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彼女の祈り

 和真(かずま)は公園を散歩していた。春の陽気にさそわれて歩いていると周りにも似たような人たちが昼下がりの公園を散策していた。見上げれば空は晴れ渡り雲一つ無い天気だ。

 頭上に広がる水色を見上げる和真に向かって何か落ちてきた。いや、垂らされたと言うべきだろうか。赤い糸が目の前にあった。


「これは、世に名高い蜘蛛の糸というやつか? いや、ここはあの世でも無ければ地獄でもない。それにまだ死にたくはないし、そこまでの悪行を重ねてきた覚えもない。だが、毎日のように終電を過ぎても仕事をさせられ安月給しか手に入らないこの状況はまさに悪行とも生き地獄と言えなくもないか。そもそも蜘蛛の糸なら白のような気がするが、赤いと打ち止めのような感じがしてしまうな。」


 微妙なツッコミを誰と無くボソボソとしゃべりながら和真は周りを見回すが赤い糸が何も無い空からたらされているという異常な状況を誰も気にしている様子がなかった。


「これは、俺にしか見えないのか? つまり幻覚か?」


 毎日の過酷な労働に精神状態を危ぶむかのような冷静なような危険な発言をしながら、和真は目の前の糸を引いていた。しかし、糸はびくともしなかった。


「しかし、この赤い糸が蜘蛛の糸だったとして垂らしてもらうほどの状況なのだろうか。それほどこの世界はヤバイ状態なのだろうか。確かに劣悪な労働環境で周りに迷惑をかけてしまっていることは間違いない。たしかにヤバイ状況だ。ただ、救ってもらえるような善行をしただろうか? 大事なことを忘れているような気はするが、なんだったか。もしかして、これから突然何かすごいことでも起きるのだろおうか。そうだとしても現実味がない。いや、すでにある目の前の状況を考えればすでに現実感は無い……か」


 赤い糸を見つめながらブツブツと考え事を続ける和真だった。


「この非現実に付き合うとして、自分の体力ゲージが無限になったとしてもこの細い糸を登るのは嫌だな。しかもどこまで登るか終わりが見えない状態ではじめるのは困るな」


 ついつい現実的なことを考えてしまう和真だった。

 和真がうだうだと糸を引く以上のアクションを起こさないことに糸を垂らした主がしびれを切らしたのか目の前で変化が起きた。

 糸に和真一人が座れそうなイスのような物とつかまるようのハンドルらしき物が現れた。


「正直うさんくさい」


 これ以上ない素直であり普通の人であれば誰でも考えるだろう結論を和真は思わず口にしていた。

 突然目の前に登場したイスらしきものは身も蓋も無い感想に動じることなくその場にあり続けた。


「このまま何もしないわけにもいかないか」


 他に選択肢が無いと観念したのか、和真は意をけっして糸にくっついたイスのような部品に座った。

 びゅん。

 和真が座ると同時に糸が巻き取られた。突然の加速に頭を維持できず顔が大きく空を見た状態になり振り落とされそうになりながら目をつむると胃の中が出てしまいそうな浮遊感とともに体は止まった。

 和真が恐る恐る目を開けるとそこには最悪の存在がいた。どうやら、寝ている和真の両手を持って勢い良く引っ張り起こしたようだ。和真の両足に馬乗りになっている目の前の存在は眉間にしわを寄せ口元をひくつかせ罪人を見るかのような卑下した目をした結婚一年目の妻の_静子しずこが居た。引き起こすときに掴んでいた両手を放すと静かに口を開いた。


「結婚記念日はデートして贅沢しようって約束だったよね。今は何時かな?」


 表情からは信じられないくらい口調は穏やかだった。和真は放された両手を下ろすこともできず足に馬乗りされているにもかかわらず襲いかかるような謎なポーズのまま、背筋に冷たいものを当てられたような感覚になった。今まで寝ていたことが嘘のように覚醒する。

 今日は二人の初の結婚記念日で贅沢をしようと約束をしておりランチも都内で気になっていたお店に予約していたのだ。


「ごめん、こんな大事な日に寝坊してデートを台無しにして」


 和真はとっさに下げた頭の上辺りで両手をパンと綺麗に合わせて謝ったが、時間を確認する冷静さはまだないようだ。


「クスクス」


 自分のお腹を見るように頭を下げていた和真がこわごわ手を放して顔を上げるとさっきまでのプレッシャーは何だったのかと疑問に思うような楽しい物を見るような表情で笑う静子がいた。

 和真が不思議そうな顔をしていると静子は「しょうがないな」とこう言った。


「まだデートは台無しになってないわよ。大分時間はヤバいけどね」


 和真は時計を見て一気に脱力した。一呼吸おいてようやく返事をする。


「だったらそんなに怖い顔しなくてもいいじゃないか」

「だって、何度起こしても起きないんだもの。楽しみにしていたのに寝坊されたらちょっとくらい怒るわよ」


 静子は腰に手をあてすねたように頬を膨らませて言った。ちょっとかなと心の中では思いながらも和真は「すまない」と一言謝った。


「うそ、本当は怒ってないわよ。毎日夜遅くまで働いていたら休みの日に起きられなくたってしかたないわ。いつものことよ」


 そう言うと静子はおはようのキスをした。

 目の前で微笑む静子を見て和真は思った。

 あの蜘蛛の糸は自分を地獄から救い出してくれる女神の祈りであり絆の表れだったのだと。


お題に「昼」「糸」「最悪の存在」で書いた三題噺的なものでした。

あの人はカミさんだけに女神さまでした。はい、言ってみたかっただけです、語呂というかリズムが悪くて微妙ですね。申し訳ございませんでした。

お付き合いありがとうございました。

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