4 慟哭1
今日は申請だけ済ませて、ギデオンの中に宿を取った。
今まで野宿ばかりだったから、本当に嬉しい。おまけに、レファーンは自分と私の部屋を別々に分けてくれた。彼が疲れていてゆっくりしたかっただけかもしれないけど、この世界に来て初めて持てた一人きりの時間に、私は心の底から感謝した。
水が豊かで魔法という動力源があるギデオンでは、お湯はさほど貴重なものではなかった。温泉が湧く地域でもないのに、街のあちこちに大衆浴場があるのだ。
私はそれを聞いた時、もう居ても立ってもいられなくなって、ともかく風呂屋に駆け込んだ。深夜の一時というとんでもない時間にもかかわらず、店は営業をしているらしく、入口に鍵はかかっていなかった。
ドアは開いているものの、客は誰もいなかった。それどころか受付の人すらいなかった。無人のカウンターに、籠と、白い案内板が置かれてある。
字は読めないけど、板の意図するところはわかった。たぶん、御代はこちらにとか書かれてあるのだろう。
籠の中に小銭を入れると、私は脱衣所に入った。手早く服を脱ぎ、いよいよ夢にまで見た風呂との対面を果たした。
日本みたいになみなみと湯の溢れる、本物の銭湯だった。
ここに来る前に、ちゃんと石鹸を調達してきたので、体も髪も心ゆくまで洗うことが出来た。泡立ちが悪いのは、この世界の石鹸がそういう仕様なのか、単に私が汚れ過ぎているだけなのか。たぶん両方だろう。
泡立てるのは諦めて、私は、体と髪に続き、下着をごしごしと洗いにかかった。
何日、同じものを履き続けたことか! 仕方のない話とはいえ、かなり辛かった。清潔好きな日本人の私にとっては、拷問に近かった。直接肌に触れるものだからこそ、毎日ちゃんと取り換えたい。特に下は!
そのうち生理が来たらどうしようと、ふと思った。
別に痛くも重くもないけれど、さすがにその対処についてはレファーンに聞けない。
(一人で生活できるようにならないとなぁ)
風呂でこざっぱりすると、生き返ったような気分になった。
垢と一緒に、この世界への不安感も、不信感も、洗い流されていったような感覚。
宿に戻り、自分の部屋に入った。そこは二階の角部屋で、偶然だろうけど他に客もいなくて、妙に閑散としていた。
ベッドに倒れ込んだけど、すぐに睡魔は襲ってこなかった。百六十キロの道のりを歩き続けた体は、疲れてへとへとのはずなのに、思い出してもどうしようもない事ばかりが頭の中を駆け巡り、気付けば涙が止まらなくなっていた。
(お父さん、お母さん、お兄ちゃん……亮)
私は五人家族だった。両親と、上に大学生の兄が、下に中学生の弟がいた。
父は普通のサラリーマンで、母は契約社員をしつつ家事もこなす兼業主婦だった。若干シスコン気味の兄は時々鬱陶しかったけど、頭が良くて密かな自慢で、生意気な弟とは喧嘩ばかりしていたものの、何だかんだと仲は良かった。
私は希望する高校に入り、好きな陸上を相変わらず続けていた。成績は良くも悪くもなく真ん中で、クラスの友達と、部活の友達と、毎日賑やかに楽しくやっていた。
現代人が異世界にやって来る理由って、何だろう?
運命? 使命? それとも偶然?
私の場合は偶然だ。事故で死んで生まれ変わったわけでも、誰かに呼び出されたわけでもない。
土曜の朝連の帰り道、突然、目の前が真っ暗になったのだ。音と気配を完璧に遮断する箱を、何の前触れもなく、真上から被せられたような衝撃だった。
五感はもちろん、第六感という極めて原始的な力なすら働かない圧倒的な闇の中で、呆然としていた時間は、たぶん数秒にも満たないだろう。それくらい、あっという間の出来事だった。
だけど、そのあっという間に、私を取り巻いている環境は激変した。
遮断された空間から戻った時、私は既に元の世界にはいなかった。少しだけ月の大きな今の世界で、濡れた地面の上に尻餅をつき、悪い冗談としか思えないあの樹木の怪物と対峙していたのだった。
瞬きの間に、何が起きたか。
今となっては、想像するしかないけれど……。
(神隠し)
脳裏を過ぎる、たった三文字。
なんて曖昧で、残酷で、理不尽な言葉だろう。だけど、奇妙な確信を伴って、冷たい隙間風のように私の心に忍び込んでくる。
私は隠されたのだ。元いた世界に。
何かの拍子に弾き出され、追い出され、それまで当然のように存在していた私だけの居場所から、放り出されたのだ。宝くじに当たるよりも遥かに希少な確率で。
そして、異物となってしまった私をたまたま拾い上げてくれたのが、こちらの世界だったのだろう。
言葉が通じるのは、魔法が使えるのは、哀れに思ったこの世界が迷子に与えてくれた、せめてもの恩恵だったのかもしれない。その力で、生き抜いてみせろと。
「うっ……く」
ああ、駄目だ。涙だけではなく、嗚咽まで出てきた。
帰りたい帰りたい帰りたい。
でも帰れない。
私はまるで捨て犬のように、元いた世界から追い出されてしまった人間だから、帰る資格があるのかすら、わからない――……。
「ふぇ……っ」
宿は閑散として、誰もいないことを思い出した。
深夜に泣こうが喚こうが、気にする人も迷惑をかける人も、いやしないという事を。
「うぅ……うわああぁぁぁぁ!!!」
だから、私は泣いた。大声で。
今まで堪えてきた全てを、残らず吐き出す勢いで、獣のように、哭き続けた。