1 樹の魔物と魔法剣士
異世界に飛ばされた。
そう気づくのに、大して時間はかからなかった。
草の匂いは、慣れた世界のそれと変わらない。見上げた月は、慣れた世界のそれよりも大きく、浮かび上がる影の形が、火を吹く竜に少し似ていた。
私は、湿っぽい土の上に尻餅をついていた。お尻が何だかひんやりするけど、そんなものに構ってはいられないほど、とてつもなくヤバい状況に陥っていた。
競い合うように高く高く聳え立つ、無数の大木。その中に、一つだけ、人間のような目玉を持つ木がいるからだ。
いかにも堅そうな樹皮なのに、なんであんなにスムーズに瞬きが出来るのだろう。謎だ。それに、きょろきょろと周りの様子を窺うのもやめてほしい。
と、目があった。
木の奴は、その不自然に大きな目だけで、にやり、としか表現できないイヤラシイ笑い方をした。
うわぁ。なんか食べ物と認識されている? 私。
美味しくないと思うんだけど。だって木の食事って水でしょ。日光でしょ。人間じゃないでしょ……。
ずず、と、音がした。冷たいお尻の下に、妙な振動が伝わってきた。目玉を持つ木が、にゅるりと根っこを動かした。
……それ反則だろう。木のくせに動けるってどうよ?
どしん、と、今度はもっと派手な音がした。ぐらぐらと幹を揺らしながら、木は、更に近付いてきた。歩き方のバランスが悪いらしく、枝葉がバサバサと物凄い音を立てている。
(ちょっと……)
逃げよう、と、この時ようやく思った。
太い幹の真ん中に、がぱっと口が開いたからだ。口もあったんだ、こいつ。立派な歯まである。なんか、歯の隙間に骨らしきものが見えるんだけど。いやいやいや。
昔やったゲームの中に、食人樹、とかいう魔物が出てきたことを思い出した。そいつに似ている。液晶画面の中で見る分には雑魚キャラだけど、こうして現実に目の前にいると、十分すぎるほどに強そうで怖かった。
(動け、私)
呆然としている暇はない。立ち上がって、走るんだ。逃げなきゃ食われる。歯の隙間に引っかかっている、あの骨のように。
「こっち来るなぁぁぁ!!!!」
やっと足腰に力が戻った。
私は脱兎のごとく駆け出した。そこそこ強豪と呼ばれる高校の陸上部員で、ハードル競技の選手だから、足だけは速かった。土曜の部活の朝練帰りにこっちの世界に来てしまい、身軽なジャージ姿だったのも幸いした。
けれど、整備されたトラックと違って、深い森の中は走りにくい。おまけに暗い。がつん、と、思いっきり何かに足をぶつけた。頭から茂みの中に突っ込んだ。
顔を切ったかもしれない。額に沁みるような痛みがある。一応、十六歳のうら若き乙女なんだけどなぁ。ま、でも、切ったのが目じゃなくて良かった。
そんな乙女らしくない感想を抱いたとき、物凄い力で足を引っ張られた。木の化物の枝が、左足に巻きついて、そしてあろうことか軽々と私を持ち上げた。
「っわ……!」
足の関節が外れるかと思った。一気に血が逆流するのがわかる。私はどちらかというと痩せていて、そんなに重くないはずなのに、全体重が集中する左足に気が遠くなるような痛みが走った。
(ああ、もう! こんな訳が分からないまま死んじゃうなんて)
今まで存在を信じたことも無い神様だけど、思わず恨み言を口走った。
だって、ひどいじゃない。私が何をしたっていうのだろう。夢なら早く覚めてほしい。病気でもなく事故でもなく、木の怪物に頭から食べられるなんて、平和な日本に生まれた人間としては、きっと私が初めてに違いない!
『ロウ・ディーア・スペリル・フィアーマ』
はい? 何ですか。今の。木が何か喋った?
立派な歯のほかに、こんな明確に発音できる声帯まであったのか、木の奴。こんちくしょう。もうちょっと元気なら、さんざん悪態をついてやるところなのに。そんな気力も残ってない。
血が逆流したせいか茫洋とかすむ視界の端に、ふと、赤く、揺らめく、何かが……。
風が唸った。熱い空気が、一瞬吹き付けてきて、突然足が自由になった。体が投げ出されたけど、地面に激突はしなかった。誰かが受け止めてくれたからだ。と言っても、固い腕に抱きとめられた時の衝撃も、けっこうなものだったけど。
「あ、あれ?」
呆然と座り込む私の目の前に、背の高い人影。傭兵とか、戦士とか、そういうファンタジーな用語が浮かんだ。まさにそうとしか表現できない格好をしていたからだ。
鎧は身についていない。盾も持っていない。厚地の丈夫そうな長衣に、黒いズボン。皮のブーツ。そして、鞘から既に抜いた剣。
その剣が……なぜか光ってる。いや光るというより、炎が纏わりついているというか。さっき見えた、赤く揺らめく何かは、これだ。
『イオ・アトラヴァイソ・フィアーマ』
また、不思議な言葉。しかも、今度は吊り下げられた状態じゃないから、何が起きたかはっきりと見ることが出来た。
男の人の掌から、赤い火球が生まれた。それが銃弾のような速さで飛んで行き、木の化物の口内に炸裂した。人間なら絶叫ものの威力だろうけど、怪物は、体内に燻る炎にのた打ち回るだけだった。どうやら声帯は無いらしい。
そのまま燃え尽きて消し炭になっちゃえ、と恨みを込めて思った。だからかもしれない。私は、さっきの男の人が呟いた不思議な言葉を、そのまま真似してみた。初めて聞く言語なのに、なぜかしっくりと耳に馴染む。ただ一度で全ての音の響きを正確に覚えていた。
『イオ・アトラヴァイソ・フィアーマ』
ぼっ、と、私の掌の中に火球が生まれる。さっきの男の人のそれよりも、はるかに大きい。あまりに大きくて、思わず仰け反った。精一杯に手を伸ばし、顔から遠ざけないと、自分自身まで焼かれそうな、物凄い熱……!
