第三話「踏み出す。」
ゴールデンウィーク二日目。午前11時。昨日に引き続き晴天。
今日は昨日よりさらに暑く、夏なのでは無いかと錯覚するほどの暑さである。
正直家の外に出るのも億劫である。帰って自分の部屋で寝ていたい。
しかし、今日もまた用事があるのでまた赤石の家へと向かっているのだった。
今日の俺の服装はTシャツにカーゴパンツ、腰にウエストポーチをつけ、
右手には紙袋を持っているというものだ。少しオタクの様に見えるかもしれない。
龍野は昨日、結局赤石の部屋に泊まっていった。
赤石はあの後部屋にはいなかったので無許可で決めた事なのだが、
書き置きもして置いたのできっと大丈夫だろう。
俺や村田の家ではほとんど家に家族が居るため龍野を泊める事は怪しまれるし、なかなか難しい。
対して赤石の家には基本的に親はいないし、あいつが変な事をするとは考えられない。
そして俺と村田は自分の家族に外泊の許可も取っていなかった上、
無断で俺達まで家に泊まるのは流石に申し訳無いと思ったので、俺と村田は家に帰ったのだった。
今度赤石に今回のお礼に何か奢ってやろう。
俺は赤石の家まで考えごとをしながら向かっていた。
考えているのは言うまでもなく龍野や『魔王選定式』の事だ。
昨日の出来事は未だ信じることができない。俺にとって突然の『非日常』的体験だった。
公園。衝突。高速移動。魔王。バトルロワイヤル。五十嵐。
能力。技能。そして、契約。
空を仰ぐ。五月晴れとはこの事か、空には雲一つ存在しない。
そんな空と対照的に俺の心ははっきりとしてはいない。さて、どうしたものか。
「えい。」
「ぐえ。」
不意に顎を持ち上げられる。痛い。
「佐藤先輩。何やってんですか?」
顎を持ち上げた手が離れたので視線を正面に戻すと、目の前に村田がいた。
いつの間にいたのだろう。服装は半袖のパーカーにハーフパンツ。
ごついヘッドフォンにごつい腕時計。腕時計は昨日とデザインが違う物だ。
今日は小さいエナメルバックを肩に掛けていた。相変わらず似合っている。
「いや、なんでもないよ。」
なんとなく恥ずかしかったので誤魔化す。
「何でもないのに佐藤先輩が空なんか見るわけないじゃないですか!」
「俺だって空を眺めたくなることだってあるわ。」
「どんな下着が飛んでたんですか?」
「いや何も飛んで……下着!?飛ぶ訳わけないだろそんなの!?
ましてや飛んでたとしてもこんなまじまじと見ないよ!?」
「図星ですね。」
「否定した時に図星って言う奴は本当に心が腐っていると思うんだ!」
「あー分かります。むかつきますよねぇあれ……」
「お前だよお前!」
「だって本当のことじゃないですか。」
「だから下着は飛ぶわけないし飛んでいたとしても興味無いよ!」
「あー、やっぱりホモでしたか……」
「気恥ずかしさからくる女子に対しての興味無い発言を
全てホモの暴露と捉える奴は本当に心が腐っていると思うんだ!」
「あー分かります。むかつきますよねぇあれ……」
「それもお前だよお前!」
「ところで佐藤先輩、先輩はどんな柄の下着が好きですか?」
「なんでそのタイミングでそんな質問を出すのかなぁ!?無いよそんなもの!」
「ノーパン主義でしたか。」
「なんでそうなるんだ!違うよ!せめて履いてる方がいいよ!」
「なるほど横縞が好きなんですね。」
「あーもうそれでいい!面倒臭い!」
「邪な願望をお持ちですね先輩。」
「……"よこしま"で掛けていったのかもしれんけどだだ滑りだぞ……」
「明日から履いてきますね。邪なパンツ。」
「履いてこんでいいわ!」
なんというか村田との会話は疲れる。
何が悲しくて、こんな住宅地のど真中で女の後輩と好きな下着の話をしなくてはいけないのだ。
「最初に戻りますけど下着以外で佐藤先輩が空を見るなんて……」
村田がまた口を開く。
「考えごとですかね。主に昨日の。」
「……お前やっぱ嫌いだわ……」
「図星ですね。」
悩みの種を言い当てられた。
そう、昨日のプロポーズのような俺の「契約をしよう」という提案は、
結論から言うと受諾されなかった。
「ありがたいです。本当はすがりたい思いなんです。でも、駄目なんです。」
