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大事な人だった  作者:
5/13

5.城と愛玩

 しかし、二日も家に帰っていないというのは見過ごせない。

 とくに、家出なんて別に日常茶飯事だけど、というタイプの生徒でもない生徒の家出は家出ではない可能性があって剣呑だ。

 あの眼鏡狐のいいように利用させれている気もしないではなかったが、やはり何かあってからでは遅い。そもそも問題児を抱えているという時点で心証がよくない上、まだまだ若手の内に入る俺などひとたまりもない。

 原田のためというよりかはむしろ自身の今後のために、龍一は彼女の家を訪ねることを決意した。


(このへんか)


 龍一は頬を伝う汗を拭い取り、顔を上げた。

 閑静な住宅街である。電柱が示す住所と照らし合わせながら、ひとつずつ門柱の表札を確認し、やがて龍一は原田という家を発見した。


(ふつうに、でかいじゃん)


 いかにも洋風といった、白壁にレンガ屋根を乗せたオシャレな外観で、似たり寄ったりの周囲の家々ともよく調和が取れている。

 ただ。

 家そのものは立派でも、庭の手入れを怠っているのか、いたるところに雑草がはびこり、花壇らしい場所も地面と大差なく野放図になっているのがいささか気になる。

 担任でもないのにと思いつつ恐々とインターホンを押すと、女の声で応答があった。


「あら、どちら様かしら?」

「あの、自分、原田怜さんの通っている高校の者ですが、突然すみません。何度かお電話したんですけど、つながらなくて」

「まあそれはそれは。でも不思議、怜ちゃんの担任の先生は確か女性の方ではなかったかしら?」

「自分は体育を担当しています、園村(そのむら)と言います。それであの、娘さんの怜さんについてすこしお話を窺いたいと思って」

「そうですか。まあ、どうぞ」


 終始うたうような口調でやり取りを終えると、母親なのだろう女は警戒感の欠片もなくロックを解除した。


(暑さにやられてんじゃねぇか?)


 気おくれを禁じ得ない龍一を出迎えたのは毛むくじゃらの犬を抱っこした中年女だった。あまり娘とは似ていない――し、こちらは残酷なほど……貧乳だ。


 通されたのはリビングだった。息を呑むような外観に比して、中は驚くほどふつうだった。調度品と呼ばれるような仰々しいものも特になく、過剰や不足といった偏りもない、あたかも生活感と家族のあたたかみでできているような理想的な空間で、一人暮らしの龍一にはいささか刺激が強いくらいだ。


「この暑い中ごくろうさまですねぇ」

「お、お構いなく……」


 出された麦茶を礼儀的にすすりながら、龍一は変な汗をかき始めていた。

 なんだろう、この異様な緊張感は。生徒の家に来たのなんて、別に今日が初めてのことじゃないのに。

 担任でも、部活関係でもない生徒だから?

 いや、ちがう。

 龍一は向かいに座る微笑みマダムを盗み見た。


(なんつーか、俺、このお母さん、苦手だな……)


 インターホン越しからでも感じていたことだが、この人はすこし、ふつうとちがう。

 おっとりした話し方をする人なんてどこにでもいるけれど、彼女の場合はそれに輪をかけて、というかいや、そもそも彼女からは会話をしているという手応えが感じられない。 

 今だって、なんでか彼女は、笑っている。


(娘が心配じゃないのか)


 現状と、あまりに隔たりのあるこの態度。この余裕。

 娘の帰りがないことに怯え、もっと憔悴していると思った。あるいは、母親は事情がわかっていて、親子間での軋轢にいちいち学校が口を出すなと、玄関先で追い返されるかと思ったのに。


(全然、予想してたのとちがうから)


 過不足のない、ありふれているからこそ満たされているこの家で、家そのものを象徴する存在であるはずの母親の存在が、何故かこの家ではそうじゃない。

 彼女に相応しいのは、こんな時間と愛情をかけて自らの手でこしらえたような素朴な内装ではなく、あたかも何かの模倣のように金と見栄とを惜しみなく詰め込んだ生活感のない場所こそが、嫌味なほどに映える気がした。

 それくらい、見事に浮いている。

 ふつうの中に、彼女はすこしも溶け込んでいない。娘が可憐な撫子だとしたら、母親は射抜くような紫が印象的な菫といった澄ました造作で、そのギャップも龍一の怯懦を煽った。ここで、たとえばボトムがデニムで、さらにエプロンでもかけていてくれたらまだそのギャップも埋まるはずなのに。

 抱っこされた犬が、愛くるしい瞳で興味深そうに龍一を見つめる。


(てかいい加減そいつ下ろせよ)


