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大事な人だった  作者:
9/13

9.歯がゆい関係

 この世には神も仏もいないと思わざるを得ないほど、現実は抗う意思を根こそぎ奪うように残酷だ。いや、ときには抗う余地さえ与えてはくれない。


 龍一はその日の午後、主任と中越との両人とともに、原田の母の葬儀に参列した。二人には大層怪訝な顔をされたけれど、彼女と最後に会ったのは自分だからと言って半ば押し切るようにくっついてきた。

 原田は焼香にも立ち上がれないほど憔悴していた。ろくに食事を取っていないのか、顔も、夏休みに見たときより一回りほど小さくなった気がした。


 御斎の前の僅かな時間、龍一は二人の後について原田と彼女の父に挨拶に向かった。


「お気の毒なことでした」

「気をしっかり持ってね」


 通り一遍の言葉をかける二人の声を白々しく聞きながら、龍一は、彼らが近づいても椅子に腰かけたまま微動だにせず、色のない瞳で中空を見つめる原田を悲痛な思いで見下ろした。


「月曜日はあさってだから、きっと学校に来てね。原田さん」

「これからは、お父さんを支えられるのは君しかいないんだから、君がもっとちゃんとしないといけないよ」


 うわ、と龍一は、そう言って肩に触れた主任に一瞬で幻滅した。今、それ言う?

 しかもそれ、原田が一番神経使う言葉じゃん。

 マジかよこれがおっさんって生き物か、と龍一が険悪な目つきで主任を見下ろしたとき。

 何も聞こえないような様子でありながら、主任の言葉にだけは滅入るものがあったのだろう。原田は上から糸を引っ張られたみたいにすっくと立ち上がると、龍一はおろか他の者さえ一顧だにせず、奥のほうへと消えていった。

 父親が呼んでも振り返らず、操られたように歩いていく。父親も彼女の気持ちを汲んでか、強いて引き止めることはしなかった。

 しかしそのとき。


「あっ、こら、ナオ!」


 きゃっ、と中越が年甲斐もない声を上げた。

 その足元から、あの毛むくじゃらの小型犬が現れた。原田の母親がちゃん付けで溺愛していたナオちゃんである。

 何かを予感したのか、ナオちゃんは器用に人々の足の間をすり抜けながら、すごい勢いで原田を追いかける。

 その切迫した後姿に、龍一も言い知れぬ不安を感じた。

 しかし、安易に追いかけることは憚られた。ここには彼女の父がいる。主任も、中越こと、強欲中バアもいる。ババアの眼力は侮れない。下手に動けば原田にまで累が及ぶ。それだけは避けなければならなかった。 

 自らも何の整理もつかないままだろう父親はさすがに疲労の滲む顔ながら、それでも気丈に教師たちや参列者に応対し、あらためて礼を述べてから、親戚たちの待つ部屋へと消えた。


「中越先生、原田に一言かけてやらないんですか」


 言い出す言葉を考えあぐねて、ずるずるロビーまで下りてきてしまってから、龍一は思い切って訊いた。


「誰も、死別した苦しみを代わってやることはできないんです。彼女のために、今わたしたちが出来ることは、黙って見守ることだけです」

「それはそうですけど」


 露骨に不満の滲む声で言うと、ひときわ厳しい顔で中越が振り返った。


「あまり生徒に肩入れすると、見ようによっては、ただならぬ感情があると要らぬ誤解を買いますよ。そうなれば異動ではすみません。ご自分の立場と足元をよく見てよく考えてから物を言いなさい。そもそも、今日、あなたがこの場にいることも、本来ならあまり歓迎できることではないんですからね。そのへん、ちゃんとわかってますか?」


 まるで子供を諭すような言い方をされて、龍一は奥歯を噛み締めた。


(そんなこと、痛いほどわかってるけど)


 でもと、龍一はふるえる拳をさらにきつく握った。

 

