第109話・復讐者の涙、協力者の温かみ
何故かは分からない。
けれど、無性に目の奥が熱くなった。
頬を撫でる冷たい風が余計にそれを自覚させて、__痛い程に。
「……理香?」
芳久の呟きにも反応しない。
反面、芳久は驚きを隠せない。初めて見た。椎野理香の涙を。
彼女が『儚い』と思ったのはこのせいだったのだろうか。
儚げに__端正に整った横顔。
夜空の下で涙を流した彼女は、あまりにも美しかった。
それは触れてしまえば壊れてしまうのでは、という感覚を覚える程に。
気のせいではない。本当に何かがあった。
何時も凛とした彼女が涙を流すくらいに。
(___何があったんだ)
「__理香?」
「…………」
その一言で、ようやく我に返った。
我に返るとぼんやりとしていた視界が、はっきりとする。
ふと声の方へ視線を向けると、芳久は心配そうな面持ちでハンカチを差し出していた。
「………どうしたの?」
「………………?」
何故、そんな心配そうな面持ちでハンカチを差し出している?
「__それは此方の台詞だ。先ずは涙を拭きなよ」
「…………え…? 泣いてなんかいないわ………」
「嘘を付け」
芳久はそのまま、理香の涙をそっとハンカチで涙を拭う。
ハンカチに触れた冷たい感触に、ようやく自分自身が泣いていた事を理香は自覚した。
椎野理香になってから涙なんて流した事は、無かったのに。
「__涙を流す程に何かあったんだろう?」
「…………………」
青年の優しい言葉が、刃物の様に突き刺さった。
その優しさが突き刺さる度に、心が苦しくなり拒絶する。
止めてと叫ぶ度に、ますます目の奥が熱くなり、理香は自然と小さく俯いて項垂れる。
(___お願い、優しくしないで_)
その優しさが、痛くなるから。
一瞬、躊躇い迷ったが
青年は、彼女の華奢な肩に手を置くそのままと自分自身の身に寄せた。
椎野理香は変わってしまった。そう思っていた。
けれどそれは勝手な思い込みと誤解でしかなかったと気付く。
強気に復讐者に成り変わったとしても、本来は弱い面がある孤独な少女のままだ。
理香は、静かにして俯き項垂れていた。
「____理由は言わなくていいよ。
もう辛い時はその思いを泣いて叫んでくれたら、それで良いんだ」
自分自身の殻に籠りつつある、理香に降り注いだ言葉。
それは痛い程に心に響いた。
「一人で抱え込まないで。
たまには俺にも協力者らしい事をさせて」
「……………」
ふわりとした温もり。
スーツのジャケットをかけて、そのまま肩を引き寄せていた。
とん、とん、と芳久は理香の肩側面を叩く。
まるでそれは子守唄を歌うかの様に。
理香には知らないもの。
自分自身には縁がないものだと知らずに生きてきた。
母親にも誰にも甘える事も無く、大人になってからはそれを拒絶して生きてきたのに。
脳裏が混乱して、
何をしているのか、何を考えても分からない。
考えてもどれも答えのない物ばかりで、どうしたらの良いのか分からないのだ。
けれど不思議だ。
心は何処かで拒絶するのに、この温かさは安心出来て温かい。
その頼りがいのある優しさに触れたせいか、余計に涙は止まない。
(負けた)
この協力者の前で、強がりなんて、出来なさそうだ。
夜空の下。
初めて、復讐者は、自分自身の弱さを見せた。
娘には、自分自身のモノには_自分自身しか覚えさせない。
誰かが入り込んでしまえば、誰かの考えや思いを取り込んでしまうだろう。
繭子にとって、娘は自分自身の好きな様に利用する道具に過ぎない。
だからこそ、自分自身の玩具が母親以外を覚える事は許さない。
自分自身の玩具は、自分自身だけを覚えてくれれば良いのだ。
(心菜は、あたしだけのものよ)
(心菜が、何かを覚えるなんて、絶対に許さない)
そんな思考から
全てを断ち切った。娘に関連するモノを。
娘の父親も、血縁も。
夜中。
服やら物が散乱した道をかき分けて歩き
キッチンに置かれた浄水器から水を汲むとそのまま、繭子は一気に飲み干す。
冷たい水を飲み干した影響なのか、脳が冷えていく感覚を覚えた。
口許を拭いながらも
