14 神の国に縛られし者
フォルトリガは神の国、と、レファーンが教えてくれた。
元々は、異教の神を崇拝する、カガリという名の一人の信者が起こした小さな神殿が、始まりだったらしい。
ただ、数百年が経つと、居るか居ないかわからない異教の神よりも、実在したカガリそのものが信仰されるようになった。カガリが大地の御子で、類稀な癒しの魔法の使い手だったことも、人々が彼を慕う大きな理由の一つだった。
「現在、フォルトリガにいる大地の子は、そのカガリの再来と言われるほどの、癒しの魔法の使い手らしい」
カガリの再来の子は、田舎の石切りの町で、ひっそりと暮らしていた。が、今から五年ほど前、その町で大規模な岩盤の崩落事故があり、多数の人夫が巻き込まれ、阿鼻叫喚の騒ぎになったいう。
カガリの御子は、大急ぎでその場に駆け付けた。そして、血と悲鳴で埋め尽くされたその場にいた全ての人々を、一瞬で癒した。
人々は助かったけど、カガリの御子は代わりに平穏な生活を失った。半ば攫われるように慣れ親しんだ町から連れ出され、大神官という地位を与えられ、神殿という名の美しくも冷たい牢獄に、一生閉じ込められて生きてゆくことを余儀なくされた。
その時に、カガリの御子は、自分の名前すらも失った。
大神官になると、名を呼んでくれる人がいなくなってしまうから。尊いものとされるその真の名を、決して口にしてはいけないと、厳しい戒律を迫られるから。
それは気も狂ってしまうわと、私は密かに同情した。
カガリの御子が大神官になった時、彼は、十八歳だった。
初めの三年間は、それでも、彼は、一生懸命に務めを果たしていたらしい。でも、いつの間にか、その顔からは笑みが消え……そして、最後には、表情そのものが消えてしまった。
黒い髪に黒い瞳、黄色みを帯びた象牙の肌の、神秘的な若者だが、出来の良い仮面のように無表情だったと、大神官を見たことのある人が、言っていた。
(黒い髪に黒い瞳。……象牙の肌)
まだ見ぬ異国の容貌に、私は、強く想いを馳せる。
大神官と呼ばれるかの人は、もしかして、日本人ではないだろうか。
三年もの間、望まぬ神官の役割を勤勉に務め上げ、ついに我慢が限界に達した時、暴れるでもなく泣き喚くでもなく、ただ心を閉ざして表情を失ったと聞いた時、私は、何だか、彼にものすごく同郷の人らしさを感じてしまい……そう思わずにはいられなかった。
その日、私の就寝は早かった。
闇の中に音もなく沈んでゆくような、深い眠りにも関わらず……夢を見た。
高みから全てを見下ろすあの感覚。
贅を凝らした煌びやかな建物は、初めて見る。ギデオンではない。もっと遠い……。
あれは、フォルトリガの大神殿。
広い部屋の中央に、佇んでいる男の人がいた。私がいる方向からは後ろ姿しか見えないけれど、彼が、綺麗な黒髪の持ち主であることは、わかった。
「……消えて無くなればいい。全て」
物騒な呟きが聞こえる。その限界知らずの魔力で何もかも吹き飛ばすつもりかとヒヤリとしたが、彼はそんな真似はしなかった。
手に刃物を持っている。その刃物を、首筋に宛がって……。
「おやめ下さい。大神官様っ!」
私よりも早く、飛び出してきた女性がいた。無我夢中で刃物を取り上げようとして、すぱっと彼女の掌が切れた。
滴り落ちる血の赤に、カガリの御子が正気に返る。表情を失った、とされるその顔に、はっきりと、焦りと狼狽の色が広がった。
「エンテ! なんて無茶を……」
「お願いでございます! どうか、どうか、自ら命を断とうなどと……悲しい事はおやめ下さい!」
カガリの御子は、またすぐに無表情に戻って、エンテと呼ばれた女性の手を取った。皮の奥、肉まで裂けているような深手だったけれど、彼が手を翳して何事か呟くと、一瞬で傷が消えた。
「お前はいつも邪魔をする。……見張られているような気分だ。いや、お前も見張っているのだろう? 俺が逃げたり死んだりしないように」
「ち、違います。私はただ……」
「もう放っておいてくれ。俺が、いずれ、お前に手を上げてしまう前に」
エンテさんは動かなかった。むしろ、叩かれても構わないと言わんばかりに、毅然とその場に立ち続けた。
「私に手を上げて、それでお気持ちが静まるのならば、是非、そうなさいませ。その代わり、決してご自分を傷つけるような真似だけはしないと、御約束下さいませ!」
カガリの子は、エンテさんを本当に殴るでもなく、再度自殺に取り掛かるでもなく、広い部屋の出入口を黙って指した。
エンテさんが飛び込んで来たために扉は開けっ放しになっており、廊下の壁に掲げられたランプの火が、頼りなげな光を室内に投げかけていた。
「……もう馬鹿な真似はしない」
「本当でございますか」
「約束する。……だから、もう休め。一晩中、寝ないで俺を見張っていたら、お前が先に体を壊す」
「本当に……あんな恐ろしい事はしないと、お約束下さいますね?」
「もうしない……」
エンテさんは何度も振り返りながら、部屋を出て行った。
カガリの御子は、落ちたナイフを拾い上げ……それを、窓の外に放り投げた。
「死ねるはずがないんだ、本当は。俺が死んだら……エンテ、お前まで殉死させられてしまう……」
でも、お前なら、一緒に逝ってくれるかなぁ、と、彼は夜の月を見上げた。
私は、ひどく切ない気分になって、何だか目の辺りがじわりとしてくるのと同時に、この美しい聖域に底知れぬ悪意を感じてしまい、胸のむかつきを抑えることが出来なかった。
(殉死……。逃げることも死ぬことも出来ないんだ、彼は。他の人の命を人質に取られて)
フォルトリガは神の国? どこが、と、私は思った。
神様なんていやしない。いるのは、大神官と呼ばれる優しいこの人を、最大限に利用してやろうという、ハイエナのように強欲な聖職者たちばかりだ。
(なんか、腹立つ。ものすごく。この神殿……壊してやりたい)
当事者である大神官よりも、この時の私は、物騒なことを考えていた。