第1話 惨状
いつもより厚く見える雨雲が魔王城を覆った。
自室の窓越しに外を眺めながら、時間が経てば雨雲は通り過ぎるだろうと思っていたが、その雨雲は中々動かず、冷雨と雷鳴は止まなかった。ふと耳を澄ますと怒声が聞こえた。父上が僕の部屋をノックしたのはその時だった。
廊下には父上の他、数名の側近が普段とは違う表情を浮かべていた。感じたことのない恐怖に父上のローブの裾をグイッと引っ張った。
「フェイザ。大丈夫だ、安心しろ」
「何が起きたの?」
「それは後で説明する。先に例の部屋で待っていてくれ」
例の部屋、それは緊急事態が発生した時に身を隠す部屋のことを示している。つまり、今は身を隠すほどの何かが起きている。
「父上、どこへ行くの? 僕も一緒に連れて行って」
「すまない、フェイザ」
父上はそう言いながら首を横に振った。
「魔王様。お急ぎ下さい」
「分かっている」
側近の一人に振り向き、無言のまま首を軽く動かして命令を下した。すると側近は「御意」と言い、僕の手を掴んで「フェイザ様、こちらへ」と言って、例の部屋がある方へ向かった。
振り向き様に父上を見た。父上も僕を見つめていた。その笑顔は、とても輝いていた。
例の部屋に到着すると側近は「魔王様しかこの扉を開けない約束はご承知だと存じます。故に、魔王様以外の何者かが扉を叩いても開けてはなりません。もし扉を閉めてから・・・・・・三時間経っても魔王様が来られなかった場合は、そちらの反対側の扉から次の間にお向かい下さい。別の側近がご案内いたします」
駆け足で言われて全部覚えきれなかった。だが側近は「では、閉めます」と言ったので、閉まりかけの扉の縁を無意識に掴んだ。
「フェイザ様、危のうございます!」
「一つだけ教えて」
自室で聞こえた怒声。もし止まない冷雨と雷鳴が意図的なもの――魔法そのものだとしたら。その疑問を口にした。
「父上は勇者と死闘をするため、僕をここに隠したの?」
側近は僕の顔を数秒間だけ凝視した。そして「魔王様が敗北する訳がございません。どうかご安心下さいませ」
側近までも笑顔を見せてくれた。その笑顔を絶やさないまま扉は重い音を立てて閉まった。
隠し部屋に設えている燭台に火を灯した。扉の隙間、空気穴から流れてくる微かな風に火が揺れている。火が揺れれば揺れるほど胸騒ぎを覚え、壁に映る自分の影も火の揺らぎのせいで揺れる。その影を見る度に嫌な汗が吹き出る。沈黙が続く中、大きな衝撃によって城全体が揺れた。燭台の火に息を吹きかけて消し、気配を殺した。
この場所は父上がいるはずの謁見の間と近いが、そう簡単に見つからないはず。
扉に密着して耳を澄ました。遠くの方から人間の声が聞こえた。
「――魔王、貴様一人だけだ」
「――と大差ない勇者とその仲間に我が――」
「聖剣なら貴様を――」
「なら、我も魔英大剣グラムを――」
父上と勇者が対峙している。しかも父上一人だけ。他の側近達は!? やられてしまったのだろうか。それなら僕も加勢するしかない。自然と右手に拳に力が入る。左手で扉の取っ手を掴んで開けようとした。だが取っ手が意思を持っているかのようで、全く微動だにしなかった。
あの側近。僕が扉を開けることを予想して内側から開かないよう魔法を仕組んだのか。それなら魔法で扉を破壊しようと詠唱した瞬間、扉が青白く光ったのが見えたので、詠唱を中断した。
