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大事な人だった  作者:
8/13

8.神なんかいない

 暦の上では秋とはいえ厳しい残暑が続いている。夜はだいぶと過ごしやすくなったとはいえ、日中の暑さに目立つ変化はない。

 変化がないといえば。


 世の中が9月の第二週に突入してもなお、原田が学校に来ることはなかった。


 この事態に、さすがの中越も焦れている。というのは、職員室で彼女の様子をつぶさに観察している龍一の子分的存在からの情報である。


 原田は、誤解を解くと言った約束については、たしかに履行してくれたらしい。今もって校長に何も言われないところを見ると、どうやら事なきを得ずに済んだようだ。

 原田にどう言われたのか知らないが、中越はあれ以来、とんと俺に対する嫌味をやめた。保身のために生徒を使って恥ずかしくないのかと罵られる覚悟もしていたが、どうやらそれもない。原田はうまくやってくれたようだった。

 龍一という都合のいい存在を失った今、原田の原因不明の欠席について、主任かそれ以上の大人たちに目をつけられた場合、責任を問われるのは中越ひとりだ。それまで人になすりつけるという手法でうまく回避していただけに――そのうえ、学校そのものに来ていないという現状は、これまでの体育にだけ不参加というわかりやすいそれをはるかに凌駕しているため、中越が目に見えて苛々しているのも当然の成り行きといえた。

 そのとばっちりを喰らう生徒は可哀想だが、龍一にはなんとも痛快だった。


(でも、何で来ないんだ)


 ペンションの帰り。俺に頷いてみせたあの表情に偽りは感じられなかった。

 それなのに。


「ねえ、聞いた?」

「なにが?」

「原田さんの話だよ」


 風が冷たくなる前にと、残り僅かとなったプールの授業をせっせと消化していると、ノルマの距離を泳ぎ終えて日陰で談笑に興じていた女子たちが、いきなり声を落として鳩首したのはそんなときだ。


(原田、だと?)


 見れば原田のクラスの生徒たちである。


「そういえば原田さん、2学期まだ一日も来てないよね? 中バア何も言ってないけど、入院か何かしたの?」

「ちがうのそれがね、原田さんのお母さん、始業式の前日くらいに自殺未遂したんだって」

「えーっ!」


 龍一は、一瞬、今の自分の仕事を忘れて、彼女たちの会話に聞き入った。

 自殺未遂? あの人が?

 なんでも、手首を切って出血死を試みた上に、睡眠導入剤を大量服用して、未だ意識が戻らないとか……。


「じゃあお母さんが心配で病院に詰めてるんだ」

「うわあ、悲惨……」

「中バアさあ、そのへんちゃんと把握してるのかな」

「どうだか。あの人が大事なのって、生徒っていうかPTAと教育委員会でしょ」

「てことはなに、今、原田さんの傍にいるのって実質お父さんだけ? えっ、それ、精神的につらくない?」

「つらいに決まってるじゃん。だって……」


 ねえ? と意味深に、一人が二人のうちの一人に目配せした。


「えっ、なんなの? だってって」


 仲間はずれにされたことに慌てた一人が、その瞬間だけ原田の心配を脇に置き、不謹慎なほど必死な顔で食いついた。

 二人は暫し戸惑うようなもったいぶるような素振りを見せた後で、手招きして顔を寄せさせると、いっそう声を殺してこう言った。


「原田さんち、たしか妹も死んでるんだよ」


 一人は目を剥いた。


「そう、生まれつきの難病とかで……」


 四年前くらいじゃなかった? うん、たぶん、そのへん。

 龍一はその場に棒立ちになった。すぐさま、もう一人の先生が放ったホイッスルの音で現実に引き戻されたが、動揺は激しく尾を引いて、息が整わない。


(うそだろ、おい)


 そう心の中で呟いた瞬間、


 今、原田さんの傍にいるのって実質お父さんだけ?