昨日の龍野の言葉を思い出す。彼女はそう言ったきり、
そのことを喋らなかったので、自分もその話題を「そうか。」の一言で切った。
龍野の言ったのは、ありきたりな断り台詞である。
だが、ありきたりであるが故にその強固な意志が汲みとれる。
龍野は俺達を、今後この戦いに巻きこまない気である。
「先輩的にはどうなんですか?」
村田の言葉で現実にひき戻される。
「……何がだよ。」
「今後ですよ。まだ契約する気があるのか、このまま引き下がるのか。」
「……向こうが本気でこちらを拒絶するなら俺はそれに対して反論する権利はない。」
「情けないですね。でも、それは正しいと思います。」
なんとも情けない話だと自分でも思う。本当は今すぐにでも力になりたい。
「あくまで俺は第三者なんだ。変に首を突っ込むのはかえって迷惑だ。」
「私はもっと第三者ですからこんなことを言う権利はないかも知れませんが、
佐藤先輩が後悔しないようにした方がいいですよ。
自分が後悔しない為に人を助けるという行いはエゴかもしれないですけど、
龍野ちゃんは今、絶対に助けを求めてます。」
村田がそういったきり、お互い無言で赤石の家へと向かっていった。
赤石の家に入る。相変わらず車はない。
チャイムを鳴らすと今日は妹さんではなく、赤石本人が玄関にやってきた。
相変わらずジャージ装備でさっき起きた感満載のスタイルである。
「赤石先輩、おはようございます。」
「うむ。村田、おはよう。」
「よお。龍野はどうだ?」
「まだ寝ている。」
「そうか。」
家に入り階段を昇り、赤石の部屋のドアを開ける。
綺麗になった部屋のベッドには龍野が眠っていた。
すやすやと眠る、一枚の絵のような美しさを持つ顔を見るだけで、こちらに罪悪感が湧く。
なんでこんな人がつらい思いをしなくてはならないのだろう。
どうして、こんなことになってしまっているのだろう。
村田は部屋に入るとエナメルのバックからビニール袋を取り出していた。
どうやら新品の下着類と自分の着ていた古い服などを持って来たようだ。
サイズは合うのだろうか?と思ったが聞く程の勇気が無かったのでやめた。
実はと言うと自分も古くなったTシャツとジーパンを持って来たので、
一緒のビニール袋に入れた。これで姿格好は少しはましになるだろう。
すやすやと寝ているし、まだ起こしてしまうのは可哀想と言うことで、
俺達はリビングに集まることにした。
リビングでテーブルを囲む様に座ると、妹さんが冷えた麦茶を持って来てくれた。
一口飲んだ後、赤石に昨日のことを聞いてみる。
「赤石。昨日は結局どうだった?」
「妹とはそういう関係じゃない。」
「そっちじゃない。そっちじゃないから怒らないでくれ。」
昨日の俺の態度が相当気にいらなかったようだ。
赤石は俺と目すら合わせてくれない。反省である。
「龍野の様子だよ。どうだったんだ。」
「……相当参ってるみたいだ。夜、一人で泣いていた。」
泣いていた。それを聞いたこちらが泣きそうだった。
どうして泣くほど辛いのに、一人で全てを抱え込もうとしているのだろう。
あまりにも可哀想だ。
「佐藤のことについても聞いてみた。
そう言われたのはこの世界に来て初めてだったからすごい嬉しかったようだ。
それ故に、それだからこそ、佐藤には危険な目に合ってほしくないそうだ。」
どうしてこんなに追い詰められているのに、他人の心配までできるのだろうか。
涙がついにあふれた。どうしてこんなに不幸なんだ。
「佐藤、僕達は元々無関係の人間だ。
たまたま、飛んできた龍野を受け止めて、たまたま、五十嵐と少し交戦し、
たまたま、向こうの事情を知ってしまっただけなんだ。
本人が関わらないで欲しいと願うのならば、
僕はあくまで不干渉を貫く気だし貫くべきだ。向こうの意思を尊重する。」
「……」
「どうした、佐藤。ひどい顔だぞ。」
「ふざけるなよ。俺達はあそこからもう非日常に足を踏み入れたんだ。
無関係なんかじゃない。俺達はあいつのことを知ってしまった。
バトルロワイヤルのことを知ってしまった。」
「興味本位で足を突っ込むことは向こうに失礼だ。」
「失礼で結構だ!エゴで結構だ!でも見殺しになんかできない!
