6.友人のペンション
顧問としての務めを午前で切り上げると龍一は家には帰らずに、そのまま車を走らせた。高速に上がってインターをいくつかやりすごし、集落を抜けて山道へ。慣れない道だが、思いのほか整備が行き届いていたおかげでちゃんとカーナビも機能する。ここをずっと行けば、冬にはスキーのできる高原が、夏の今なら森林浴を楽しめる山林の入り口が見えてくるはずだ。
まさに観光だけで細々と生き残ってきたザ・田舎町へと龍一はやってきていた。
原田母のあの悪夢のような問いかけの後、龍一はついに答える言葉の出てこないままあの家を後にした。今となってはどうやって退出の旨を伝えて外へ出たのか、そして学校へ帰ったのか、そのあたりの記憶が曖昧模糊として怖い。
龍一はその日の夜、あらためて原田の家に電話をかけた。
そのときは男が出て、原田の父だと名乗った。龍一の立場を伝えると、理解はされたが、その声の中にはちゃんと戸惑いの響きが洩れていて逆にほっとした。これがふつうの反応だよな、と泣きそうになったのを覚えている。
無断欠席のうえ、原田の行方もわからず学校のほうでも気を揉んでいるとの旨を告げると父親はうろたえ、夏期講習にまで連絡が要るとは思わず、考えが及ばなかったことをまず丁重に詫びてから、彼女が今、母親の友人が経営するペンションで厄介になっているという事実を明かした。
そういうわけで、龍一はそのペンションへと向かっていた。
問い合わせてみるからと電話番号とペンションの名前を聞き出したが、やはり直接顔を見るまでは安心できないとの思いがあった。それに、これまで空振りだったらまたあの担任にねちねち嫌味を言われる。俺に罪はないということを、あいつの口からはっきりババアに言ってもらわなければ。
(ペンション松井って……、ここか?)
場所柄なのか、途中、別荘かペンションかという雰囲気のある建物をいくつか通り過ぎ、登山合宿なんかで利用するようなログハウスが見え隠れする薄暗い道を抜けると、その奥に、ひときわ大きな白い木造建築が現れた。
洒落たアーチ型の門扉には白いバラが絡んでいる。
玄関上の"ペンション松井"の文字に目を凝らす。――ここだ。
駐車場にはそれぞれ部屋番号が振ってあったので、近くの路肩に車を停めて、龍一はペンションのドアを押し開けた。
入った瞬間から心地よい木の匂いが身体を包み、自然と呼吸が深くなる。胸の開く感覚。龍一は館内を一渡り見回した。落ち着いた雰囲気漂うロビーは宿泊客の憩いの場としての役割も兼ねているのか、一見住宅のような内装でありながら、趣味のいい置物やタペストリーなどが品よくまとめられている。
カウンターに置かれた、鳴らして、と札の添えられたベルに触れると、厨房があるらしい奥の方から、はあい、と女の声がした。
一瞬、いきなり原田かと身構えたが、出てきたのは彼女よりはるかに年上の中年女だった。
「いらっしゃいませ」
ふくよかな体型と温厚そうな笑顔を裏切らない、柔らかな口調で龍一を迎えた中年女は、ワイシャツにスーツにビジネスバッグというおよそ不釣合いな出で立ちにきょとんとした顔を見せるも不審を表に出すことはなく、
「ご宿泊ですか?」
と慣れた口調で言いながら手元のノートをめくった。
「いえ、あの……自分、ここでお世話になっているという原田怜さんが在籍する高校の者なんですが」
あら、と中年女は声を洩らした。
「怜ちゃんの担任の先生なの?」
「いえ、担任ではないんですが……わけあって担任は手が離せない状況でして、なので代わりに自分が」
何で俺があんなやつのフォローをしなければならないんだ……。
女は奥に向かって声を張った。
「真裕子ー、ちょっと真裕子! 怜ちゃんの学校の先生が来てるんだよ」
「えっ、なんで! あっ、ど、どうも……」
年齢的な見た目から、こちらがおそらく原田母の友人なのだろう。勝気そうな目の、よく日に焼けた女がモップを片手に現れた。山というより海の女という形容が似合う大雑把な雰囲気である。淑女然としていた原田夫人とはまるで正反対のタイプだ。
「怜ちゃんは?」
「今は畑かな。……あの、失礼ですけど、ほんとうに怜の担任の先生なんですか?」
警戒的かつ懐疑的な眼差しで女は龍一を見つめる。やましいことなど何一つないため、龍一は毅然とその視線を受け止めるが、中年とちがいこちらは思ったことがすぐ表に出る性質らしい。
面倒だな。
「担任の先生の代理みたいだよ」
「ああ、副担任か」
ちがう。
「じゃあセンセイ。なにか立場を証明できるもの、ありますか?」
真裕子と呼ばれた女に聞かれ、龍一は、なるほどそうきたか、と苦い思いで唇に触れた。