「早く放て! それ以上育てるな!」
放つ? 育てる? どうすれば? 私は途方に暮れたような顔をして、彼を見上げた。涙目になっているのが自分でもわかる。
「どう、すれば」
「制御できないのか……!?」
男の人が私の腕をつかんだ。
『フィアーマ・オルトワ・ペルソ・ラミーア・コウス!』
私の腕を焼き始めていた火球が、離れた。もう火の玉なんて可愛らしいレベルではなく、紅炎が飛び交う小太陽のような状態になっていた。そのまま木の怪物を飲み込んで、巨大な火柱が噴き上る。爆風と熱風から、私は咄嗟に頭を庇った。
やばいんじゃないだろうか。これ。山火事になる?
目の前の怪物は憎いし怖いけど、見知らぬ地とはいえ森を焼くのは絶対に嫌だ。
「と……止めてっ! お願い、止めて!」
悲鳴を上げると、思いのほか落ち着いた声がそれに答えた。
「大丈夫だ。お前の火だ。お前自身の力で止められる」
俺の後に続いて、と、彼が言った。
『リティリ・フィアーマ』
彼の言葉を復唱すると、嘘のように火が引いてゆく。私の火だから止められると彼は言ったけど、それが目の前でこうも容易く現実になると、私は恐怖に近い悪寒を禁じ得なかった。
だって、これ、魔法よね? 物理の法則も常識も真っ向から否定する、ファンタジーのお約束のあの力よね? 当たり前の話だけど、私はこれまでそんなものに縁は無かった。ごく普通の高校生だったのだ。特技といえば同年代の女子より少し足が速い、それだけだ。
森を丸焼けにしかねない力なんて、怖くて扱えない……!
「お前、魔道士だったんだな」
男の人に決めつけるように言われて、私は慌てて首を振った。
「ち、違う……」
「だが、それにしては……」
彼がじろじろと私を見る。たぶん異世界にはないジャージ姿の私を、ものすごく不審がっているのだろう。
どう対応すれば良いんだろうか。別の世界から迷い込んだみたいです、と、言ってしまって良いのだろうか。実は異世界人は根絶やしにすべき悪魔と見なされているとか、とてつもない珍獣で王侯貴族への献上品に相応しいとか、そんな変な設定があったりしたら嫌すぎる。
「お前、名は?」
「は、あ。……あの、ユウです」
私の名前は、高坂優という。
「とりあえず……森を出るぞ。こんな場所にそんな恰好でいた理由は、おいおい話してもらうからな」
そして彼はさっさと歩き出す。助けてもらって何だけど、愛想の無い人だ。そんな犯罪者を取り調べるような口調で言わなくても良いだろうに。しかも、私が素直に付いて来ると決めてかかっているし。
このまま逃げ出してやろうかなんて、ちょっと思った。思っただけで、出来ないけど。
「何をしている、坊主。早く来い」
彼が言い、私は思わず固まった。
ぼうず。坊主ときたか。
いや、まぁ、確かに女らしい体型はしていないけどね。髪だって走るのに邪魔だからショートだし、しかもヨレヨレのジャージ姿じゃ、そうは見えなくても仕方ないのかもしれないけどね。
坊主ですか。ふん。
「ユウですよ。俺の名前」
私は、少し低い声を出して、胸を張って……いや張りすぎるとさすがにわかるかもしれないから、普通に歩いて、彼の後に従った。
男に間違われているなら、この際それを利用させてもらおうと考えた。
男の振りをしていれば、女性特有の危険からは解放される。彼にお稚児さん趣味でもあればアウトだけど、付き合う女性には事欠かないであろうこの秀麗な顔の持ち主に、そんな変態な嗜好性があるとは到底思えなかった。
「助けてくれてありがとう。お兄さんの名前も聞いていい?」
「レファーンだ」
イケメンの戦士様は手短に名乗り、慣れた庭のようにするすると森を抜け、そして私を町まで連れて行ってくれた。
何となく浮かんだので書いています。
お気楽な話になると思います。