第8話 決戦! 舞台装置の巨大ダム
「あ、ああ……水が……!」
誰かの悲鳴が、轟音にかき消された。
私の目の前で、限界を迎えた堤防が弾け飛んだ。
そこから溢れ出したのは、水ではない。
泥と瓦礫を含んだ、黒い暴力の塊だ。
倒壊した凱旋門が川を塞いだせいで、行き場を失った濁流が、蛇のような鎌首をもたげてこちらへ――下流の街へと襲いかかる。
「ひ、ひぃぃッ! 逃げろ! 死ぬぞ!」
「結界は!? 王子、結界を出してくれ!」
作業員たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
ローランド王子は腰が抜けたのか、泥の中にへたり込み、ただガタガタと震えていた。
彼の手から、あの青い宝石――結界の核となる石が転がり落ちる。
泥を何より嫌っていた彼が、美しい軍服が汚れることすら気にしていない。
もう、誰にも止められない。
常識的な手段では。
焦るな。私は演出家だ。
この舞台を支配するのは私だ。
深く息を吸い込み、両手を夜空へと掲げる。
雨が顔を叩く。
キースの視線が、背中に焼き付いているのが分かる。
彼が全てを捨てて託してくれた、この一瞬。
失敗すれば、私たちはただの「国を滅ぼした反逆者」として泥に沈む。
必要なのは壁じゃない。
この膨大な質量を受け止める、広大な「空間」だ。
現実には存在しない、どこまでも広がる理想郷。
脳裏に描くのは、前世の公衆浴場で見た、あの壮大な壁画。
湯船の向こうに広がる、雄大な山と、底なしに青い湖。
魔力を練り上げる。
指先が熱くなり、血管の中を溶岩が走るような感覚。
全魔力を叩き込む。
「『舞台装置生成』――最大出力展開!」
叫ぶと同時に、世界が震えた。
「演目No.100、雄大なる連峰と湖!」
カッ!
閃光が走り、夜の闇が塗り替えられた。
「な、なんだアレは!?」
逃げていた作業員が足を止め、空を見上げた。
決壊した堤防の向こう側。
濁流が迫るその空間に、突如として「それ」は出現した。
高さ五十メートル、幅数百メートルに及ぶ、巨大な壁。
いや、壁ではない。
そこに描かれているのは、雪を頂いた険しい山々と、その麓に広がる鏡のような湖だ。
あまりにも鮮やかすぎる青と緑。
遠近法が極端に強調された、劇画のような筆致。
それはまさに、空から降りてきた巨大な「背景画」だった。
「……絵? 山脈の、絵か?」
誰かが呆然と呟く。
そう、ただの板絵だ。厚さは数センチしかない。
普通なら、濁流に触れた瞬間に粉々になるはずだ。
だが、私はこの絵に「設定」を書き込んでいる。
『ここは無限の奥行きを持つ湖である』と。
ザパァァァァァァッ!!
黒い濁流が、絵に激突した。
その瞬間、あり得ない現象が起きた。
水が、絵の中に吸い込まれていく。
「は……?」
ローランドが口をあんぐりと開けた。
水しぶきを上げた濁流は、絵の表面に触れた途端、まるで最初からそこにあった風景の一部であるかのように、絵の中の「湖」へと流れ込んでいった。
現実の泥水が、二次元の青い湖へと変換され、波紋となって広がっていく。
騙し絵ではない。
空間歪曲魔法だ。
書き割りの向こう側に、擬似的な亜空間を作り出し、そこに水を廃棄しているのだ。
見た目はシュールな「浴場の壁画」だが、その処理能力は本物の巨大堰をも凌駕する。
「吸い込まれて……いく……?」
「おい見ろ! 水が街へ行かないぞ!」
「あの絵が、水を飲んでいるのか!?」
ゴォォォォ……という音が、徐々に小さくなっていく。
溢れ出しそうだった川の水位が、恐ろしい速度で「絵の中」へと排水されていくからだ。
私は両手を掲げたまま、歯を食いしばった。
重い。
数万トンの水圧を、魔力だけで支えている。
腕が引きちぎれそうだ。
意識が飛びそうになる。
まだだ。まだ足りない。
一滴も漏らすな。
「……う、うおおおお!」
気合を入れる。
鼻からツーと温かいものが垂れた。鼻血だ。
視界が霞む。
膝が笑う。
限界か。
私の意識が闇に沈み(ブラックアウト)かけた、その時だった。
「セレナ!」
背中を、誰かが支えてくれた。
温かい。
大きくて力強い手が、私の背中越しに魔力を送ってくれているのではない。
ただ、物理的に私を支え、倒れないように抱き留めてくれている。
「キース……さん……」
「見事だ。……あと少しだ、俺が支える。やり遂げろ!」
耳元で響く声。
その熱が、冷え切った私の体に活力を注ぎ込む。
そうだ。この人が見ている。
私の最高の舞台を、特等席で見ているのだ。
無様な幕切れなんて許されない。
「――終幕ですッ!」
私は最後の力を振り絞り、魔力を爆発させた。
ボンッ!
空間が歪み、絵の中の湖が満水になったことを告げる音がした。
同時に、川の水位が安全圏まで下がったのを確認し、私は術式を解除した。
巨大な山脈の絵が、キラキラと光の粒子になって消滅していく。
吸い込まれた大量の水は、亜空間の彼方へと消え去った。
後に残ったのは、嘘のように静まり返った川と、泥だらけの河川敷。
そして、呆然と立ち尽くす人々だけだった。
雨が、止んでいた。
黒い雲の隙間から、細い月明かりが差し込んでいる。
「……は、はは……」
私は力が抜け、膝から崩れ落ちそうになった。
だが、地面に倒れることはなかった。
ガシッ。
キースが私を抱きしめていたからだ。
支えるというレベルではない。
私の体を強く、折れそうなほど強く、その腕の中に閉じ込めていた。
「……生きているな」
震える声が、頭上から降ってきた。
「はい……なんとか……」
「馬鹿者が。寿命が縮んだぞ」
悪態をついているが、声が湿っている。
キースは顔を私の肩に埋め、荒い呼吸を繰り返していた。
彼の心臓の音が、私の背中に直接響いてくる。
ドクン、ドクンと、早鐘を打っている。
「……貴方がやれと言ったんですよ」
「ああ。言った。……だが、本当にやるとは」
キースは顔を上げ、私の顔を覗き込んだ。
眼鏡はどこかへ飛んでいってしまったらしい。
露わになったアイスブルーの瞳が、月明かりを反射して揺れていた。
そこには、いつもの冷徹な光はなく、ただ純粋な安堵と、熱っぽい感情だけがあった。
「ありがとう、セレナ。君が、この国を救ったんだ」
「……あんな変な絵で、ですけどね」
私が自嘲すると、キースはふっと笑った。
そして、泥だらけの私の頬を、親指で優しく拭った。
「世界で一番、美しい絵だったよ」
その言葉に、私の涙腺が決壊した。
緊張の糸が切れ、私はキースの胸に顔を埋めて泣いた。
彼はずっと、私の頭を撫で続けてくれた。
「……あり得ない……」
泥水の中で、ローランド王子が亡霊のように呟いていた。
「あんな……書き割りが……余の門より役に立ったというのか……?」
彼は自分の手元に落ちている、役立たずの青い石を見つめ、絶望に顔を歪めていた。
その姿に声をかける者は、護衛の騎士ですら一人もいなかった。
夜明けが近い。
東の空が白み始め、私の作った「伝説」と、王子の「失態」を、白日の下に晒そうとしていた。




