第8話・見えない束縛
空は、群青色__夜明け前の空。
綺麗な色合いの空の下で、彼女は立ち止まっていた。
周りには何も無い。
代わりに、自分自身の姿は違う。
椎野理香ではなく、“森本心菜”となっていた。
_____どうして?
少女は、そう思った。
空の色と同じ群青色の、淡い霧の世界だけ。
だが。ふと、目の前に誰かが現れた事に気付いた。
軽いウェーブのかかった、ミディアムヘア。
誰にも見抜けない、或いは“自分自身”だけが解る魔性の毒味のある雰囲気を纏った顔立ち。
思わず目を見開いた。だが、確かに居た。
忘れる筈がない。____この女を。
「心菜、おいで?」
己の両手を広げ、微笑む表情。
自分が求めていた優しい母が、其処にいた。
その言葉に甘えて、思わずこの手を伸ばそうとした時。
「…………っ」
頭に激痛が走った。
違う。
これは、呪いだ。
愛されたいという自分自身への思いを餌で釣り、娘の自由を奪う。
それを思い知った時のことを思い出せ。
これは悪魔の誘惑という名の呪いなのだ。
心臓が止まりそうな衝動が、全身を襲った。
あの姿。あの、自分を哀れむ様な表情と眼差し。
悪魔だ。束縛という毒で自分自身を束縛する母親の姿をした悪魔。
「……嫌」
そう呟いた瞬間に、意識が覚醒する。
気付けば、見慣れた風景の天井が視界に映っている。
小鳥のさえずり鳴く声と、カーテン越しに差し込む光で、朝だと気付いた。
静かに起き上がると、自分自身の掌を見詰める。
そして唇を噛み締めた後、抑える様に左手で反対になるに己の右肩に手を置く。
まるで抱きしめるかの様に。物憂げな表情に浮かんだ悲壮感。
(今更、思い返しても遅いのに____)
あれは、ただの夢じゃない。現実の夢だ。
だが今、自分自身に起こった事ではない。
違和感が残るがそう思えば、心の底から安堵を浮かんで胸を撫で下ろす。
もう昔のこと。
今はあの悪魔から完全に離別したのだから、思い出さなくても良い。
けれどあの悪魔は時折、
自分自身の夢の中に出てきては、また自分自身を苦しめる。
そして全てを捨てた筈の自分自身に、また毒を吹き込もうとするのだ。
“還れ”と。
身だけは離れたとしても、心が覚えている感覚。
それほど執念を燃やして傷付けられた、傷痕。
全てを塗り潰しても、“心”に残された、毒のある爪痕。
起床して数時間経つというのに、あの悪夢から醒めていない。
仕事ならば少しは気は紛れるというのに、今日は生憎の休日だった。
基本、多忙な日々に追われている身で
休日は有り難いのだが、今日は特段と目覚めが悪い。
多少成りとも眠れば疲れは取れる筈なのに、悪夢を見たせいで
倦怠感が増して残り、気分も憂鬱でも優れない。
あの悪魔を思い出すだけで、気分が悪いが
それ以前に、そんな棄てたい過去と悪魔の母の事を
引き摺っている自分にさえ嫌気がしてしまう。
“最期の最期の瞬間”まで哀れにも求めていた。
“あの瞬間まで”、ずっと願っていた"愛情"。
それは、意味を知った時に砕け散って"憎しみ"に変わった。
だから、このまま一緒にいても
自分の願い事は叶わぬまま、嫌われたまま
悪魔の操り人形のままの状態で良い様に使われるだけだ。
だからこそ、あの日。
全ても持って夜逃げの如く、悪魔の屋敷を抜け出した。
あの悪魔に見付かってしまいそうな恐怖の中、
ただがむしゃらに地を蹴り走り続けて逃げた。
足の疲労を感じる余裕すらもなく
走り続けようやくやっと遠くへ逃げた時、無性に肩の荷が下りてから
ようやく生まれて初めて、自分自身の"自由"を得た気がしたのを、昨日の事のように覚えている。
悪魔から離れた事を後悔はしていない。
寧ろ、あれが正しかったのだと思える。
嫌いな者同士が一緒に居ても、良い結果は生まれないのだから。
そんな思考に浸りつつ、物憂げな表情のまま、
理香はパソコン画面の検索ワードに浮かんだ言葉を入力し始める。
キーを押すだけでも指先が震える。
それを抑え、理香はキーを押して検索をかける。
彼女が検索した名前は______。
_________森本 繭子。
それは、興味本意だった。
知る事が怖いと思う反面の知りたいという好奇心。
認めたくはない自分の、生みの母親。
自分自身が学生の時には、既に大企業までに成長した
会社の社長だったから、ネットの検索にヒットしない訳がない。
理香の予想通り、ネットの検索結果には相手の情報が出てきた。
ネットで探れば、情報はいくらでも乗っている。
会社の細かい経歴や、社長の個人情報。
まとめサイトの情報。
デマと事実で、世の中は成り立っている。
華麗な経歴の中で、あの女は、自分自身の地位とは引き換えに
自分自身の家庭と自分自身の娘をも犠牲にして生きてきた。
罪の意識は全く感じずに。
自分自身の華麗なる地位は、
偽りという泥の中にあり、娘を犠牲にして得たものでしかない。
あの悪魔は全ての人間を下にして、頂点に上がる魔性の女。
ネットに書かれているのは、“華やかな女社長”としての顔だけ。
(____あなた達は、何も知らない癖に)
理香は、内心そう思った。
この女が、とんでもない嘘吐きで
実の娘を気に入らず、ずっと精神的虐待をしていたなんて、知らない癖に。
華やかな女社長が存在する裏で、犠牲になっている人間が居ることはきっと知らない。
彼らは汚いものに目を背け、綺麗な部分しか見ない。
腹の中の恨み節が炸裂する中で探ったのは、
会社のホームページの、社長の知らせ書き。
けれど其処には、理香の予想とは裏腹の言葉が乗せられていた。