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彼の周りには淀んだ静寂が漂っているだけだった。それは喉を塞ぎ、耳を潰し、最後には目を焼いてしまう。しかし彼は静寂が嫌いではなかった。ここ最近の彼は、どちらかといえばそれを好んですらいた。事実、もう長いことこうして無音のただ中に沈み込んでいる。彼は胸の内で呟いた。俺は一体どうしてしまったんだろう。
彼はもともと社交的な性格ではなかったが、それなりに友人もいたし結婚もしていた。妻は至って平均的な容姿をしていたが、とても聡明なキャリアウーマンだった。「だった」というのは、妊娠したのを機に会社を退職し、主婦業に専念しだしたのだ。現在妊娠四ヶ月。
彼はある晴れた日の午後、小さなミスから会社に数十万円の損害を出した。彼は投資信託会社に勤めていた。会社の性質上、大金を右から左へ動かすのがその仕事だ。だからそういった損害は言わば折り込み済みのようなもので、彼よりも多額の損失を出した社員は他に何人もいた。だが彼は会社を早退し、いつもと違う路線の電車に乗り、そのまま妻と会社と友人の前から姿をくらませた。
ごく単純に言えば、彼は恐ろしくなったのだった。自分のしたことはどこかで世界と繋がっていて|(それはとても細い、今にも切れそうな線のような可能性のはずだ)、ある瞬間に足元を見ると自分が引っ張ってきたものがどうしようもないほどブルーにこんがらがっているのを発見したのだ。
彼は今、熱海の小さな旅館にいた。実際はそんな必要などどこにもないにも関わらず、隠れるように自室に篭ってほとんど外に出ず、仲居とすら話そうとしなかった。彼には知る由もないのだが、厨房では当たり前のように彼のことが奇妙な客として話題になり始めている。時間が必要だった。全てが落ち着いて、クリアに見えてくるまでの時間。
彼は自室の露天風呂の水面から首長竜のように頭を突き出して呼吸を整えた。腕時計を見る。3分12秒。潜水時間は着実に長くなっている。彼はこの旅館に転がり込んで以来、テレビを見るのに飽きるとこうやって日に何度となく潜水を繰り返していた。特に理由はない。しいて言えば更なる静寂を求めてといったところだ。こうした具合で一日中湯船に入ったり出たりを繰り返しているせいだろうか、心なしか体の余分な肉が減ったような気もしたが、おそらく気のせいだろう。
湯船から上がり、念入りに体を拭いた後、冷蔵庫からビールを取り出して飲んだ。ビールを飲みながら考えているのは今とこれからのことについてだ。きっと会社は何もしていないだろうが、妻は違う。そう遠くないうちに彼の居場所を突き止め、彼を連れ戻しにやって来るだろう。だが今の彼には、そのことが他の多くの問題と同様に現実的なこととして理解できなかった。しかし、それは必ず起こる出来事なのだ。
彼は自宅に電話をかけてみようと思ったが、携帯電話に登録した電話番号を選択しても、どうしても、ダイヤルボタンがどうしても押せなかった。やがて彼は携帯電話とにらめっこするのをやめ、布団に横になった。今の彼にもこうした逃避行を続けられる時間がそう残されていないのは理解できた。
やがて夜になり、テレビを付けるとナイター中継が始まった。しかし彼は野球が好きではなかった。どちらかと言えば苦手な方だ。理由は簡単だった。彼は白球を触ったことがなかったのだ。小学校や中学校や高校でも授業の時はもっぱら欠席や見学ばかりしていたし、球技大会では大会が終わるまでベンチウォーマーとしてぼんやりと白熱しているのかいないのかすら分からない試合を眺めているだけだった。
彼には野球、というよりスポーツ全般のルールというものがよく理解できなかった。「なぜそんな面倒なことをするんだ?」といった具合に。野球ならエンタイトルツーベースが何なのか分からなかったし、サッカーではオフサイドが理解できなかった。バスケットボールなら「何歩歩いたって同じじゃないか」と思っていた。要するに、それらは彼とは関係のない世界のルールで、彼はそんなことに関心を抱けなかった。
だが何かが違うのだ。今の彼にはバッターボックスに立つ打者が静かに呼吸を整えているのが見えたし、殺気立った視線を放つそのチームメイトたちも見えた。彼は思う、俺は一体どうしてしまったんだろう。
しかし彼はその感覚も嫌いではなかった。ああ、俺に今何らかの変化が起こっているのだ。彼はそう感じた。自分の中で何かが変わり始めているのだと。そうして彼は食い入るように野球の試合を見始めた。言うまでもないが、生まれついてのベンチウォーマーにとって、これは人生で初めてのことだった。
やがて野球中継は放送を延長しないまま終わった。
