7.なごやかなひととき
真裕子が中に引っ込んだのを確認して、龍一は原田のほうへと足を向けた。ふかふかの土の上を慎重に進む。
観念したように原田はその場に佇み、帽子を脱いで、龍一のたどり着くのを待った。
龍一は落ちた拍子に無残に潰れたトマトを拾い上げる。
「いいのかよ、このままで」
カバンを傍らにおいて、龍一は散らばった野菜たちをカゴに入れていく。原田は機械のようにその向かいに腰を下ろすと、自らも野菜をカゴに戻し始めた。
「ほら」
龍一は最後のナスをカゴに入れると、一緒に麦わら帽子を原田の頭にのせた。
「すいません」
「似合ってるぞ、その格好」
おどけて言ってみても、原田はにこりともしなければムッとすることもなかった。
龍一は鼻の下をこすった。
「なんだ、まあ、無事ならそれでいいんだけどさ。元気でやってるのか?」
「まあ」
「そうか。それならいいんだ、うん」
そう言ったきり、龍一は続ける言葉が出てこなくて、うろたえた。
手持ち無沙汰に足元のカバンを持ち上げる。それを帰る合図と勘違いしたのか、
「……そんなことを確かめるためだけに、こんなところまで来たんですか?」
原田はかすかに焦りの滲む声でそう訊いた。
「そうだけど?」
「担任でもないのに」
「その担任に言われたんだよ」
あ、今のはちょっと嫌々みたいだったかな、と一瞬思ったけれど、原田の意識は彼の心情を穿つことよりも言葉そのものに向けられたようだ。
原田は怪訝そうに俺を見て、
「なんで、先生が中越先生に頼まれるんですか? ……お二人はそんなに親密な仲だったんで――」
「ちがいます」
龍一は敬語で否定した。
「でも、中越先生も独身だから」
「だから? 独身だからなんだよ。独身同士なら自然と惹かれあうだろって? 冗談やめろよ――ハッ」
あまりのショックについ熱くなって本音を洩らしかけ、龍一はいるはずもないのに、きょろきょろと周囲を見回した。
「い、今の内緒な」
にわかに原田の目元がほころんだ。
思わず龍一が目を見開くと、原田はさっと表情をあらため、恥ずかしさを紛らわすためか慌しくカゴを持ち上げた。
「すいません。これだけ、真裕子さんに引き継いできます」
それから二人は木陰に移動した。
下界は風さえぬるくてうんざりするが、そこそこの標高のここは日陰でもちゃんと涼しい。
原田がくれた水のペットボトルをもてあそびながら、龍一は思い切って訊いた。
「あのさ、ぶっちゃけた話、俺、相当おまえに嫌われてる?」
原田は緩慢に首を捻ると、まじまじと俺を見た。
「……そんなふうに見えますか?」
「え、それ、俺に聞くの? おまえ、見かけによらず惨いな」
「別に嫌ってなんかないです。そう見られていたんだったら、謝ります。すみませんでした」
殊勝に頭を下げられて龍一はうろたえた。
その瞬間、どこからか、ぞっとするほど鋭い視線を感じた。
はじかれたように顔を上げると、ペンションの二階窓からすごい形相で真裕子がこちらを睨んでいた。
龍一は慌てて原田の頭を上げさせた。
「いや、それならいいんだ。変な質問した俺が悪かった。ただ、その、誤解だけは解いておきたかったからさ」
「誤解?」
龍一は首の後ろを掻いた。
これから言おうとしていることを思うとあんまり情けなくて、涙が出そうだった。
「こんなことを言うのは、大人気ない気がするんで本当はいやなんだけど、俺も一応、これで食ってるもんでな……」
そこまで言って原田を見ると、これといって感情のない眼差しが先を促した。
「その、中越先生に言われたんだよ。俺が原田にきつく当たったから、原田は授業に出ることを拒むようになったし、夏期講習にも来なくなったって。このまま事態が改善されないなら、近いうちにこのことを校長先生に進言するって」
穴があったら入りたいと痛切にそう思った。
うなだれる龍一を暫し無言で眺めた後、じゃあ、と原田は口を開いた。
「そうじゃないということを、わたしが中越先生に説明すればいいですか?」
「……そうしてくれるか?」
「誤解だから」
何ということもないという口ぶりで原田は言って、ペットボトルのキャップを開けた。
「淡白だな」
思わず素の声がこぼれると、原田はきょとんとした。
「追い出されたいんですか?」
「いやっ。ただ、おまえからしたら、どっちかつーとそうなのかと……」
立場からいって俺という存在は、体育に出なくてもよい格好の理由を与えてくれる手頃な役者にはちがいないが、怒られるのは誰だって嫌なものだ。
やむを得ず、望むところではない欠席を余儀なくするよりも、自分を理解してくれる代わりの先生が現れてくれるほうが原田にとってはいいことなんじゃないか。
それなのに、あっさり誤解だからの一言で行動してくれるという鷹揚な誠実さと潔さが意外だったから、そう言ったのだけれど……。
原田は口を拭って、
「ひどい邪推」
とやや恨めしげに俺を見た。
自らも水を飲もうとしていた龍一は不覚にもどきりとして、危うくペットボトルを取り落としそうになった。
「わたし、あんまり感情が表に出ない方なのでよく誤解されがちなんですけど、そこまで誰かを熱心に嫌悪するほど、他人に関心ないんで」
……すごい言い様である。
俺もそのうちの一人だということを暗に言われている。
「そう言ってくれて、助かる」
まったくショックじゃないといえば嘘になるけれど、そういう性格だからこそ、余計な感情に左右されることなく応対してくれるのならと、龍一は努めて大人の対応に徹した。
しかしこれを原田は首を横に振って退けた。
「お礼なんてやめてください。さんざん迷惑をかけて困らせた自覚は、こんなわたしにも一応はあるんです」
原田にはめずらしく、気落ちした横顔が儚くて、妙に龍一の胸を騒がせた。
「2学期に、またな」
龍一が帰ると言うと、原田と真裕子、そして真裕子の母だというオーナーの中年女の3人が見送りのために出てきてくれた。龍一が書いた中越の携帯のメモを手に、原田はこくんと頷いた。
しかし、交わした約束が果たされることは、ついになかった。