5 慟哭2※
※レファーン視点の話です。
一人部屋を取ってやると、殊の外あいつは喜んだ。
四六時中、赤の他人の俺と一緒にいて疲れたのだろう。どうせなら少しでも騒音に悩まされず休めるようにと、女将に頼んで二階の一番隅の部屋に移してもらった。
俺自身はギデオンに自分の家があるので、そちらに戻っても良かったのだが、言葉はともかく文字が全く読めないユウの不自由も考えて、同じ宿の一階に部屋を用意した。
ギデオンのハンターになってしまえば、とりあえずユウの身許は保障される。それまでは俺が保護者のようなものだった。
夕食を終え、一休みすると、俺は色街の方へと足を向けた。仕事中は当たり前の話だが女気がまるで無いので、ギデオンに戻った時には、存分に楽しむことにしていた。
俺だけではなく全てのハンターがそうだろう。だからこの城塞都市の一角には、巨大な歓楽街があり、その歓楽街が目当てでわざわざ遠くから足を運ぶ輩までいるほどだ。
ハンターの多くは、歓楽街に馴染みの女を持っている。が、俺は特定の女に縛られるのは好みではなかったので、ある程度店は絞るものの、毎回違う女を抱いていた。
やる事をやったら、後はひたすら寝るか、さっさと家に帰ることにしている。ベッドの中でだらだらと長話をされるのが一番苦痛だった。空気の読める女、聡明そうな女をなるべく選ぶようにはしていたが、はっきり言って、色街にそういう女は少なく、外れを引く事も度々あった。
今回の女は外れだったようだ。女将がお勧めだと言うだけあって、顔と体は申し分なかったが、それだけだった。やたらとまた来てほしいだの、次はいつ来れるかだのと、せがんで来るので、終いにはうんざりした。次が何月何日になるかなど、俺にだってわからない。
「またいつかな」
たぶん、または無いだろうが、適当なことを言ってその場を後にした。
なぜ、花街の女というのは、やたらと噂話と身の上話をしたがるのだろう。別に聞いてもいないのに。記憶喪失、などと偽ってまで一切を語ろうとしないユウとは、えらい違いだ。
(ユウ・コウサカ、ね)
変な響きの名だと思う。七つの国のどれにも当てはまらない。
それに、あの顔も。男だとは思うが、女に見えるときもある。髪も目もあれほど真っ黒なのに、肌は陽に焼けているだけでむしろ白い。いや、象牙色とでも言うべきか……。
黒髪黒目なら七つの国の一つ、ワレーンの民がそうだが、彼らはもっと根本的に浅黒い。髪も縮れて癖が強く、黒絹糸のようなユウの髪とは明らかに違いすぎた。
(妙な計算もしていたな……)
クレハ、ギデオン間の距離ついて話してやった時、ユウは何やら一生懸命に地面に妙なものを描いていた。
俺にはまったく意味不明の線と記号だったが、それが文字であり、何かの計算式であることはわかった。
文盲なのに計算が出来るなどという事はありえない。だから、ユウは文字が書けるのだ。この大陸ではない何処か……恐らくは途方もなく遠い、ユウの国の文字を。
考えれば考えるほど、ユウは不思議な人間だった。
どこから来たのか、あの場で何をしていたのか、なぜあれほど強い魔力を持ちながら、魔法についてもギルドについても完璧なまでに無知なのか、疑問は尽きない。
だが、それを聞くと、返ってくるのは「記憶喪失なんで忘れました」だ。
まったく。変な奴を拾ったと思う。
宿に戻ると、既に深夜の二時を過ぎていた。
さすがにこの時間に活動している人間はいないようだ。店番の親父すら、カウンターの奥で腕を組んで舟を漕いでいた。
俺の取った部屋は一階にあるのだから、そのままカウンターの前を通り抜けて真っ直ぐ進めば良かったのだが、なぜか、ふと、二階に行ってみようと思った。
もちろんこんな時間にユウを起こすつもりはない。ただ理由もなく足が向いただけだった。
二階に上がり、廊下の途中まで来た時、悲鳴のような慟哭が聞こえてきて、俺は思わず足を止めた。
(ユウ……?)
ユウの声だ。間違いない。
いつも飄々として、捉えどころのない笑顔で俺の質問もさらりとかわすあのユウが、泣いている。
何があった?
なぜ泣いている?
そんなにも、悲痛な声で。
部屋の中に踏み込んで問い質したい誘惑にかられたが、やめた。
人間誰しも心の中に闇の一つや二つ、抱えているだろう。
それは立ち塞がる敵への怒りかもしれないし、大切なものを奪われたことに対する嘆きかもしれない。あるいは、押し付けられた運命に感じるやるせなさ、底知れぬ深い絶望か。
ユウの声はその全てを含んでいるようであり、また、その何れにも当てはまらない違う響きを帯びているようでもあった。
明日また、いつものように笑って見せるために、いま全て吐き出して、流してしまおうとしているかのような……。
(ユウ……。お前はいったい……)
声はやがてやみ、辺りに静寂が満ちた。
閉じたままの扉を一瞥し、俺は踵を返した。
翌日、ユウはいつものユウだった。
目を赤く腫らしているわけでもないし、意気消沈しているわけでもない。この小さな体のどこに、と首を捻りたくなるくらいの量の朝飯を、しっかりと完食した。
……俺は夢でも見たのだろうか。
「なぁ、ユウ」
「なに?」
不味そうな野菜の絞り汁を、ユウはぐびぐびと飲み干した。
よく、そんなものを一気飲み出来るな。味覚変だぞ、お前……。
「こういうものだと思って飲めば平気だよ。レファーンも朝から肉ばっか食べてないで、野菜取った方がいいよ。でないとうちの父さんみたいに糖尿病予備軍になるんだから」
「……トウニョウビョウ?」
何だそれは。
「あ、でも、レファーンは見るからにヨーロッパ系だから、アジア人みたいに肉食しても糖尿病にはなりにくいのかな? でも代わりに太りやすそうだよね」
「……ヨーロッパ? アジア?」
ユウの話は、時々よくわからない。
「何でもないよ。こっちの話」
要らんと言うのに、ユウは野菜の絞り汁がなみなみと注がれた器を、俺の前にどんと置いた。
そして、憎たらしい笑顔と共に、言い放ちやがった。
「これくらい飲めるよね? レファーン大人だもんね。好き嫌いなんて……無いよねぇ?」
……心配して損した。
昨日のアレは夢だ。幻想だ。
俺は草汁のコップを手に取ると、渋々と、喉の奥に一気に流し込んだ。
好き嫌いとかいうレベルじゃないぞ、これ。人間が口にするものとは思えない。
「健康のために毎日飲もう!」
その一言は、冗談だろうと信じたい。