さっきまでは俺も不干渉を選んでいたが泣いていたと聞いて気が変わった!
赤石は間違っていない!でも、俺は龍野をどうしても救いたいんだ!」
椅子から立ち上がる。
いてもたってもいられない。もう一度言わなければ。
あんなに悲しんでいる人間を放っておくなんて、俺にはできない。
「……!佐藤!」
赤石の静止を無視し、俺はリビングから出ていき赤石の部屋へと向かい、
ドアを開け放った。ベットを見る。顔面蒼白。
そこには、誰もいなかったのだ。
ベットは綺麗に整えられており、開け放された窓から吹く風で、
カーテンが揺らめいていた。側を見ると丁寧に折たたんだジャージがあった。
「嘘だろ……」
テーブルには書き置きが置いてある。
「外から恐らく昨日の人達に見られていたので逃げます。
最後の最後まで自分勝手でごめんなさい。服、ありがとうございます。
申し訳無いですけど使わせて頂きます。」
膝に力が入らない。呼吸ができない。目の前がぐるぐると回る。
胃から物が込みあげる。現状を理解したくない。
龍野は、俺達の前から、消えていた。
異変に気付いた赤石と村田が後ろに立っていた。
「気が変わった。このままでは危険だ。『有言実行、龍野の捜索。』」
赤石は静かに呟いた。
いつの間にか日が傾いている。ビルの多い方面まで走っている。
昼飯も食べていないが正直今は喉が通らない。そんな場合ではない。
喉の乾きがひどいので、一度止まって自動販売機で水を買う。
暑く火照った体に冷たい水が染み込む。カキ氷を一気食いしたような頭痛が起こる。
ペットボトルをウエストポーチに入れ再び走り出す。公園にもファミレスにも龍野はいなかった。
昨日の五十嵐の言葉を思い出す。「次会った時は全力でやろう」。
もし五十嵐が龍野と出会えば、恐らくあいつはまた危害を加えるだろう。
それだけではない。バトルロワイヤルには他の参加者だっているはずだ。
最悪の光景が思い浮かぶ。もし、あの時みたいな戦闘が起きてしまったら?
早く。早く見つけないと。手遅れになってしまう。疲れきった体に鞭を打ち、もう一度走りだす。
「待ってよ、お兄さん。」
声が聞こえる。少年のようなやや高い声である。
振り向く気はなかった。しかしその声には異様な雰囲気を感じた。気付けば俺は振り向いていた。
いつの間にか周りが路地裏になっていた。いや、いつの間にか路地裏へと走り出していたのか?
風景の違和感に悩みながら正面を向くと、
灰色の長袖のパーカーに膝くらいまでのズボン、頭に野球帽を被った人間がいた。
顔は見ることができず、性別の判断はできなかった。
「お兄さんはさ、今、ドラゴンを探しているんじゃないのかな?」
「…ッ!」
ウエストポーチから手製の鈍器を取り出す。
靴下の中にコインを入れ、そこに小さい棒を差仕込みコインが落ちないように
輪ゴムなどで固定する。ブラックジャックやサップなどと言われる物だ。
戦闘になった時に少しでも戦えるように作っておいた。得物があった方が少しは戦えるだろう。
持っていることが悟られないようにうまく相手に見つからないように持つ。
こいつは今、「ドラゴン」と言った。魔物の存在が分かっているという事はバトルロワイヤルの参加者だろう。
人間か魔物かは判断できないが危険である。もう一つ恐れていた事が起きてしまった。
俺一人で対処ができるだろうか。焦燥感が走る。
「僕自身はそんなに戦う気はないよ。
あとお兄さんの手に持っているブラックジャックは捨ててほしいなぁ。」
「くっ……」
心を読まれているかのような相手の言動に動揺する。
何をしてくる。遠距離か近距離か。防御姿勢を取っておくか。
「別に攻撃する気はないよ。」
……いや、これは心を読んでいるんじゃないのか。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。」
「……そりゃどーも。」
「僕はね、お兄さんに取引をしにきたんだ。」
「取引?」
「僕がお兄さんにあげるものは恐らくお兄さんが今一番求めているもの。
