第8話:スカウトの視線と、偽りの頂
第8話:スカウトの視線と、偽りの頂
グラウンドを包む空気は、もはや「部活動」の域を超えていた。
選手権準々決勝。相手は、全国からエリートをかき集めた最強の優勝候補の一角、帝王大附属高校。
観客席の最前列。無機質なスーツに身を包み、鋭い眼光をピッチに注ぐ男たちがいる。
各Jリーグクラブのスカウト、そしてメディアの記者たち。彼らのノートには、すでに「鳴海涼」の名が、太字の筆跡で刻まれていた。
(……やめろ。そんな目で、俺を見るな)
スタジアムの通路。俺は壁に背を預け、瀬戸内から渡されたサプリメントを、乾いた喉に無理やり流し込んだ。
心拍が不自然に整い、感覚が研ぎ澄まされていく。だが、それは「集中」ではなく、極限まで引き絞られた弦のような、破滅的な「緊張」だった。
「顔色が悪いわね、鳴海君。血流量は正常だけど、あなたの精神が肉体を拒絶している」
いつの間にか隣に立っていた瀬戸内が、タブレットから目を離さずに告げる。
彼女の白衣代わりのジャージが、秋の冷たい風に揺れた。
「……瀬戸内さん。スカウトが来てる。プロの、本物の目を持った人たちが……」
「ええ。彼らはあなたの『華』に、そして阿久津君を壊したあの『戦術眼』に期待している。……でも、大丈夫よ」
瀬戸内は一瞬だけ、俺の震える指先に自分の手を重ねた。その体温が、冷え切った俺の肌に火傷のような熱を残す。
「彼らがどれだけ鋭い目を持っていようと、あなたの『嘘』を解くことはできない。なぜなら、あなたが一番の『凡人』であることを証明できるデータは、すべて私の手の中にあるから」
「……それは、救いなのか?」
「いいえ。共犯の誓いよ。行きましょう、鳴海君。あなたが、作り出してしまった偽りの『ファンタジスタ』の舞台へ」
俺は何も答えず、ただ感情を殺した瞳でピッチを見据えた。
キックオフの笛が鳴った瞬間、これまでの試合とは次元の違う重圧が俺を襲った。
帝王大附属の主将、神宮寺司。
世代最強の一角と謳われるその怪物は、試合開始早々、俺の目の前に立ちはだかった。
「……お前が、あの『虚無の賢者』鳴海涼か」
神宮寺の声には、圧倒的な強者が持つ「静謐」があった。
彼は俺を抜こうとせず、あえて一歩引いた位置で、俺の動きを観察している。
(……抜いてくれ。頼むから、あっさり俺を抜き去って、俺がただの『普通』の人間だってことを、このスタジアム中の奴らに教えてやってくれ……!)
俺の心は悲鳴を上げていた。
しかし、瀬戸内のサプリメントのプラシーボ効果によって研ぎ澄まされた俺の肉体は、俺の意思を裏切り、神宮寺のわずかな重心移動に、完璧なタイミングで「反応」してしまった。
「……なるほどな」
神宮寺の口角が、愉悦に歪む。
「あえて抜かせる隙を見せ、俺を網にかけようというのか。その『絶望に満ちた目』……すべてを悟り、俺の攻撃など取るに足らないとでも言いたげな眼光。面白い、鳴海涼。俺が、そのインテリジェンスの先を抉り出してやる」
(違う……! これはただの、死に物狂いのカバーリングなんだ……っ!)
俺の必死な動き、一歩でも遅れまいともがくその「凡庸な努力」が、神宮寺というフィルターを通すと「王を誘う罠」へと変貌を遂げていく。
帝王大附属の攻撃は、苛烈を極めた。
神宮寺の突破、洗練されたパス回し。俺は文字通り、心臓が千切れるほどのオーバーワークで、フィールドの穴を埋め続けた。
体力はすでに限界を超えている。だが、意識だけはプラシーボの力で無理やり覚醒させられていた。
ハーフタイム。
ロッカールームへ戻る俺を、スカウトたちの熱烈な視線が追う。
「見たか、あの鳴海のカバーリング……。神宮寺の動きを完全に予判して、一歩も自由にさせていない」
「派手なプレーはないが、彼の立ち位置一つで、帝王大の攻撃リズムが狂っている。……怪物だな」
記者たちの囁きが、俺の背中に毒矢のように刺さる。
ロッカールームに入った瞬間、俺の視界がぐにゃりと歪んだ。
洗面台に駆け込み、胃の中のものをすべて吐き出す。
「……鳴海!」
鉄平が駆け寄ってくるが、俺はそれを手で制した。
「……来るな。……汚れる」
「……お前、そこまで……。自分の体を犠牲にしてまで、俺たちに勝利を……!」
鉄平の目に、狂気的なまでの「崇拝」が宿る。
監督の金村は、トレンチコートの襟を立て、沈黙を貫いたまま俺を「象徴」として見つめていた。
彼らの優しさが、彼らの信頼が、俺の首を真綿で締めていく。
「後半……もっとギアを上げます」
俺は、血の気の失せた唇で、そう告げた。
後半戦。
神宮寺は、さらにその攻撃性を増した。
「来い、鳴海涼! その策謀ごと俺が飲み込んでやる!」
神宮寺の鋭いフェイント。俺は膝をロックさせ、無様に転がりながらも、必死に彼の足を刈りにいった。
ファウル。警告。
スタジアムにはどよめきが走る。
だが、神宮寺は倒れながらも笑っていた。
「……いいぞ。手段を選ばないその執念。お前は、俺と同じ側の人間だ。勝つために、美学すら泥に沈める……。最高だ、鳴海!」
(……神宮寺。俺は、勝つために泥を啜ってるんじゃない。……負けるのが、バレるのが、ただ怖いだけなんだ……!)
試合終了のホイッスル。
1-0。
俺がファウルで止めたフリーキックからカウンターが生まれ、市川が値千金のゴールを奪った。
勝利。
聖和台高校、初の全国ベスト4進出。
歓喜に沸くスタジアムの中で、俺は一人、ベンチに倒れ込んだ。
視界の端で、スカウトたちが満足そうに頷き、一斉に電話をかけ始めるのが見えた。
「……おめでとう、鳴海君。これであなたの『価値』は、さらに吊り上がったわ」
瀬戸内が、冷たい水と、次なる「嘘」のためのデータを差し出す。
「……瀬戸内さん。俺、プロの契約書が届いたら……どうすればいい?」
「簡単よ。今まで通り、全力で『嘘』を突き通せばいい。世界中を騙しきれば、それは真実になる。……たとえ、あなたの魂がどれだけ擦り切れたとしても」
夕暮れのスタジアム。
俺は、自分が築き上げてしまった高すぎる頂を見上げ、ただ静かに絶望した。
スカウトたちの視線の先にいるのは、眩いばかりの光を放つ「虚像のファンタジスタ」。
そしてその足元で、ただ一人泥にまみれ、震えている「普通」の少年。
その乖離が大きくなればなるほど、俺の孤独は深淵へと沈んでいく。
誰にも見られない俺の「必死」が、世界を熱狂させる「真実」へと、書き換えられていく音がした。




