13.これからへの願い
「もうそろそろ全員帰る時間」
無造作にナオちゃんを落とし、原田は龍一に向き直った。
目尻は未だに赤く濡れていたけれど、もう先ほどのような抑えの利かない感情はその片鱗もうかがえない。いつもこうして気持ちに蓋をしてきたことがわかるような瞳の前に、いかなる情けも通用しないと思われた。
ああ、と龍一は唇を噛む。
俺って、なんて無力なんだろ。
「わたし、もう行きます」
「ああ、そうだな。俺も、帰る」
原田は頭を下げた。
龍一は自らの手のひらを見つめた。
にわかに視界がかすんだ。
先ほどは重ねてやれた手。だが、今ふたたびそれをすることは、龍一にとって至難の業だった。
「明後日からは、学校、来るんだろ?」
「多分。片づけが、終わったら」
葬式が出たんだもんな。家に女手が彼女しかいないのでは、それもやむを得まい。
「ナオ」
原田はもういちど俺に深く頭を下げると、威勢よく返事をしたナオちゃんを連れてテラスを出て行った。
そして、俺がまたしても勝手な思い違いをしていたと気づいたのは、次の週の土曜日のことだった。
学校自体は休みだが、その日ようやく二学期になってはじめて学校に足を運んだ原田は、中越に最後の挨拶を兼ねて、諸々、煩雑なやり取りを済ませると、学校に置いておくことを許可されている辞書類などをまとめて、あっという間に校舎を後にした。
ということを、龍一は外部練習の引率から帰ってきた夕方、反対に帰り支度を済ませ、サタデーナイトに胸膨らませる後輩から一部始終を聞かされて、愕然とした。
(片付けって、引越しのってことだったのか)
なんでも、今夏から父親に別の支社への異動命令があったらしく、嫁が自殺未遂を図ったために棚上げされていたものを、急遽履行することになったらしい。
その夜、龍一は原田の家の前まで行ってみた。明かりはついていたけれど、父親の車が見えたから、声をかけることは出来なかった。
最後に、なにか一言、気の利いた励ましのひとつも言ってやりたかったと思いながら、悄然とアクセルを踏もうとしたとき、思いがけず彼の願いが天に届いた。
車のライトに顔をしかめながら、小型犬のつながれたリードを握ってこちらを注視している原田が、すぐそこにいた。
「先生。どうしてここに」
龍一は車を停めて、窓から顔を出した。
「転校するって聞いたから。これ、餞別な」
「はあ」
ボトル入りのお得なガムだ。運転中の居眠り防止のために仕込んでいたものがたまたまあった。餞別なんてとってつけた嘘である。何も特別な用意なんかしていなかった。
「どこの県に行くんだ?」
「え、変わりませんけど……」
「なんだ。よかったな」
「いえ、父は父の実家がある県へ引っ越します。でも、わたしはまたペンションでお世話になることになりました」
は?
意味をつかみかねて眉をひそめる龍一に、原田はやはり淡々と説明する。
「父はこれから実家から通勤することになりますが、そうなるとわたしがかつての同級生と会わなければならなくなるかもしれないし、そもそも、こんな中途半端な時期から受け入れてくれる寛容な学校もないので、わたしだけこっちに残ることにしました」
「それなら今のまま、あの学校に残ったらよかったじゃないか」
「ペンションから通うのは、骨折りだからです。それに、ペンションにいる限りは、できるだけ二人の役に立ちたいと思います」
電車通いは普通のことだが、彼女の場合、ペンションから、駅のあるふもとの町に下りるまででまず時間がかかりすぎる。そこからさらに学校までの時間を考慮にいれれば、満足いく手伝いの時間を確保できないということだろう。
「幸い、通学の許可が下りた学校があったので、月曜日からはそっちに通うことになります」
「何もペンションに行かなくても、下宿とか、アパート借りるとか、方法はいくらでもあるだろ」
「父に、ナオの世話は出来ません。どうしても相性が合わないらしくて。下宿とかだと、わたしがいない間、ナオが不憫だから」
気丈と呼ぶにはあまりに後腐れない口ぶりが、切ない。
この町に、そしてあの学校に、未練を、少しでも感じてはくれないのだろうか。
恨めしげにナオを見ている自分がサイドミラーに映って、龍一はくっと唇を引き結んだ。
励ますつもりが、どうしてか、引きとめようと的外れな苛立ちをぶつけていることに余計に腹が立つ。
バカじゃないのか。
俺は、教師なのに。
龍一は気を取り直して、大人の表情を繕った。
「そうか。まあ、慣れるまで大変だろうが、おまえならやれるだろ」
それは本心であり、虚言だった。
どういう気持ちで聞いているのか、素直にアゴを上下させる彼女を見つめ、龍一は、次に無理がたたったらおまえは今度はどこで息継ぎをするだろうと思った。