心を占拠する憎悪の炎は荒ぶり、止まる事を知らない。
繭子が、理香に不信感を、自分自身を惨めな奈落へと
突き落としたと決め付けから、怒りの感情が占めていた。
「___ちゃんと育てて面倒を見たじゃない。
なのに、貴女は、どうして言うことを聞いてくれなかったのよ………!」
(全てを断ち切って、自分自身だけの操り人形にした筈なのに)
それなのに、自分を裏切って
まるで、最初から居なかった様にすり抜けた娘。
椎野理香の今の有り様を見ると、憎しみの塊である娘を、繭子は思い出していた。
椎野理香。
自分自身を奈落へと突き落とした女を、許さない。
繭子は、飲んでいた陶器のコップを、腹立ち紛れに投げた。
流し台に投げた陶器は脆くもバリンと音を立てて割れ、不規則に破片が飛び散る。
自然と繭子の口角が上がり、けせらせらと微笑を浮かべる。
「今に見ていなさい。後で後悔させてやるから。
あたしを裏切った裏切り者には只では済まさないわ。
いざとなれば、息の根だって止めてやる___」
繭子は、見境が付かなくなっていた。
だが。この怒りと憎悪さえあれば、無敵だ。
自分自身は何だって出来る。
「………父親が、判ったの」
「父親?」
だいぶ泣いたか。
涙が枯れて感情が治まった後で、理香は呟く。
「沢山のマスコミの人達がいるのに、
その輪をかき分けてあの人に接触しようとした男の人が居たの」
「…………………」
「小野順一郎という人よ。
私はマスコミの影で隠れて、あの人と男の人の会話を聞いていた。
会話を聞いているとどうやその人が、私の父親らしいの」
芳久は驚いて、絶句する。
理香の父親が判明したのも驚いていたが、
小野順一郎と言えば、名前は聞いた事がある。
小野不動産を経営している不動産王にして、小野家と言えば知る者が知る資産家で有名だ。
彼女が、不動産オーナーの娘だとは。
理香は全て話した。
あの日の経緯も、彼が父親かも知れないと。
そして______彼の娘、小野千尋とは同級生でいじめを受けていた事も。
だが。確信が取れず、悩んでいた事も。
「___つまりは、千尋という人と理香は異母姉妹だと」
「……………考えるだけでゾッとする。私をいじめていた相手が
異母姉で、その人が父親が、私の父親でもあるだなんて」
「それで、ずっと悩んで落ち込んでたって事か」
「…………」
泣いていたせいか、少し目が赤い。
理香の表情は相変わらず、影を落していて曇っている。
芳久は少し頭を抱えていたが、ふと案が余儀った。
「要は確信が欲しいって事だろう?」
「………ええ」
「それなら、良い考えがあるんだけど」
青年の微笑みに、理香は首を傾けた。
理香の住むマンションまで、芳久は見送ってくれた。
理香は少し気不味いながらに
「___今日はごめんなさい」
と呟く。
人生で初めて誰かにすがり泣いて甘えた。
付き合ってくれた青年には申し訳なく思いながら、視線を落とす。
「___良いんだよ。そんなの。俺こそ、ごめん。
けれど言っただろう?辛い時は泣いて良いんだよ。頼って欲しい。
辛い感情を溜め込んでいたままでいたら自分自身は壊れてしまう。
そうしたら、復讐すら出来なくなるだろう?
俺は協力者だから、微塵も迷惑だなんて少しも思っていない」
「…………ありがとう」
「少しは落ち着いた?」
「ええ。貴方のお陰で。本当にありがとう」
「良いってば、それよりちゃんと気力付けなよ?」
「分かった。もう大丈夫よ」
何時も通りの彼女らしさに戻って安堵した。
マンションの部屋へ入ろうとした刹那、理香は兼ねてより抱いた疑問を口にする。
「あ__そう言えば、芳久。今日はどうして欠勤を?」
そう聞かれて、ぎくりとした。
“あの事”は誰にも言ってはいない。自分自身だけの秘密だ。
彼女にも、誰にも告げる事はない、告げるつもりもない。
(___それに言うべき事ではない)
「少し、用事があってさ。それで有給を取っていたんだ」
「そうなの……?」
青年はなんとか、
話を反らして誤魔化した。
少し色恋沙汰を書かせて頂きました。
芳久と理香の仲も、少し変化していると良いなと思ったりします。