「そういうの、ほんと顰蹙なんだけど」


 聞き覚えのある粗野な声がロビーに響いた。

 この声は、と振り返ると、やはり、黒のパンツスーツに身を包んだ真裕子がいた。式の間は気づかなかったけれど、娘を預かるほどの間柄である友人が死んだのに彼女が来ていないはずがない。ひとつに括ったまだらな明るい茶髪に混じりけのないスーツが、くっきりとした目鼻立ちの真裕子に怖いくらい似合っている。


「どこのどなたか存じ上げませんが、それが目上の者に対する口の利き方かしら?」


 突然沸いて出た見ず知らずの女の礼儀を欠いた言動に、中越は不愉快そうに顔をしかめた。あたかも品定めをするような、軽蔑的な目つきで真裕子を眺める。

 主任でさえも一目置く中越に、しかし真裕子も臆することなく、むしろ挑発的な足取りで近づいてくる。ロビーで車を待っている他の参列者たちが何事かと視線を向けた。


「担任でもないやつに責任押しつけて、自分はのほほんと高みの見物してる行き遅れババアがでかい口叩いてんじゃねぇよ、ボケ」


 龍一と主任は揃って顔を引きつらせた。まずい。

 結婚に関するあらゆるワードが中越の前でタブーなのは、学年団での暗黙の了解だった。

 今さらもう開き直れよと頻繁に陰口は叩かれているものの、彼女はいまだに自分の可能性を諦めていない。だから手に負えず、厄介なのだ。職員室に、彼女に逆らえるつわものはいない。彼女が同学年で担任を勤めている間はたとえ予定があっても結婚を遅らせるし、仮にその則を破って結婚した場合、周囲は決して式には出席せず、しばらくは距離を置いて、要するに疎外して、幸福が粉々に砕け散った頃にふたたび仲間として迎え入れるというのが慣例になっていた。


(やば……)


 主任はすでに我関せずとばかりに青い顔を外へと向けて、成り行きが過ぎるのを待つことに徹したらしい。

 中越は目じりを引きつらせながらも、かろうじて笑みらしいものを留めつつ、つとめて平らかな声を放った。

 

「ちょっと、おっしゃっていることの意味がわかりませんけど? それは、一体どういうことかしら? 原田さんに訊いたの? それとも、園村先生から……?」


 視線が突き刺さり、龍一の背筋が凍った。


「はあ? 誰から聞いたかなんて重要じゃねえだろ。中学生かよ」


 かえって軽蔑するような口調で言われて、中越のこめかみに血管が浮かんだ。


「担任らしいことを何一つやらないおまえが葬式にだけは来るなんておかしいだろ。世間体か? 校則だからか? だとしたらなんだ、日ごろから生徒に心を砕くのはマニュアルに含まれていませんってか?」


 刹那、真裕子の双眸に凄みが増した。


「他のことは全部後輩任せで、自分は生徒が徹底的に追い詰められてからじゃないと優しさを差し伸べる気にならないって言うんなら、はじめからこんなところに来るんじゃねぇ! 偽善者が!」


 ロビーに静寂が走った。

 胸がすくようだった。

 反対に、核心を突かれた中越はみるみる真っ赤になった。めいっぱい鼻を膨らませて怒りを堪えているが、よく見ると総身がふるえている。

 ここまで悪しざまに罵られるのははじめてだったのだろう。中越は言い返す言葉も見つからない様子で口許を戦慄かせている。

 そのうち、気を利かせて主任が呼んでいたらしいタクシーが玄関前に到着し、半ば引きずるようにして中越を連れて帰った。



「なんか、ごめんなさいね。怜のあんな様子見たら一言言ってやらないと気が済まなくなっちゃって。学校戻ったらあんたのポジションないかもよ」


 あのババア、やり手そうだったし、と喫煙所で真裕子はしおらしくそんなことを言った。

 龍一は首を横に振った。


「俺のことは気にしないでください。それより原田の様子は?」


 真裕子は不味そうに紫煙を吐き出しながら、痛ましげに眉を下げた。

 