 それでなくても馴染みのない緊張感で気詰まりなうえ、無遠慮な視線が――たとえそれが邪気のない動物のものでさえ、癪に障る。


「それで、先生はなんの教科を担当されているのだったかしら?」

「体育です」

「ああ、体育。怜ちゃんはクラスでどんな様子ですか? あの子、ああ見えて理系なんですよ」


 龍一はハンカチで汗を拭った。何一つ、通じているという実感がない。


「……自分は担任ではないので、クラスでの様子は、ちょっと」

「あら、ところで怜ちゃんは今、何年生だったかしら? 担任の先生は確か女性だったと思ったけど」

「一年生ですよ。自分は体育を担当している園村という者で」

「そうでしたか」


 だってナオちゃん、と母親は犬のアゴを掻いた。しかしナオちゃんは借りてきた猫のように無反応だ。 母親は気にせず、鷹揚に背中を撫でながら、にこにこと龍一を見つめた。


(まともに取り合う気がないのか)


 胃がきりきりした。まるで不思議の国にでも迷い込んだみたいだ。

 ひとつひとつはどれもふつうで好ましいのに、全体で見たときのこの階段を踏み外すようなちぐはぐさはなんなのだろう。不安をかきたてられる。怖い。二人の間に次元の狭間もあるみたいだ。埋まらない不和が息を苦しくする。汗が止まらない。クーラーは寒いくらい利いているのに。


(さてはこういう相手だってわかってたから、あのババア、体よく俺に押しつけたんだな)


 龍一は隠れて眉間をもみほぐしてから、さっそく本題を切り出した。


「怜さんが家に帰らなくなってから今日で3日になるとか。行き先に心当たりとかはないんでしょうか」

「わかる、ナオちゃん?」


 てめぇに聞いてんだよ、との言葉をすんでのところで飲み込んだ。犬は相変わらず無反応だ。番犬にもなりはしない。


「家庭内でなにかトラブルがあったとか?」

「トラブル? 怜ちゃんが? まさかぁ。あるはずありませんよ。あの子、小さい頃からとっても気立てがよくて、妹思いで、いい子なんですから」


 妹がいるのか。


「あの、心配じゃないんでしょうか?」

「きょうの夕飯のことですか?」

「…………いえ、怜さんのことです」


 懸命に怒気を押し殺しながら龍一は言った。

 すると母親はあろうことかころころと笑って、大事そうにナオちゃんを持ち替えた。そのときだけナオちゃんは顔をちょっとしかめた。


「あの子はしっかりしていますから、何も心配はしていませんよ。ちょっとした気まぐれでしょう。若い頃って、いきなり思い立って遠出とか、無鉄砲なことがしたくなるものだから。むしろあの子にはいい傾向なんじゃないかしら」


 ねえ、ナオちゃん。


「彼女は携帯電話を持っていないとか」

「あら、そうなの?」


 知らねえよ。


「持ってるはずだけど」

「そうなんですか!? なら今からでも連絡を――」

「ただそうね、部屋にあったかもしれないわ。今朝掃除のときに見たもの。ねえ、ナオちゃん」


 なんだ。龍一はがっかりと肩を落とした。なら、学校側が把握していないだけということだ。

 気を取り直して龍一は問いかけた。


「だとすると、携帯も置いて行ったっていうのは、いささか不可解だと思いませんか? 一度家に帰ってきて携帯を取ってからでも家出は出来ますよね」


 龍一が言うと、いやだわ、と母親は手を振って笑った。


「日常を忘れるために家出するのに、携帯なんて現実的な道具があったらともすればそれに気を取られて、せっかくの気分が台無しでしょう」

「そういうものでしょうか」

「そうですとも」


 女の声はゆるぎない。

 確かに一理はありそうだが、都合のいいように解釈しすぎではないろうか。

 もっとも、それならそれでもいいのだが。むしろそれであってほしい。泊りがけというのがいささか気にはなるけれど、母親の言うように、聡明な彼女ならきっと泊まる場所にも不自由しないよう磐石な計画を立てて行ったはずだとは俺も思う。

 底抜けに能天気でも、これでも一応母親だ。娘のことを一番よくわかっているはずの彼女がそう言うなら、きっと、そうだろう。

 龍一の心を読んだように、女は、彼の不安の欠片までもを払拭するように鷹揚に首肯してみせると、


「心配いりません」


 と請け負った。


(考えすぎだったか?)


 あんなことがあった後だからついいろいろとよくないことばかりを考えてしまうけれど、逆に、そんな状態だからこそひとりになって気持ちを鎮めたいと願う彼女の思いももっともだと思った。

 なんだ、そういうことか。

 龍一はふっと口許をほころばせた。肩の荷が取れ、身体がぐんと軽くなる。そうだ、きっとそうだ。原田は無事だ。今頃はもう彼女を悩ませる霧も弱まって、早晩、財布が軽くなったのを理由にすごすご帰ってくる。何の懸念も要らなかった。

 俺も思考の柔軟性が足りないなぁと、母親の気楽っぷりが移ったようにそんなことを思いながら、暇を告げようとした、そのとき。

 気を抜いた彼の前で、信じられないことが起こった。

 相変わらずの夢見るような眼差しが不意に翳りを帯びたかと思うと、彼女はおもむろに言った。


「ところで、あなたは主人の会社の方ですか?」


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