ドラゴンの居場所だ。代わりにお兄さんは今後僕に攻撃をしないで貰いたいんだ。」
「……具体的にどういうことだ。」
「お兄さん自身は勿論、もしお兄さんが契約をしたら契約相手、
また今後増えたお兄さんの友達も含めて、僕に攻撃しないでくれ。
それだけでいい。それだけで、いいんだ。」
暗示をかけるかのような慎重な喋り方に気味が悪くなる。
言っている内容は正直、俺一人で承諾していい物なのか分からない。
これは俺一人の問題ではなく、周りの人間も巻き込む取引だからだ。
バトルロワイヤルで相手を攻撃しないなんて気軽に約束は出来ない。
そんな物を守っていたら無抵抗に殺されてしまうからだ。
故にこんなことを口約束だけですますはずがない。何か向こうも企みがあるはずだ。
だがそれが何かはわからない。こういう時、自分の頭の悪さに嫌気がさす。
「ちなみに、この情報は他の人にも教えているんだ。
確か、名前は……そう、五十嵐とかっていったかな。」
「……!!」
「いい顔だね。怒り剥き出し。焦り駄々漏れ。
人のそういう顔って見てて飽きないや。さぁ、どうする?」
「……それはどれくらい前の出来事だ?」
「さぁー?3分くらい前だったかもしれないし、お昼前だった気もするなー。」
「この……糞野郎!!」
「ごめんね。僕だって生き残りたいんだ。」
ケラケラと耳障りな声で笑う野球帽。こいつと戦闘して場所を吐かせるか。
いや、それではもしこいつの言うことが本当なら間に合わない。
そもそもこいつは心を読むことができる可能性がある。
もしそうだとすると、俺の格闘能力では倒せるかどうかも怪しい。
取引に乗るしかないのか。どうしたらいいんだ。悩んでいると後ろから足音が聞こえる。
「なるほどな。取引をする必要はない。」
「なっ!?」
後ろから聞こえた足音は赤石だった。
「……あー。困ったな。なんでこの場所が分かったんだろう。
普通の人はここまでこれないはず何だけどな。」
「分かったわけではない。偶然だ。僕は自分の家から今に至るまで、
信号以外で止まっていない。完全な虱潰しをこの地区で行っているだけだ。」
あっさりと言ってのけたが、それは車でも使わない限りしんどいレベルである。
「へー。お兄さんすごいね。考えることと言ってる事が完全に一致してるよ。
あんまりいないのにね、こんな人。」
「褒め言葉など要らない。目星はついた。
後、ここら辺で回っていないのはこの先の立ち入り禁止の廃ビルの中だ。
隠れる場所にもなるから、恐らくいるだろう。」
「あってるね。ドラゴンはね。立ち入り禁止の廃ビルの中にいるよ。」
えらくあっさりと答えを言った。
野球帽はケラケラ笑う。もはや不気味である。
ここで答えを言うのならさっきの取引の意味はあったのだろうか。
「よし、好都合だ。佐藤、行くぞ。」
「お、おい引っ張るなよ!」
赤石に引き摺られてその場を後にする。
「気をつけてね。もう敵が行っているかもしれないからね。」
ケラケラと笑う野球帽を尻目に俺達は走り出した。
「残念だなぁ、彼とも取引がしたかったのに。まぁ君とできたからいいんだけどさ。
……ほら行ったよ、五十嵐。」
「成程。お前の『技能』は確かに便利だな。『未』。」
「それほどだよ。それじゃ『辰』退治、頑張ってね。『丑』さん。」
「言われんでもだ。」
廃ビルには「株式会社稜千運搬龍成地区店」と書いた看板がかかっている。
確か不祥事が発生し、規模が収縮した際にここは廃ビルになったのである。
エントランスに向かうがガラスの自動ドアはコナゴナになっており、
ガレキやゴミでぐちゃぐちゃになっており、入れそうにない。
「うわぁ……なんじゃこりゃ。入り口あるのかこれ。」
「一階の窓だろうな。ガラスが刺さるかもしれないから気をつけろよ。」
微妙に割れた先が残っているガラスを取り除きつつ廃ビル内へと侵入する。
パリパリと足元のガラスが割れる音がする。
不良がたむろしたのだろうか、比較的最近に感じられる煙草の吸いがら、
壁には幼稚な文章の落書きが見られる。天井の蛍光灯は殆ど割れており、