「さすがに落ち込んでるわ。そりゃそうよね。意気揚々と家に帰った矢先、起きたら風呂場で母ちゃんが血流して倒れてんだもん。リビングには散らばった大量の睡眠導入剤でしょ。しかも遺書っぽい手紙には旦那と死んだ娘のことしか触れてなかったって言うしさ。気丈に振る舞えってほうが無理だわ」


 龍一はやりきれない思いで真裕子の吐き出した紫煙を見つめた。


(酷すぎる)


 どいつもこいつも。

 すべてのものに苛々する。

 腹立ち紛れに龍一は勢いよくタバコを灰皿に押しつけた。それを追うように真裕子もタバコをねじって消すと、腕時計を確認して、カバンを持ち上げた。


「まだペンションの書き入れ時だからわたしはこれで帰らないといけないの。怜のことは心配だけど、本来、ここに来るべきはわたしじゃないし。言ってもわたし、代理だからさ、そういう意味でもあんまし長居するべきじゃないんだわ」


 真裕子の言葉の意味がわからず、眉をひそめる龍一に、ふと彼女が真摯なまなざしを向けた。


「二学期は長いわ。本当は担任に頼むのが筋だけど、あれじゃあとても期待できない。だからときどき気にかけてやってよね。まあ、さっきの人の科白じゃないけど、あくまで誤解されない範囲でさ」


 電車の時間があるのだろう。真裕子は御斎をやっている会場を切なそうに一瞥して、ロビーにつづく階段を下りていった。

 それを見送り、龍一は暫し思案して、今日のところは自分もひとまず帰ろうと思った。

 一言声をかけてやりたかったけれど、ここで食事が終わるのを待っているのも変だ。

 明後日には体育がある。そのとき様子を見て声をかけよう。あの様子なら、今は誰が話しかけても同じな気がする。そんなときに無理を強いるまで粘って声をかけ続けるのはちがうだろう。

 龍一はポケットを漁って車のキーを確かめた。龍一は車だ。今回あの二人に同行できたのも、斎場までの足になるからという提案がたぶん一番効果があった。

 今ここを出れば、まだ真裕子に追いつけるかもしれない。駅までなら送ってやれる。

 そう思って足を踏み出したとき、それほど遠くないところから、キャン、と甲高い犬の声がした。

 龍一は棒立ちになった。まさか。いやだって、彼女は今、あの部屋にいるはずだろう。

 しかし、犬だけ外に置き去りにされているはずはない。

 かまってくれと言うようにつづくけたたましい鳴き声のほうへ、龍一は引き寄せられるように廊下をすすんだ。

 果たして、彼女はいた。その足元で、しきりとナオちゃんが鳴いている。


 斎場になる前はそこそこ立派なお屋敷だったというから、その名残なのだろう、死を悼む場所にしてはここだけが妙に浮き立って華やいだ造りになっている。そんな、ガラス戸で隔てられた張り出したテラスの上、手すりにもたれたまま、その人は石になったように微動だにしない。龍一がテラスに降り立っても意に介さず、心をどこかに置き忘れてきてしまったような感情のない横顔が痛ましい。

 そのとき、ふと意識を取られるほど秋めいた涼風に龍一は顔を上げた。

 テラスの向こうには青々とした水田が遠くまで続いている。均等に成長した稲に風がそよぎ、まるでさざめく水面のように心をならし、目から憩う。

 しかし、今の原田の心を揺さぶるには、こんなものでは足りないようだ。

 龍一は彼女の肩に触れようとして、ためらいが生じた。真裕子や中越の苦言がそうせたのではなかった。

 ただ、心の萎えた彼女に触れるのが、怖かった。

 格好はいつもの制服なのに、今の彼女はまるで抜け殻のように覇気がない。触れたら、手がその身体をすり抜けそうだった。


(俺までそんなことでどうするんだ)


 ばかげた夢想に怯える己を振り払うように、龍一はかぶりを振った。

 そして自らを鼓舞すると、ついに龍一は彼女の肩に手を置いた。


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