第128話・揺らぐ水面下
誰が始まりだったのか。
きっかけはなんだったのか。誰が生み出した物だったのか。
それは、きっと誰も分かりやしない。
アパートの一室。
物はきちんと整頓されているが、机の上には
辞書にも勝る書類やノートが、束の様に積み上げられていた。
心まで凍ってしまいそうな冬の淡い風が吹いて、
ノートの頁をぱらぱらと捲った。
白昼だと言うのにかなり空気が冷えている。
流石は冬の寒さだと思いながら窓の景色を見詰めながら、
通話が繋がった先に声をかけた。
「____あの」
ブツ、と何かが途切れた音がした瞬間に
ツーと無機質な機械音に変わった。同時に諦観と悟りを覚え、無意識的に溜め息を着く。
これで何度目だろうか。内心何処かでこれを聞き慣れてしまっている自分が居る。
闇色を移す画面には、女々しく恨めしげな表情をした男が写っていた。
返事代わりに舌打ち一つ。
ポケットに入れていた煙草を一つ取ると、吹かした。
(___難儀だな)
吹かした煙草の煙がふわりふわり、透明な絵を描いては作り空へ消えて行った。
それらを見詰めながら、富男は欠伸をした後に背伸びを一つ。
長時間、同じ姿勢をしていた影響なのか肩がバキバキ、と鳴る。
ノートには、人物の氏名、
その隣には連絡先の番号が書かれている。
その文字にはそれを否定するかの様に引かれた赤線。
森本佳代子に関わった人間の氏名を割り出し連絡先を調べ上げ、片っ端から連絡を付けてみるが、一つも繋がらない。
_____JYUERU MORIMOTO 社長室。
「____無断欠勤?」
書類を見ながら、社長秘書の石井が放った一言に繭子は怪訝な顔をした。
長年の付き合いで繭子の怪訝な表情には慣れている筈の石井だったがある人物の事を言った瞬間、女社長は見たこともない形相をした。
それはまるで、蛇に睨まれた蛙の様だ。
「はい、連絡も無く突然、無断欠勤したと。
ただ椎野さんは無断欠勤をする様な人ではないと
先方から聞いておりましたから……此方も同様しております」
「___そうなの。もう良いわ、下がりなさい」
物を投げる様な物言いで繭子が言うと、そそくさと逃げる様に石井は出て行った。
______開業以来だ。あの女社長の怪訝な表情を見たのは。
何か気に触った事は言ったつもりはないが。
秘書が出て言った後、繭子は両手で頬杖を作り考え込んだ。
(心菜が、無断欠勤した?)
椎野理香に、無断欠勤等はあり得ない。
有給休暇も消化せず、取り憑かれた様に仕事一筋に生きている女なのに。不都合が生じれば無断欠勤等は一切せず、律儀に何かしら会社へ連絡を入れる筈だ。
なのに。
派遣兼任社員として来た今までも
心菜と知ってからも、会社には穴を開けずきちんと出勤していた。
「___あたし、舐められてるのかしら」
心菜は、自分に一切反発等しなかったが
椎野理香__心菜は違う。
自分自身を屈辱を味わわせ、奈落へ突き落とした女だ。
一時期、自分自身を操ろうともした人間だ。
理香に舐めてかかられているのは、繭子は何処かで感じていた。
__ぎり、と歯ぎしりと共に、手の力を強めた。
(_____憎い……憎くて堪らない…………)
(____許さない、逃げるというの?)
込み上げて来るのは闇色の永久の憎悪。
自分自身の全てを壊して、仕舞いには脅迫までした女だ。
無断欠勤という事は、JYERU MORIMOTOを、気高い自分自身を無視したという事だろうか?
見下されている、舐めてかかられている。
繭子は、そう感じた。
しかし次の瞬間、ふっと嘲笑うかの様に笑う。
プランシャホテルに連絡してやろう。
お宅の絵に書いた優秀な社員が、派遣先で無断欠勤し職務放棄したと。
椎野理香は優秀な人材で、絵に書いた様な人柄だと聞く。
そんな優秀な人材で成績を残す彼女の顔に泥を塗ってやろうではないか。
(逃げるなんて許さないわよ)
自分の元に戻し、自分の計画通りに生きて貰わねば。
あれだけ自分を世の中へ屈辱に晒したのだから、
その見返りを貰わないと気が済まない。
___心菜は、そもそも、その為に産んだのだから。
(____優秀な人材………)
そう考えた後で、繭子ははっとして気付いた。
その刹那にまた、腹の内が留めのないドス黒い憎悪に満たされてゆく。
まるで、“あの女”を見ているみたいだ。
森本佳代子。
彼女と心菜は、何も変わらない。
寧ろ相違点を見付けろという方が難しく、娘を考える度に異母姉を思い出す。
憎悪という感情のせいで、腹の内がと心の内が熱くなって行く。
脳裏にその姿が浮かぶ度に憎悪が増して行き、気分が害される。
__二人とも、何故、自分を苦しめたがるのか。
(___あたしが、何をしたって言うのよ…………)
日は暮れて、濃紺の夜空へと変わる。
陽が落ちた影響で、冬の寒さは、空気は更に冷たくなっている。
小さな机に広げたノートには、人物の氏名と連絡先とそれを潰す様に引かれた赤線が、ノートの欄には埋め尽くされていた。
結局、森本佳代子に関わった関係者を調べるだけで日は暮れた。
富男は、げんなりした表情で疲れを見せながらも、最後の欄にある連絡先を見た。
「___白石健吾、か」
彼女の報道に関わった記者らしい。
もう何十件も連絡に関わりを付けようとして、玉砕した富男にとっては諦めの境地に居るが_____。
駄目元で相手の連絡先の数字を押す。
(___また門前払いかね)
数回のコール。
あまり、期待はしていない。だが__。
『はい』
凛とした声が、応答した。




