に触れ、思わず身を竦めてしまいそうだ。
けれど、今の理香にそんな寒さに構う暇はない。
彼女は陽が落ちた夜空の下で、所構わず地を蹴り走り回っていた。
理由は__青年が、病室から姿を消したからだ。
(____何処に行ったの……?)
ずっと付きっきりで、理香は芳久の傍に居たが
日暮れ時、少しだけ芳久の傍から離れた。
病室へ戻ってきた瞬間、病室は、ベッドの上は蛻の殻状態で、在るのは無残に引き千切られた管の痕だけ。
すぐにナースコールを押して主治医に伝えた。
病院は入院患者が消えたと騒動になり、主治医は騒然としたが__。
『引き千切られたみたいですね。客観視でしかありませんが
これは、自分で引き千切った可能性が高い。
自分自身で逃げ出したのかと』
『…………………』
自分自身で、逃げた。
けれど、あの身体が衰弱している青年に出来る事だろうか。
体力面では身体は悲鳴を上げ、衰弱しているのだろうに。
理香はふと芳久の置かれている環境、彼の要望を振り返り思い出した。
脳腫瘍を患っている事は、自分自身だけの極秘。
誰にも明かさない、伝えないでくれという要望だった筈だ。
現に彼の病状は担当医と、居合わせた理香しか知りえない。
彼が自分自身の病状を誰かに知られれば、厄介になる事を知っていたからだ。
自分自身が一番、自身を悟り理解していた。
(また、倒れたりしたら……)
心配が過る。
また、苦しみながら倒れてしまったら?
今も尚、苦しみの中に居たら?
無論
病院内、その周辺を探したが青年は見付けだせなかった。
二人で訪れた場所、見境なく捜し回ってみるが、青年の姿は見当たらない。
___だが。
(____私、何故、必死になってるの?)
他者には干渉も、元々から興味なんて無いのに。
誰にも関心を示さないまま、生きてきた筈なのに。
ならば何故、他人の事は気掛りになるのだろう?
…………不思議だ。
空は星一つもない、濃紺の夜空。
窓からその景色をぼんやりとしたまま、空を見詰めて青年は、その目を伏せた。
あの後、
素早く検査着から元々着ていたスーツに着替えて、
荷物を持ち周りの目を盗んでこっそり病院を逃げ出した。
何度か頭痛で倒れかけた。
けれど意識だけは繋ぐ様に、歯を食い縛り意識を留める。
だが。残っていた少ない体力と気力で振り絞りこっそりと、
プランシャホテルの廃棟、自室に戻ってきた。
病院に居る訳にもいかない。
暫く此処で静かにしていよう。そしてまた普通に戻れば良い。
そう考えた所で、思いが止まった。
けれど。薬を飲む猶予すらない程に痛みに襲われ、倒れたのだ。
それだけ病魔が侵食しているのだと実感した。
確実に病状は進んでいる。振り返った瞬間、今まで通りに、普通ではいられないだろう。
思考に思い浸っていた時に、
コンコンとノックの音がして我に返る。
此処には、廃棟には誰も来ない筈だ。
廃棟に入る前に念入りに周りを見回し、誰もいない事を確認した。
寂れ廃墟と化した此処は誰も訪れないし、自分が居る事も知らない筈なのに___。
「……………芳久?」
凛としながらも、控えめな声。
この声は間違いなく、椎野理香だ。
『_______芳久?』
その瞬間に、脳裏にフラッシュバックし思い出した。
自分自身が最後に倒れた瞬間、意識が途切れる前の事を。
意識が途切れる寸前に聞こえた声は、彼女だ。
激痛が走る思考の中で、芳久は悟りを開く。
理香に知られた。
「芳久? 居るなら、返事をして……」
「________来るな!!」
咄嗟にそう返した。
ドアの前には心配な面持ちで、理香が居る。
最後の砦、手掛りに間違いはなかったらしい。やはり青年は自力で自室に戻っていたのだ。
理香は驚きと共に、青年の所在が掴めた事に安堵する。
「___見つかって良かったわ。今は……大丈夫なの?」
「………………………」
理香の問いかけに、芳久は黙る。
暗い空間に、沈黙が流れた。
だが。
「気持ちは分かる。干渉はしない。
けれど、此処で会話していたらバレてしまう。貴方への渡す預かり物も預かっているの」
「じゃあ、其処に置いて行って____………」
鍵を解錠して呟いたその瞬間、
稲妻の如く、頭に激痛と衝撃が走る。
熱さ、猛烈な痛みに襲われ、蹲った。
芳久の微かな呻き声に気付いた理香は何度か、ドアをノックした後で、青年が開けようとしたドアノブを引く瞬間を狙い、と突撃する様に開けて入った。




