『始まりの一歩』⑤
「ただいま〜」
自宅に着いた俺は、間延びした声と共に玄関の扉を開ける。靴を脱いで上がり、リビングへ向かう。
「優くんおかえり〜。買い物してくれた〜?」
「おう。これ」
キッチンに母がいて、洗い物をしていた。いつもより帰るのが早いが、今朝もいつもより早くから仕事に行った分、早く帰っただけだろう。
「ありがと〜。テーブルの上に置いといてくれる〜」
「はいはい」
ふにゃ、と顔を綻ばせる母親。物腰が柔らかいというか、常に頭のネジがぶっ飛んでる感じがうちの母親のデフォルトだ。
ついでに紹介しておくと、名前は翔上 優美。41歳人妻。地元の病院で看護師をしている。
栗色のロングヘアーを自慢としているそうで、これは俺たち姉弟にしっかり遺伝している。
アンチエイジングを趣味としており、ネット上ではなんか結構有名だそうだ。実の母がお肌のケアだのスタイル維持だのと必死になる姿は見たくないので、俺は決して見ない。
そのおかげか、歳の割にはかなり若く見えるし、事実スタイルもいい。親子で買い物に出かけた時に、姉と間違えられた事があるくらいだ。ぶっちゃけ、すっぴんの姉よりは若く見える。(姉は20歳)
「今日のメシ何?」
テーブルの上に買った荷物を置き、なんとなく気になった夕飯のメニューを問う。
「サラダと〜、お好み焼きにしようと思って〜」
「ふうん」
ふにゃ、ふにゃ、と揺れながら笑顔で答えてくる。この挙動が、というか雰囲気が、気になって気になって仕方ない時期もあったが、もう慣れた。
「で〜?優くん?アレは?」
「は?アレ?」
自分の部屋に行こうとすると、物欲しそうに母がもじもじしている。もう一度言うが41歳だ。
例のブツは?みたいなノリで聞かれても。コソコソと隠しながら渡す白い粉ような代物は持ってないぞ。
「お母さんへの〜愛〜」
溶けるんじゃねぇかってくらいふにゃふにゃした笑顔が眩しい。凝固剤をぶっかけてやりたい気分だ。
「売り切れです」
「え…」
衝撃の事実を知ったかのように固まる母。洗い物をしている手が止まる。
「そんな…優くん…いや…」
「え、何、来ないで」
目に涙を溜めて、ふらふらとおぼつかない足取りで近寄ってくる。気味が悪い。大人気ゾンビゲームでよく見かける動きだ。あのゲームは壁に向かってひたすら走った虚しい記憶しかない。
「いやぁぁぁぁぁ!!!私の優くぅぅぅぅぅぅん!!!」
「おわ!!!」
突如、泣きわめき始め、凄まじい勢いでタックルをかましてくる。かろうじて踏みとどまり、フローリングにぶっ倒れる事態は避けた。俺の下腹部に母がぶら下がるような形になる。重い。思いの外重い。
「どこの泥棒猫!?私の優くんをたぶらかすのはどこの泥棒猫なのぉぉぉ!!!」
「何言ってんだこのおばさん!ってかすげぇ力!!」
泥棒猫なんて表現がすでに古臭い。歳を感じる。
引き剥がそうとするが、理不尽な力が働いており、ビクともしない。
涙まみれの顔を下腹部にうずめて来るのだが、制服が化粧と涙で汚れるので本当にやめて欲しい。でもビクともしない。
「やだやだやだやだぁ!!私の優くんは誰にも渡さないのぉぉぉ!!!」
「こっの…ッ!離せやぁ!」
手を引き剥がそうにも、顔を引き剥がそうにも、俺の力が全て無力化されるかのように歯が立たない。リンゴを割れるくらいの自慢の握力も通用しない。
(こうなったら…!)
泣きわめく母の頭を、両手で鷲掴む。
両手verのアイアンクローを炸裂させてやる。そう思ったその時…。
「……!」
「………」
視線の先にいたのは、姉だった。今朝と格好が変わっていない。さては大学をサボってダラダラしてたな。
缶ジュースを手に持っている。開いてるから空なんだろう。冷蔵庫の中のジュースを奪いに来たな。俺のも残しとけ。
それはさておいて、姉の目線が母と俺を交互に射抜く。
ここで客観的に自分の今の状況を見てみよう。母の頭を両手で鷲掴みにし、下腹部に押し当てているように見える。そして泣きじゃくる母。なんかもう、角度によっては…いや角度云々以前に考えるまでもなくアウトだ。
「いや、姉ちゃん、これは…」
「………」
嫌な汗が全身から滲み出る。同時に体温が2.3度下がったかのように血の気が引いていく。
「…姉ちゃん?」
「……ゆ、優斗が…道を間違えても…」
「は?」
「お姉ちゃんは…お姉ちゃんは味方だからね!」
「おいこら待てぇぇぇぇ!!!!!」
姉は訳の分からない事を口走り、自室へと駆けて行く。俺の叫びも虚しく、何かが壊れたような気がした。
うなだれる俺。泣きじゃくる母。とても気まずい姉。たかがお使いが家庭崩壊の危機を招いてしまうとは思わなかった。
姉にはちゃんと説明して誤解を解こう。母にはもう少しだけ愛をあげよう。もう全ての人間を愛そう。
そんな隣人愛に目覚めた、春先の夕方。こうして今日も、夕焼けと共に、1日が終わっていく。