身分じゃなくて、立場。つまり、彼女の教師であるという証を示せというのだ。
困った。そんなものはない。
「すみませんね、一応こっちも保護者代理なんで」
真裕子は厳しい目つきでカウンターに手を着いた。
龍一はぎりりと唇を噛んだ。
どうしよう。こんなのってあるか。彼女がいることまで突き止めたのに、ここまで来て会えずじまいとか、そんなの空振りよりきついぞ。
「……会わせていただけたら、それが一番手っ取り早い証明になるんですが」
俺がこの場にいることの理不尽さに加えて悔しさで泣けてきそうになりながらも、このまま引き下がるのだけは嫌だという一心で龍一は言った。
だが。
「はあ?」
「真裕子、その顔やめなさい」
すごい顔で嘲る真裕子をたしなめ、中年女は悲壮感漂う龍一に労わるような眼差しを向けた。
「学校でなにか怜ちゃんが悪いことをしたんですか? それを叱りに来たんですか?」
龍一は首を横に振り、自分がここに来た理由のあらましを口早に告げた。
二人は暫し互いの顔を見合い、どうしたものかと言うように押し黙った。
「信じてもらえませんか?」
龍一は心細げな声で独り言のようにそう言うと、がっくりとうな垂れた。
負けず嫌いな性格ゆえ、情に訴えるのはいやだった。だからただ事実を伝えたけれど、それで駄目なら万策尽きた。
おそらく、原田が逃げ場所を求めてこのペンションに駆け込んだということをこの二人は知っているのだろう。だからこそ彼女に関わろうとする存在にここまで神経を尖らせているのだろうし、見定めようと心を砕いているのがわかる。わかれて嬉しいとも思う。
だが……。
一番の課題であった原田の安否については確認が取れたのはよかったけれど、その収穫だけでは龍一にかけられた容疑を晴らすには弱い。
このままでは、あの担任のことだから、早晩、校長に注進するだろう。そうなれば俺の面子は丸つぶれ、来年はどがつくほどの田舎の学校に通っているかもしれない。
外はこんなにも明るく、まるで絵の具を流し込んだように鮮やかな青が広がるのに、もはやなんの展望も描けないほど龍一は失意に暮れた。
その様子があまりに哀れで、見かねた中年女は、真裕子、と有無を言わせぬ響きで娘を呼んだ。
「この人を怜ちゃんとこに連れてきな」
龍一ははっと顔を上げた。中年女は彼の驚きには気づかず、静かに帳簿をめくっている。
これに真裕子は頑として抗議の声を上げた。
「えっ、いいの? だめでしょ。まだ本当かどうかわかんないのに」
「もうすぐ団体さんが来るんだ。タラタラ付き合ってる時間なんかないよ。そんなに心配ならあんたがこの人についていって反応を確かめるといいだろう」
言われて真裕子は時計を一瞥し、ひときわ口許をゆがめた。保護者代理を自負するだけあって一応の分別はあるのだろう、ロコツに虫の好かないような表情はそのままだが、真裕子は龍一に向かってふんっとアゴをしゃくってみせた。ついて来い、という意味だろう。
中年女に頭を下げて、龍一はカウンターの奥に回った。
薄暗い廊下を進むと、どん詰まりに裏口らしき曇りガラスのはめ込まれたドアがあった。
真裕子は取っ手に手をかけて、ふと思い出したように龍一を振り返った。
「いいか小僧、怜に妙な真似してみろ。ただじゃおかないからな」
(小僧、だと……?)
真裕子は鼻を鳴らしてドアを開けた。
龍一は強いて屈辱を飲み込むと、彼女に続いて外に出た。龍一はうっと目を眇める。鬱蒼とした林が太陽を遮る表とはちがい、裏は日差しの降り注ぐ開けた場所で、家庭菜園よりやや本格的といった景色が広がっている。清浄すぎる森林の香りより、こちらの濃厚な土の匂いのほうが、下界育ちの龍一を安心させた。
原田は、と龍一は目を凝らした。隣で真裕子が無言で指をさす。果たして、きゅうりの植え込みが続く列の途中にその人はいた。
「怜ー!」
中腰のままハサミを動かしていた原田は真裕子の声にやおら顔を上げた。
つばの広い麦わら帽子に、日焼けを気にした長袖のパーカー、ボーイフレンドデニムの裾を長靴にしまっている。学校のセーラー服があまりによく似合う彼女には滑稽に感じられるはずのその格好が、しかしとても板について見える不思議。
原田は気だるそうに腰を伸ばして立ち上がる。向きを変え、真裕子の隣にいる龍一の顔を認めた次の瞬間、彼女の手から、収穫した野菜で満載のカゴがどさりと落ちた。
「……せんせい」
「よお」
ようやく会えたのに、その嫌がるような怯えるような、複雑な眼差しが切なくて、龍一は強い日差しに顔をしかめるのに紛れて、力なく微笑んだ。