本当の両親がいるところか? いや、一時しのぎにはなるだろうが、長居できるほど心安らげる場所ではない。
今度は、との三文字が頭を木霊する。それに呼応するように鼓動が速度を増して、内側から胸を圧迫する。
今度は。今度は。今度は――。
いや、と龍一は目を伏せた。
(今度なんて、ないほうがいいに決まってる)
……そう、今度というその言葉は、裏を返せば、俺が彼女にまたしても災難が降りかかればいいと願っているということに他ならない。
そう思う心の背景に、龍一は自身のことながらぞっとせずにはいられなかった。
真裕子ではなく、この俺が、原田の近くにいられたらいいのにとの思いが透けて見えた。
(なにをバカな)
くだらなすぎて笑えない妄想を龍一は即座に打ち消した。
どうかしてる。
そんなことしたって、結局いい人を演じていることに変わりはないのだから、伝わらない嘘を言ったところでそこには見せかけの優しさしかなく、真実残って欲しいと願うものはそんな薄っぺらなものなんかじゃない。
だが、俺にできることといえば、どのみちそこまでだ。
そもそも立場をわきまえず、そういうふうに思うこと自体が汚らわしいということを、手詰まりになってあらためて思い出した。
(マジで、どうかしてる)
それに、だ。
龍一は斎場で無力を痛感した瞬間の己の手のひらを思い出して、自身の人格を疑った。
背負うものの多い彼女に深入りすることは拒みながら、彼女の傍を離れるのはいやだと思うのはあまりに身勝手な話だからだ。
原田だって、必ずしも行きたくてペンションに行くわけではないと知っているのに。
俺はこれほど欲張りな男だったのか――。
「先生」
大事そうに龍一のあげたガムのボトルを両手で包みながら、原田はすこし逡巡するように押し黙ったあと、決意を秘めた眼差しを運転席へ向けた。
「どうした」
「わたしは死にません」
死にませんから。
原田は繰り返した。ライトの切れ端が決然とした横顔を青白く照らす。
この若さですでに二人もの家族の御霊を見送り、悪意のない圧力に耐えてきた彼女の言葉だからこそ、そこには言い知れぬ重みと不屈の意思が宿る。龍一はたちまち胸が詰まって、返事が出来なかった。
ただただ見返すばかりの彼を、原田は哀切と自嘲をない交ぜにしたような複雑な表情で見つめる。
その表情がにわかにゆがんだ。原田はそっと目を逸らす。
「先生みたいな人もいるってわかってたら、もっとちゃんと、体育に参加したのに」
でも、と原田は満足そうに微笑むと、
「それがわかっただけでもわたしにとっては大きな収穫でした。これからは勝手な裁量で安易に人を退けないようにする――そう思えたのは先生のおかげです」
ペンションのオーナーが、以前原田が、龍一が自分を探しに山の奥まで来てくれたことをすごく喜んでいたと言っていたのを、実のところ、彼は内心、話半分に聞いていた。
今ようやく、その言葉が実を持って彼の中に落ちてきた。
俺は、彼女の意識を変えるために利用されたいわば犠牲者ではあるけれど、俺の保身に派生した執念が図らずも周囲に対する期待を忘れてしまっていた彼女を救う一助になったのだとしたら、こんなにうれしいことはない。
先生のおかげ、という科白が耳の奥でこだまして、しんしんと胸に染み入ってくる。
「前は、転校先での嫌がらせが尾を引いて、ペンションに移ってからもずっと疑心暗鬼なままでした。周囲は多分、もっとわたしのために心を開いていたはずなのに、わたしはそれに素直に気持ちを委ねることができなかった。だから今度は、もっとうまくクラスに馴染めたらいいと思っています」
「そうか」
龍一は頷いた。
まだ気持ちのどこかでは諦めきれないものがあるけれど、これまでの、幾重にも覆われた茨のごときバリアで周囲を阻害していた自分と、決別する覚悟を決めた彼女の足を引っぱるようなことはできなかった。
死なないというその言葉が、彼女の気持ちを集約している。
水を差すのはちがう。
「俺も、おまえから教わったことは多い。自分の立場について、あらためて考え直すいい機会になった。――お互い、これからだな」
「はい」
互いの立場を考慮して、握手を交わすこともなく、二人は別れた。
虫の音が、夏のにおいをかろうじてとどめる涼風に混ざって耳朶を揺らした。
サイドミラーにはもう誰の姿も映らない。
星空の下、どこかで犬の鳴き声がした。
憎むことから解放されたかった。
あなたを、解放したかったの。
こんな方法でしかあなたに謝れない、最後までひねくれたわたしをどうか許して。
あの人のたったひとりの妹。大事で、大好きだった頃が懐かしい。
でももう戻れない。
これまで本当に、ごめんなさい。