9 ユウの秘密2※
※セシル視点の話です。
あの気に入らない魔道士が来てから、二か月が経った。
話を聞けば聞くほど、胡散臭い奴だった。
記憶喪失、と言っている割には、妙に鋭い指摘をしてくることがある。暇さえあれば文字を書く練習をしているけど、書けないのはあくまでも大陸の文字で、他の言語はどうやら知っているらしい。
何やら一生懸命に書き綴っている紙の束を取り上げて、これは何だと詰問すると、あいつは観念したように「自分用の辞書を作っている」と言った。
ナイフや服などの日用品から、国の名前まで、膨大な量の名称が、ユウ曰く「アイウエオ順」とやらで紙面に並んでいた。
はっきり言って意味不明だけど、ユウの奴、絶対に文盲なんかじゃない。
(何も覚えていない、だって?)
どこからどう見ても怪しさ満点なのに、兄は何故かユウを気に入っている。
ユウに魔法を教えている時、色々な国の話をしている時、ひどく楽しそうなのだ。俺は、それが腹立たしくて仕方なかった。
俺は魔法が全く使えないから、二人の訓練に割り込めない。ハンターでもないから、依頼の話もわからない。
俺はギデオンから出たことがないから、知らないのだ。……魔物、と呼ばれているものたちが、どんな姿かたちをしているかさえも。
(……あれ?)
何となく目が冴えて、深夜になってもその日は眠れそうになかった。
少し歩いて疲れれば、睡魔も襲ってくるだろうと考えて、俺は自室のベランダから庭に出た。
屋敷の前側にも立派な庭があるが、俺が好きなのは自室に繋がっている裏庭の方だ。ここにはアメリという白い花が一面植えられている。亡くなった母が大切に手入れしていた花で、これだけは俺が母から引き継いだ。
何でも出来る万能選手の兄だが、どうやら草花の世話だけは絶望的に向かないらしく、兄が肥料をやったり水をやったりすると、なぜか白い花は見る間に枯れてしまうのだった。
アメリの中を歩いていると、遠くに、良く見知った人影を見つけた。
(ユウ?)
ユウだ。手に何かの包みを持って、弾むような足取りで歩いている。調子ハズレな鼻歌まで聞こえてきた。
あの脳天気野郎が、まさか眠れないなんてことはあるはずもないし、こんな真夜中に何やってんだか……。
ギデオンの頭でもあるうちの家ほどになると、嫉妬と羨望も含め、良くない感情を向けてくる輩も少なくない。ユウだって、のほほんとして見えるが、あるいはそういう奴らからの刺客という可能性だって……皆無ではないはず。
こんな時間に出歩く時点で、十分に変だ。
俺は息を潜め、足音を殺し、一定の距離を保ちつつ……ユウの尾行を開始した。
あいつが、本当に他国からの回し者なら容赦はしない。ひっ捕らえて、大勢の目の前で、土下座させてでも兄に謝らせてやる。
俺の暗い想像をあざ笑うかのように、ユウが向かった先は、大衆浴場だった。
……って、フロかよ!
こんな深夜にハタ迷惑な。わざわざ浴室付きの一番いい部屋を宛がってやったのに、恩知らずな奴め。
それはそれで腹立たしく思いながら、俺はユウの後を追いかけ、風呂屋の中に入った。
着替えの真っ最中のユウがいるかと思ったら、なぜかそこは無人だった。念のため浴場の方も覗いたが、誰もいない。
見間違えたのか、俺?
急に馬鹿馬鹿しくなって帰ろうかと思った時、薄い壁を隔てた隣の浴室から、あの調子外れの歌声が聞こえてきて、俺は心底驚いた。
(ユ、ユウの声? なんで女湯から……)
あいつ、間違えたのか? 間違って女湯の方に入っちまったのか?
まさかそんな……いやあり得る。あの肝心なところで抜けているユウならばやりかねない。
よりにもよって、市長家の客人が、女湯覗き……あり得ねぇ! 耳を引っ張って、一刻も早く連れ帰りたいのは山々だが、まさか俺が踏み込むわけにもいかない。
仕方なく、俺は、苛々しながら風呂屋の前でユウが出てくるのを待っていた。あの馬鹿の痴漢行為を知る人間が、どうか俺以外にはいませんようにと、祈りながら。
女湯でたっぷりと長風呂した後、ようやくユウは出てきた。
お前! と罵声を浴びせかけようとして、俺は思わず言葉を飲み込んだ。
ユウは、いつものあの紺色のマントを羽織っていなかった。袖の無い薄い上衣を身に付けているだけだった。
濡れた黒髪を手ぬぐいで拭きながら、火照った肌を冷ましている。
細い首。細い肩。細い腕。何もかもが華奢で、下手に力を加えたら、壊れてしまいそうなほど。
何よりも目が行ったのは、薄い布地を持ち上げている、胸の部分の不自然なその曲線だった。
(……女!?)
男湯にいないのは当然だった。女だったのだ。
でも、なぜ、隠している? 男のふりをして何の得が……いやハンターになりたいのなら、圧倒的に男の方が有利だ。男は先に登録してしまって、後からゆっくり強くなればいいが、女は先にある程度実績を積み上げておかなければ、そもそもハンターとして認められない場合が多い。
そのためだろうか? それにしても……。
(もったいない)
と、思ってしまった。
改めて見ると、けっこう可愛い顔をしている。もう少し髪を伸ばして、流行りの服でも着せたら、十分に鑑賞に堪えうるというか……。
(……なんだ?)
急に、息苦しくなってきた。深呼吸をしようとしても、なぜか肺が固まって動かない。ひゅ、と、笛に似た音が咽から洩れた。
まずい、発作だ。
ここのところ落ち付いていたのに……深夜に長時間出歩いたのが良くなかったのかもしれない。
俺がどんなに強く望んでも、決してハンターになれない理由が、これだった。
俺には子供のころから持病があって……突然、咳が止まらなくなったり、こんな風に息苦しくなったりすることが、度々あった。
(あー……まずい)
幸い、今日はそんなに重くないようだ。とにかく嵐が過ぎ去るまで、じっとしているしかない。
「セシル!?」
ユウが、ぽかんと口を開けて、こちらを見ている。俺の様子の異常に気が付いたのだろう、一目で女とわかるその格好で、躊躇わず駆け寄ってきた。
「なに? 大丈夫!? もしかして……喘息!?」
背中を擦ってくれる掌の感触が心地よい。
息苦しさが治まる時間が、いつもより少し早いような気がした。