光は隙間からの夕焼けの赤い光以外は一切入らず、建物の中は赤と黒の二色しか無かった。
「佐藤、二手に分かれよう。そうした方が見つけやすいだろう。」
「待て赤石。お前、何か武器持ってるか?」
「夜遅くまで捜索に時間がかかると思ったので、懐中電灯は持って来た。」
懐中電灯ならそれなりに武器になるだろう。
結局先ほど捨てたブラックジャックはその場で回収しておいた。
4階建ての建物の3階より上は俺が周り、それより下は赤石が周ることになった。
コンクリートの階段だが、一段一段昇る度に微かに軋む音がする。
俺達が居る間に倒壊するのではないだろうか。立入禁止は伊達ではない。
3階。大広間と倉庫と給湯室がある程度のフロアであった。
給湯室を確認する。換気扇以外に光が入る場所が無く薄暗い。
カビが生え錆びついている安っぽいキッチンのような設備には、
何か虫のようなものが動めいている。しかし、ここに人が居る気配はしなかった。
後を去ろうとした時、布のようなものが足元に落ちているのに気づく。
暗くてよく見えなかったので大広間の窓のところへと持っていく。
シンプルな白で派手な装飾は無く、肌触りはいい。
手に収まるサイズの小さい布切れで、足を入れるであろう所が二箇所存在する。
これは。なんというか。その。あれだ。
「……この近くに居たのは確かだな。」
マンガとかでラッキースケベを喜べる主人公が居るが本当にその精神は尊敬できる。
リアルでやったらただただ気まずいだけだと思うのだ。
恐らく、村田に貰った下着に着替えたのだろう。
何でこんなところに落ちているのかは知らないが。
とりあえず近くにいるという確信が得ることができただけで安心した。
手の布切れを地面に置き、辺りを見回す。足音に気づいて、
敵だと思い隠れているのかもしれない。
先程の野球帽の少年の言った五十嵐の事が気になる。
今のところ足音は聞こえない。どうにかして探さなければ。次に倉庫を覗き込む。
窓が一つあるだけで、全体をぎりぎり見渡せる程度の明かりが指し込んでいる。
中に入る。埃が多い。アレルギーを持ってない自分が目が痛くなるほどだ。
探そうと思い一歩足を踏み出した瞬間。自分の体が引っ張られた。
反射で引っ張られた方向に拳を飛ばす。
「うっ……」
完全に入っている訳では無いが、当たりはした。
しかし手はまだこちらを引き込む。一発貰うのを覚悟する。
「ま、待ってください、敵じゃないです……」
「!?りゅ、龍野!?」
殴った相手は龍野だった。
「とりあえず静かにして、この扉の影に来てください。状況を説明します。」
あまり見えないが、龍野である。
声のトーンから殴ったダメージはさほど無いみたいだ。
とりあえずひと安心である。
「本当に申し訳無かった……女を殴るなんて最低だ……」
「いえいえ、私の引き込み方が悪かったんです。気にしないで下さい。
……佐藤さん。貴方はこのビルに何人で入りました?」
「俺を入れて二人だ。赤石がいる。」
「佐藤さんが一人ってことは、二手に別れています?」
「ああ。ついさっきここに入ってきたばっかりだ。」
「……実は先程、恐らく佐藤さん達が入る少し前に、二名誰か入ってきたんです。」
「それは多分、昨日の五十嵐だ。二名ってことは契約相手も一緒か。」
「速度操作の人ですね……ともかく、
そんなわけで今は向こうに気がつかれないように隠れているって状態です。」
「なるほど。概ね理解した。」
二人でできるだけ固まって息を殺す。
足音は聞こえてこない。このフロアにはいないのだろうか。
だとしたら今のうちにやっておいたほうがいいんじゃなかろうか。
「龍野。」
「なんですか?」
「あんな風に出ていったのにこんな風にまた絡んで本当にすまない。」
「……なんで佐藤さんはそんなに優しいんですか?」
優しい、という言葉が胸に刺さる。
「俺は優しくなんかない。たださ、龍野、やっぱりお前無理してるだろう。」
「……」
「何故、俺がここにいることに対して何も言わない?
