15 思いがけない再会
むく、と私は起き上がった。
カーテンの隙間から差し込む光が、朝を教えてくれていた。窓のすぐ向こうに、鳥ののどかな囀りも聞こえる。
遅すぎず、早すぎず、良い時間に目が覚めたらしい。
(夢、ねぇ)
たぶん、夢じゃない。遠い国で現実にあった出来事を、私は見ていたのだろう。
大神官、と呼ばれる青年の顔を、私はしっかりと覚えていた。無表情の仮面のその奥の、穏やかで優しい……少し寂しげな、その顔を。
(微妙だ……。何でもかんでも見えてしまうって。これも大地の子とやらの力なんだろうけど。下手すりゃ覗きだよ、これって……)
とりあえず、あまり考えないようにしよう。考えすぎると、見てしまう気がする。
私は今日の朝御飯を頭に思い浮かべることにした。
ふわふわの白いパンに、濃厚なバターに、スクランブルエッグに、大きなソーセージ……。
食後には必ず珈琲が出てくる。これがまた苦くて、私はそのままではとても飲めないので、いつもたっぷりと砂糖とミルクを入れていた。
お子様! とセシルがすかさず馬鹿にする。兄弟はどちらもブラックで飲んでいた。
珈琲、と一言にいっても、どうやらギデオンでは何種類もあるらしく、それぞれ砂糖やミルクを入れたり入れなかったり、飲み方が違うのだ。
私がいつももらっている珈琲は、何も入れず本来のコクを味わうもの……ということだ。
でも草汁より苦いと訴えると、苦さの質が違いすぎると、レファーンに笑われた。ふんだ!
食堂に行くと、既にレファーンがいた。グレンさんが淹れてくれた食前の珈琲を飲みながら、新聞を広げていた。
そう。ギデオンには新聞があるのだ!
最近になってわかったけど、財政的に豊かなギデオンは、学習に力を入れており、住民の識字率がとても高い。だから、文字がぎっしり詰まった新聞なるものも、庶民の間で当たり前のように普及している。
活版印刷の技術も発達していて、市一番の大図書館の蔵書は、なんと四百万冊! ……私は全然読めないけど。
(新聞かぁ……。いいなぁ、私も読めるようになりたい)
ちらちらと横目で見ていると、私の様子に気付いたらしいレファーンが、来いと手招きした。
「これは?」
新聞をテーブルの上に広げ、単語の一つを指す。
うーん。なんか見覚えがある。ええと……。
「服!」
「そうだ。じゃあ、これは?」
「あ、色だ。青!」
「そう。これで、『青い服』。この単語は、『着る』。これら全てが、前の単語の『男』にかかる。だから……」
「ああ、『青い服を着た男性』だ!」
「そうだ。なかなか物覚えが良いな」
私を椅子に座らせて、その後ろから覗きこむようにして、レファーンが私に文字を教えてくれていた。
今更だけど……レファーンって、大きい。私が完全に懐に収まってしまう。
石鹸か、整髪料か、微かに良い香りがした。お父さんともお兄ちゃんとも違う……大人の男の人の匂い。
あ。まずい。変に緊張してきた……。
「何やってんの?」
セシルの険のある声に、はっと我に返る。セシルは突進するようにずんずん歩いてきて、ぐいっ、と、私とレファーンの間に割って入った。
「字なら、俺が教えてやるよ」
それから、ひどく挑戦的な顔つきで、兄を見上げた。
「兄さんは忙しいだろ。ユウの相手なんかして、貴重な時間を使わなくていいって」
「? ……あ、ああ」
弟の棘のある言い方に、兄が目を丸くする。私は、反射的にセシルの足をテーブルの影で蹴飛ばしていた。
「いてっ!」
「教えてくれなくて結構! 自力で学習するんでお構いなく!」
テーブルの上に広げていた数枚の紙をかき集め、私はそれをレファーンに渡した。
「ありがとう。単語一つ一つ書き取るより、文章全体で見た方がわかりやすかったよ」
それから、不満そうに足を擦っているセシルを振り返った。
「セシルもありがと。もしわからない事があったら、その時は聞くよ。……あ、朝ご飯が来た」
グレンさんと召使の女の人が、ワゴンに乗せて料理を運んできた。
ナイスタイミング、グレンさん! さすが有能な秘書兼執事さんだ!