反撃の魔法壁。詠唱した者の全身を青白い魔法の衣で包み込み、あらゆる魔法を跳ね返すことが出来る防御魔法。上級者になれば自分自身ではなく意思を持たない物体にも詠唱することが可能になる。本来なら敵に反撃の魔法壁を詠唱したことを隠すのだが、この扉に施した反撃の魔法壁は魔法を感知した瞬間に青白い光を放つように仕組んでいる。反撃の魔法壁が詠唱されていると知れば魔法詠唱は中断する。つまり僕が魔法で扉を壊すことも予想していたことになる。効果が消えるのはおそらく三時間後だろう。
「うおおおおおおおおおおおおおお!!」
父上の声だ。
断末魔のような声。僕が扉に耳をつけると、叫び声に続いて、金属同士がぶつかり合う音が聞こえた。父上の魔英大剣と勇者の聖剣かもしれない。すると今度は何かしらの魔法で壁や床が破壊されるような鈍い音が響いた。土魔法だろうか。次は燃え盛るような火と轟く風の音。火魔法、風魔法。すると耳から冷たさが全身に伝わり、扉から体を離した。これは水魔法。ここまで冷気が届く術者がいるというのか。
冷たさに驚いている矢先、死者と死神の笑い声が不気味に轟く。これは父上の闇魔法だ。続けざまに女性の声が聞こえた。悪魔女王リリス。父上が得意とする召喚魔法。そうだ、食らい尽くせ。勇者共の魂と肉体を食らい尽くせ!
「ぬおおおおおおおおおおおお!!」
聞こえたのは父上の叫び声。死者と死神、そして悪魔女王リリスの悲鳴も聞こえた。召喚魔法で召喚された魔族が消滅する時は詠唱者の意思または絶命した場合。召喚された魔族が絶命する時は詠唱者が絶命した場合のみ。
そんな・・・・・・馬鹿な。
「――りもの・・・・・・め。――るさ・・・・・・ぬ」
はっきりと聞き取れなかった父上のその言葉が最期だった。
訪れた静寂に僕はその場にうずくまった。声以外にも剣と剣の刃がぶつかり合う音も、魔法が何かしらを破壊する音も止んだ。
父上が負けた。勇者の手によって負けた。嘘――。嘘だ。誰か嘘だと言ってくれ。いや、誰も言ってくれない。おそらくこの城に僕以外の魔族はもう一人もいない。
僕はまた一人になってしまった。
「うわああああああ、ぐふぁ!!」
人間の叫び声を聞いて反射的に飛び起きた。
何だ。何が起きた!? この声は勇者か!?
すると別の男の断末魔、その声に重なって若い女性の断末魔が聞こえた。
人間三人の声。推測するに勇者と仲間二人。剣士と賢者かもしれない。
「――は、他の部屋を見てくる」
「――なら、宝物庫だ」
叫び声を発した人間とは別の、屈強そうな筋肉が似合う野太い声が聞こえた。それに答えたのは紛れもなく魔族の声だった。
何故、人間と魔族が会話をしている? 宝物庫? 父上の宝を狙っているのか!?
「そうだ。一つだけ言っておく。勇者達と魔王は同士討ちだった。これが事実だ。忘れんなよ。他の奴等にも言っておけ」
同士討ち・・・・・・だった!?
それを事実にする、と口裏を合わせることは、言い換えれば同士討ちは事実ではないことを示している。簡単なことだ。つまり父上は勇者の手によって倒されたのではなく、父上の宝を狙っている賊の人間共、または魔族によって討ち滅ぼされた可能性が極めて高い。クズな人間だけではなく、人間と共闘している裏切り者の魔族によって父上は命を落とした。
複数の足音が聞こえ始めた。かなりの人数がいることが分かった。僕は扉に背をつけて側近が施した魔法の効果が切れるのを待った。その間にも複数の足音は往復しているのが分かった。やがて魔法の効果が切れ、扉の取っ手が動いた。すでに足音は聞こえなくなっていた。
幼少サイズのローブの裾をまくし上げて、真っ先に謁見の間に向かった。そこには父上と勇者、剣士、賢者と思われる人間三体の亡き姿が、息切れた時と同じ状態と思われる姿勢で横たわっていた。
口元を覆いたくなる惨状だった。