 という女子生徒の声が耳によみがえり、すっと血の気が引いた。と思うと龍一は、急にひとりだけ秋に迷い込んだようにつま先の感覚を失った。


 授業が終わると、龍一は転がるように教官室に戻った。もつれる指先で手帳をめくり、迷わず原田の家に電話を入れた。案の定つながらない。だが、今ならわかる。母親が折に触れて正気を失う家に電話をつないでおくのは剣呑だ。そう思った主人がなんらかの策を講じているにちがいなかった。

 ならばと、龍一はペンションに電話を入れた。こんなときのために番号を控えておいてよかった。

 

「はいはい、ペンション松井ですよ」

「すいません。先日お邪魔した園村という者ですが」


 出たのは、相変わらずおっとり口調のオーナーだった。淡い色のエプロンがよく似合うふくよかな体型を思い出す。


「ああ、先生。ご無沙汰ですね。夏休みの間、もう一遍くらい怜ちゃんの顔を見に来るかと思っていたのに」

「申し訳ありません。自分も部活やら二学期のことやらでバタバタしてて――それで、あの、原田はいま……?」


 電話越し、張り詰めた沈黙を確かに感じた。

 龍一は唇を引き結ぶと、意を決してさきほど聞いたばかりの話を告げた。

 聞き手にも苦いため息が聞こえた。


「うちの真裕子も、今、病院に見舞いに行ってるんですよ」

「じゃあ、噂は本当なんですね」

「ええ。怜ちゃんねぇ、いい顔で帰ってったんですよ。来たときとは見違えるようなきらきらした顔で。手伝いしながらこつこつ済ませた宿題と、うちで取れた野菜をどっさり抱えてねぇ。あんなに嬉しそうな怜ちゃんの顔を見たのは初めてですよ。そうそう、その野菜だけど、すこし先生にもおすそ分けするって怜ちゃん言ってましたよ。受け取りました?」


 原田が、俺に? 意外すぎて、一瞬、言葉が出なかった。


「いえ。一日も、学校に顔を見せていないので」

「ああ、そうか。それもそうね」


 原田じゃないのに、無念そうにオーナーは言った。心から原田のことを大事に思っているんだとわかる。


「そうそう先生。ここだけの話、怜ちゃんね、先生が会いに来てくれたのがよっぽど嬉しかったみたいですよ。今まで、なかなか自分のことで親身になってくれる人がいなかったようだから」

「そんな、あれくらい……」


 しかも、あれは半分は原田のためでも、もう半分は自分のためだ。それは彼女にも包み隠さず話している。呆れられこそすれ、喜んでもらえる理由がない。

 しかしこれをオーナーは真っ向否定した。


「いいえ。怜ちゃんの様子を見てればわかります。怜ちゃん、自分もいろいろと思春期で悩みがあったのに、なかなかそれを打ち明ける人がいなかったみたいで。そのうえ周囲からは、家族のことで、あなたがしっかりしないとねって責任を押しつけられて、いつだってがんじがらめ状態だったから」


 彼女を取り巻く災難続きの環境を思う。そのうえ、自分は胸が大きいという言うに言えない繊細な悩みを抱えているという悲運に胸が詰まった。

 彼女に課せられた過酷な運命に、腹が立つ。

 かつて彼女を指導していた教師たちに、原田の内面を忖度して支えになってあげようと思った者はいなかったのか。大丈夫と背中に手を添えてやることではなく、頑張れとひたすら肩を叩くことが、ひいては彼女のためになると思ったのか。

 ……正しくないとは言わない。

 でも、そればかりが正解ではないだろう。

 オーナーの言葉が耳にこびりついている。


(見違えるようないい顔って)


 おすそ分けしようとしてたんだってさ。この、俺に。原田が。

 俺なんかにすらそんなことがしたいと思わせるほどの優しさなんか、どだい、ちっぽけなもんだろうがよ。

 ……それでさえ、あいつには大げさなくらいの救いの光だったのに。


(原田)


 彼女は、また、激動の渦中に引きずり込まれた。

 自殺、という言葉が耳に重く木霊する。

 今度こそ。

 今度こそ、このまま飲み込まれてしまったら――。


「先生」

「はい」


 返事をする声が無意識にふるえた。


「もし、気が向いたらでいいから、一度、玲ちゃんに顔を見せてあげてくださいよ。時間が空いたらでいいから」


 担任でも主任でもない俺が? 不審に思われるに決まってる。またしても保身が先に立つ。彼女を見舞うための、もっともらしい名目もない。今度は代理という表現も使えない。

 それでも。


 先生が会いに来てくれたのがよっぽど嬉しかったみたいですよ。

 

(ちくしょう)


 にわかにすくんだ心が、そのとき、ぴたりと定まった。


 ……しかし、いざ病院に行こうと思った矢先、事態は急転した。


 学年の職員会議が切り上げられたのとほぼときを同じくして、電話番だった龍一の子分が血相を変えて会議室に飛び込んできた。

 龍一は思わず息を呑んだ。

 はたして胸騒ぎは現実となり、最悪の形で、残っていた先生たちに余さず知らされることになった。


「3組の原田さんのお母さんが、つい30分ほど前に亡くなられたそうです」


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