「いただきまーす!」
普段はやらないくせに、両手を合わせ、ことさらに大きな声で、私は言った。
何処となく腑に落ちない様子のレファーンと、はっきりと不機嫌を顔面に張り付けているセシルと、脇目も振らず一心に食べ続ける私と、妙な雰囲気で、朝食の時間は滞りなく……?過ぎていった。
字を教えてやる! と息を巻くセシルには悪いけど、私としては、これから向かうフォルトリガの動向の方が気になる。
セシルに捕まって部屋に缶詰にされる前に、私は屋敷を抜け出した。
とりあえず、長旅に必要な物を買いに行くことにした。大概のものは、途中立ち寄る町でも手に入るけど、薬だけは、量、質ともに申し分のないギデオンで揃えたい。
薬屋は空いていた。調合も必要な薬剤を頼んだけど、予想外に用事は早く終わってしまった。
今帰ったら、絶対にセシルが手ぐすね引いて待っている気がする。私はもう少し時間を潰すことにした。
もう一枚、マントを新調しようかなぁ……なんて考えていると、足が勝手に向いたらしく、気付けば服飾店が多い商店街に入り込んでいた。
冒険者御用達の頑丈な装備品を扱っている店と、おばさんがバーゲン品を漁るような庶民の洋服屋さんとが、混然一体となって存在する変な場所だ。
ガストンさんに勝るとも劣らないゴツイ戦士が、皮靴の履き心地を確かめてるその隣で、フリルのワンピースを着た女の子たちが、キャーキャーと騒いでいたりする。
(違和感、感じないんだろうなぁ……みんな)
地味なマントをたくさん吊り下げた売り場のすぐ横に、色とりどりの服が並んでいた。セシルが、以前、ああいう格好しないの? と指した、可愛らしいワンピースも。
あの時は笑い飛ばしたのに、今は、何故か、その服が気になって仕方ない。
手にとって、鏡の前に立って、合わせてみたい誘惑に駆られた。……でも、今の私がやったら、女装癖のあるただの変な人だ。私はワンピースから視線を引き剥がした。
「随分、熱心に見ていたな」
突然、背後からかけられた声に、ぞわっと鳥肌が立った。
聞き覚えのある声だ。しかも、ごく最近。
一目散に逃げ出したい気分になったが、そんな真似をすれば、かえって悪目立ちするだけだろう。私はゆっくりと振り返った。
硬質な金属の輝きを帯びた銀の髪と、薄い氷の青の瞳が、案の定、目の前にあった。
「……お店の人ですか」
私は、内心の動揺はおくびにも出さず、静かに問いかける。銀髪の男の人が、僅かに眉を動かした。
「そう見えるか?」
「いえ。見えません。……でも、いきなり話しかけてくるなんて、普通はお店の人くらいのものですから」
警戒のあまり、失礼なもの言いになってしまった。が、男の人は、眉を顰めるどころか、何か面白いものでも見つけたように唇の端を釣り上げた。
なんか、一筋縄ではいかなさそう……この人。
「それは失礼した。だが、君にとってはいきなりでも、私は君を探していた……。ようやく見つけたのだから、声をかけるのはむしろ必然だろう」
「探していた、ですか。変ですね。俺には探されるような覚えはないのですが」
「……それは嘘だな。大地の御子」
手首を掴まれた。
セシルの時もそうだけど、男の人って、本当に力が強い。たぶん、向こうは、そんなに強く握っていないつもりなのだろうけど……掴まれた方は、正直、怖いと思うことがある。
「出た方が良さそうだ」
数人の客が、なんだ男同士の痴話喧嘩かと、妙な目つきで眺めている。野次馬の好奇心から逃げるように、私たちは店を出た。
「……離して欲しいんですけど」
「離した途端に、脱兎のごとく逃げ出しそうなのでな」
彼は私を引きずるようにして、歩き続ける。心なしか、人通りが減ってきた気がしないでもない。
「こんな人攫いみたいな真似をして。普通は逃げるでしょう」
私は両足を踏ん張って立ち止まり、渾身の力で彼の手を振り払った。
「探していた、とか言っている割には、貴方は名前すら名乗っていない。何処の誰かもわからない。そんな貴方に、のこのこ付いて行けると思いますか? 俺の方には用事はないので、もう行きます」
「逃がさない……と言ったら?」
「力ずくですか。ギデオンのハンターとして、全身全霊を持って抵抗しますよ。貴方も俺も怪我するかもしれないけど、知ったことか」
精一杯の虚勢を張って見せたけど、彼は、相変わらず興味深げな顔つきのままだった。いや、それどころか、ついには大声で笑い出したのだ。
笑うところじゃないだろう、そこは!