白いチームには強打者が一人いるが、出塁できる選手があまりいない。赤いチームにはいい投手とそこそこ打てる打者が何人かいる。結果白い方は抑え込まれた上に、こつこつとヒットを積み重ねる方法で点を取られてしまった、というのが彼の感想だった。それはお粗末極まりない稚拙な感想だったが、そもそも彼が野球の試合に何らかの感想を持ったのはこれが初めてのことなのだから無理もない。
彼はチャンネルを変え、続けて格闘技の試合を見てみた。テレビ画面の中では、筋骨隆々としたいかにもタフな男たちが鼻や瞼から鮮血を滴らせながら殴り合っている。黒髪の小柄な男が、彼より背の高い黒人が殴りかかってきたところを見計らってきれいに拳を振り抜いた。彼はまた気付いた。そうか、これは単純な物理学や力学に、さらに心理学や何かが加わったとても複雑怪奇なものなんだと。
彼には何かが分かり始めていた。
彼はチャンネルを様々なスポーツチャンネルに変え、食い入るように見始めた。そこにはあらゆる喜びや怒りや悲しみやと、それら全てを内包した楽しさがあった。彼は思う。俺は今まで何を見ていたんだ。
それは完成されたエンターテイメントの一形態だった。彼はゴルフのパットに息をのみ、プロレスラーの引退試合に涙した。F1のクラッシュに眉をひそめ、ツール・ド・フランスのデッドヒートに狂喜した。彼にはひとつのことが、今までは分からなかったたったことが分かり始めていた。
彼は急に立ち上がると、浴槽の前に立って服を脱ぎ始め、そのまま例のごとく沈黙が支配している世界へゆっくりと沈み込んでいった。今の彼には今までより長くこの中にいられるはずだという確信があった。プク・・・プク・・・プク・・・という気泡が弾ける音だけが浴槽の中にこだましている。その間彼は妻や会社や友人たちのことを考えていた。それはビジネスホテルに来てから初めてのことだった。彼は胎児のようにうずくまりながらそれらのことを考え続けた。答えは出ないかもしれないが、今はそれが必要なのだ。全てが落ち着いて、クリアに見えてくるまでの時間。
この小さな浴槽の中で、彼は些細な妄想に取り付かれた。妻の腹の中にいる子供は新しい自分で、これから新しい人生が始まるのだ、という小さな、馬鹿げた妄想。腹の中にいる彼は外にある全ての音を吸収しようと必死に耳を澄ましている。これが雑踏の音、これが信号機の音、これがレジの機械の音、といった風に。今彼がやっていることも本質的にはそれと変わりないように思えたのだ。
やがて彼の意識ははそれらの妄想に別れを告げると、ゆっくりと浮上した。現実といううんざりするほど残酷な地平に今やっと帰ってきたのだ。体を念入りに拭くと、布団の上に放り出してあった携帯電話を手に取り、妻へ電話をかけた。今度は迷うことなくダイヤルボタンを押した。
数回(あるいは十数回だったかもしれない)の呼び出し音が続いた後、妻は電話に出た。
第一声は「こんの馬鹿が!」だった。無理もない、と彼は思った。そのままたっぷりと65分は説教と愚痴を聞かされ、彼が辟易してきたところでやっと彼に発言が許された。彼は熱海にいること、特に問題なくやっていること、そして会社でやらかしたヘマが恐ろしくなって逃げ出したことを話した。それは話せば話すほど妻の言う通り馬鹿げた瑣末であることのような気がしてきて、彼は電話の向こうに気づかれない程度に微笑んだ。
「何だってそんなことしたの?」と妻は聞いた。きっと電話の向こう側では頭に手を当てて呆れているのだろう。
「自分でもよく分からない。でもあの時はそうするしかなかったんだよ。時間が必要だったんだ」と彼は言った。
「全てが落ち着いて、クリアに見えてくるまでの時間」
「何それ?」と妻は聞いた。小さくガタッと椅子に座り込む音がした。
彼は世界はどれだけブルーにこんがらがっているかということや、潜水生活を続ける間に考えていたことや、突然スポーツが理解できるようになったことなどを、途切れ途切れに拙い言葉で語って聞かせた。彼には確信があった。妻は自分の言うことを理解してはくれないだろう。だから何だって言うんだ?俺たちは対話するしかないんだ。時間はいくらでもある。やってやろうじゃないか。
彼らは長い間話し合った。結婚してからで最も長い時間だ。やがて朝日が山の向こうからこちらを覗き込んできた。鳥たちも来たるべき一日に備えてウォーミングアップを始めた。
早朝のニュースが始まる頃、妻が言った。「悪いけどちょっとだけ眠らせてくれる?誰かさんのせいでここ何日かまともに眠れてないの」
「ああ、本当に、本当に悪かった。もう二度とこんな馬鹿な真似はしないよ。だからゆっくり眠ってくれ。今日中に帰るよ」