勝手についてきたという怒りとかあるだろう。」
「……」
「本当は助けを求めているんだ、お前は。それを必死に隠そうとしている。」
「……うぅ……ぐすっ……すびません……えぐっ……」
……な、泣かせてしまった。女の人を殴った上に泣かせてしまった。
母親に「女を殴る奴と泣かせる奴と裏切る奴は人間のクズだ」と言われていたが、
もうすでにクズ二つ分の行動をしてしまった。
「えっ、あっご、ごめん。言い過ぎた。」
「違います……怒ってるとか悲しいから泣いてる訳じゃないんです……
嬉しさと、自分の情けなさに呆れているんです……」
「龍野……」
「昨日の話、本当に嬉しかったんです。
私にそんな事を言ってくれたのは、佐藤さんだけでした。
だからこそ断ったんです。こんないい人を危険に晒しちゃいけないって。
でも、今こうやって迷惑を掛けてしまって……」
「……俺の迷惑なんて考えなくていい。
俺は昨日の夜、受け止めた時からもう無関係なんかじゃない。
非日常に足を踏みいれたんだ。だからこそ、龍野を守りたい。
これはエゴかもしれないし興味本意かもしれない。
でも見殺しになんかしたくない、力になりたいのは本心だ。
もう一度、厚かましいかもしれないがお願いがある。龍野。俺と契約してくれ。」
返事が返ってこない。何だかこちらが恥ずかしい。
するとこちらの手を包み込むように握って来た。温かい手だった。
「……よろしくお願いします!」
龍野は装飾の施されたナイフを出し、
自分の右手の親指の腹を浅く切った。少し血液が出ている。
「契約の方法は簡単です。お互いの血液を僅かな量でもいいので同時に摂取する。」
続いて俺の左手の親指の腹を浅く切る。痛みは無い。
そして龍野が俺の親指を持ち口にふくんだ。
「えっ。」
「さとうさんもおねふぁいひまふ。」
……。もしかしてこの人、天然ボケなんじゃなかろうか。
相手の一般常識を怪しみながら、龍野の指の血液を自分の指で掬って舐める。
その時である。体全体に電流が走るような感覚を覚える。
主に腹部が熱を持ち始める。苦しい。龍野が指を咥えるのをやめ、倒れそうな俺の体を支えた。
「ぐっ……」
「すみません、少し耐えていてください。」
体の内側から何かが出る感触である。耐えられ無い程ではないがきつい。
これが『能力』を手にいれるという感覚なのだろうか。
内側から腹部を押される。血管に血が流れているのが分かる。
自らの体がほのかに発光しているのを理解する。一体どういう理屈なんだろうか。
そんな時である。
洋楽が突如流れ出す。これは俺の携帯の村田の着信音である。
先ほどまでの喋りは小声でしていたが何とかなっていたが、
この音は不味い。なかなかに大音量なので、こちらの居場所が割れてしまう。
そう思ったと同時、風を切り高速で何かがこちらに近付く音がする。
こうなってしまっては音の元を消している場合ではない。
龍野の手を払い、這いずるように動きながら倉庫の入口を締める。
こうすることでドアを開けるというロスができる。
「さ、佐藤さん!」
ドアを締めて数秒、ドアが開く。目の前に人が立った、ような気がする。
気がする、とする理由は何故ならそれを認識した瞬間に体が浮いていたからだ。
腹の痛みがじんわりと広がる。拳の形を腹筋で感じる。
体は倉庫の奥の資材の山に吹き飛んでいく。
派手にパイプ椅子の山を崩し、最終的に壁に叩きつけられた。
「……こんなところに隠れていたのか。面倒臭いことをするな。
この前は手加減したが今日はもう止めやしない。」
「うっ……」
五十嵐の声が聞こえる。霞みそうな意識の中、何とか首を上げ、五十嵐の方を向く。
龍野が首だけで持ち上げれている。
それを見た瞬間、自分の中で何かが弾けたような気がした。
俺は一体何のために契約をしたんだ。
俺は、こういう時に立ち上がるために契約したんだ。
昨日とは違うんだ。俺一人で守って見せるんだ。
足に力を入れる。今日は一人で立ち上がることができた。
いつの間にか腹部の痛みも、契約時の体調不良も無くなっていた。
鮮明な意識を取り戻し、最高のコンディション。文句なしである。
五十嵐の方に視線を送るとこちらに気付き驚愕の表情を見せる。
「……馬鹿な。ほぼマッハのパンチを打ち込んだのに立ち上がれるだと……
!!そうか、契約をしたのか!まったく面倒臭いな……」
「ここは序章だ……ここはまだ、『非日常の序章』だ。
昨日の俺は入ってすらいなかった。今の俺はようやく足を踏み入れた。
俺は、お前を倒して序章を終える……!『非日常』に踏み出すんだ……!!」
-fin-