こっちは必死だってのに!
「面白いな、お前。知らぬ事とはいえ、この俺にその口のきき方……。気に入った。本当に……女でないのが残念だ」
「女顔、とでも言いたいんですか。一応、気にしているんですから、次に言ったら許しませんよ!」
「ああ、すまんすまん。お前のその勇気と啖呵に免じて、俺について教えてやろう。俺の名はクラウス。クラウス・エイヴァリー。真名はもっと長いが、どうせ覚えきれんので省略しておく。エイデルハルトの第二王子だ」
まぁ! 王子様でしたか! ご無礼をお許しください! とか平伏す場面なのだろうか……ここは。
でも、私は生粋の現代人だ。だいぶ異世界の水にも馴染んではきたけれど、正直、こちら側のロイヤルな生き物に興味はない。
あえて言うなら、動物園のパンダに近い感覚だ。……そう、珍獣。異世界のしかも他国の王子なんて、私じゃなくとも一般的な日本人なら、皆その程度の認識しかないだろう。
「はぁ。王子様ですか。それは遠いところをご苦労様です」
「お前な……。もう少しマシな反応は出来んのか」
「ちゃんと敬っているじゃないですか」
「嘘を付け」
「ああ、もう。面倒臭い人ですね。いいですか、俺はギデオンのハンターなんです。貴方が王子でも乞食でも、俺にとってはどうでもいい事実なんです。俺が尊敬するのは、俺にちゃんと報酬を払ってくれる依頼人と、俺が駆け出しの頃からずっと面倒を見てくれる、師匠だけなんです」
ここで言う師匠とは、レファーンのことを指す。
別に師弟の関係を結んでいるわけでもないけれど、私にとっては、やはり全てにおける大先輩であり先生だ。
「では、俺が、お前に報酬を支払おう。我が国に来て欲しい。大地の御子」
「行ったが最後、絶対に帰れない気配がひしひしと伝わってきますね。そんな恐ろしい依頼、はっきりキッパリお断りです」
「ギデオンのハンターとやらが、どの程度の生活水準なのかは知らんが……今とは比べ物にならないくらいの贅沢もさせてやれるぞ」
「別にいいです。贅沢しなくても。毎朝出てくるミルクと砂糖たっぷりの珈琲があれば、俺は幸せなんです」
「お前は……」
くっ、と、また殿下が笑った。
別に、面白い事を言っているつもりはないのだけど。
むしろ、これは駄目だ、こんな変な奴は連れて行けんと、嫌われることを期待して会話しているつもりなんだけど。
きっと、王子殿下の周りって、ユーモアの欠片もないつまんない人ばかりなんだ。だから、私の無遠慮な言葉にも、いちいち笑いで反応してしまうのだろう。
「そういう訳で、俺、何処にも行きませんから。他あたって下さい」
私は身を翻した。
エイデルハルトの王子殿下は、幸い、追っては来なかった。