第4話 下水道パニックと、香るマンホール
「……臭い」
馬車の窓を少し開けた瞬間、鼻が曲がりそうな悪臭が飛び込んできた。
私は慌ててハンカチを口元に当てる。
「窓を閉めろ。服に臭いがつくぞ」
向かいの席で、キース局長が低い声で言った。
彼は既に顔色の悪さが限界突破しており、目の下のクマが頬まで到達しそうだ。
ここは夜の王都ルミナ。
本来なら、白亜の街並みが魔法の灯りで輝く美しい都のはずだ。
けれど今、この街は物理的に終わっていた。
「下水が逆流したんですね」
「ああ。主要幹線が破裂した。汚水が溢れ出し、低地にある平民街は膝まで水没している」
キースは苦々しげに説明した。
「原因は老朽化だ。百年前に作られた素焼きの土管が、長年の圧力でひび割れ、崩落したんだ。……何度も警告したんだぞ。このままでは都が排泄物に沈むと」
「予算、降りなかったんですか?」
「汚い話をするな、と一蹴された。その結果がこれだ」
キースは窓の外を睨んだ。
石畳の隙間から、湯気を立てるドス黒い水が染み出しているのが見える。
「しかも、事態を悪化させた馬鹿がいる」
「悪化?」
「ローランド王子だ。パニックになった市民を鎮めようと、聖女候補のリリアを連れてきた。聖なる光で不浄を浄化せよ、とな」
嫌な予感がした。
光魔法は、基本的に「熱」と「発光」の属性だ。
密閉された地下空間に、熱を加えたらどうなるか。
「……まさか、発酵しました?」
「正解だ。生ゴミと汚物が聖なる光で温められ、爆発的に腐敗ガスが発生した。おかげで鉄蓋が空を飛び、悪臭が都全域に拡散された」
地獄だ。
想像するだけで胃液がせり上がってくる。
「セレナ。頼む。この悪臭を止めてくれ。物理的に」
キースが私の手を取り、縋るように言った。
その手は冷や汗で湿っていた。
* * *
私たちは人気のない裏路地で馬車を降りた。
地面はぬかるんでいて、歩くたびにチャプチャプと不快な音がする。
私は地面に膝をつき、両手をついた。
汚れることなんて気にしていられない。
魔力探査を開始する。
「……うわあ、これは酷い」
地下の様子が、舞台の図面のように脳内に浮かび上がる。
血管のように張り巡らされた下水管は、あちこちで潰れ、詰まり、土砂が入り込んでいた。
「どうだ? 直せるか?」
「掘り返して交換するのは無理ですね。工期が半年はかかります」
「明日の朝までになんとかしたい。……無理か?」
キースの声が沈む。
明日には近隣諸国の大使を迎えるパレードがあるらしい。
この臭いの中でパレードをすれば、国の威信は地に落ちるだろう。
掘り返せないなら、掘らなければいい。
私は思考を切り替える。
前世の記憶。
古いビルの配管工事で見た、あの画期的な工法。
「やれます。既存の管の中に、新しい管を通します」
「なんだと?」
「『舞台装置生成』――セットNo.55、内挿式導管!」
私はイメージする。
それは、巨大なストローのようなものだ。
薄くて、強くて、ツルツルした素材。
それを魔法で生成し、地下のボロボロになった土管の中に、蛇のように滑り込ませる。
ズズズズズ……。
地面の下で、何かが這うような微振動が起きた。
私の魔法で作った「書き割りの管」が、既存の配管の中を突き進み、詰まっている土砂や汚物を押し流しながら、新しい水路を形成していく。
「バイパス開通。これで流れは確保しました」
私が顔を上げると、キースが地面に耳を当てていた。
「……音が変わった。水が流れている。……信じられん。都全域の配管を一瞬で内張りしたのか?」
「中身ペラペラですからね。素材代はタダみたいなものです」
流れが戻れば、あとは溢れた水を流すだけだ。
水位が目に見えて下がっていく。
「よし、これで解決……と言いたいところですが」
私は足元の穴を見下ろした。
ガス爆発で吹き飛んだのか、マンホールの蓋がなくなっている。
このままでは人が落ちてしまう。
「蓋がないな。……セレナ、作れるか?」
「お安い御用です。滑りにくくて、目立つやつにしますね」
夜道でも危なくないように。
そして、殺伐とした市民の心を癒やすような、可愛いデザインがいい。
「『舞台装置生成』――セットNo.8、愛玩獣の蓋!」
ポンッ!
軽快な音と共に、円盤状の物体が生成され、穴にカポッとはまった。
「……おい」
キースが低い声を出した。
「なんだ、その顔は」
彼が指差したのは、蓋のデザインだ。
そこには、つぶらな瞳で微笑む「クマ」の顔が浮き彫りになっていた。
前世の遊園地にあった、ゴミ箱の意匠を参考にした自信作だ。
「クマさんです。可愛いでしょう?」
「……可愛い、のか? 目が笑っていないように見えるが」
「滑り止め加工として、毛並みをギザギザにしてあるんです。踏んでも安心ですよ」
私は次々と魔法を放った。
王都中の、蓋がなくなった穴という穴に、次々と「クマの顔」がはまっていく。
ポンッ! ポンッ! ポンッ!
深夜の王都に、間の抜けた音が響き渡る。
数百個のクマが、路地裏や大通りに鎮座した。
「……終わりました!」
私は額の汗を拭った。
悪臭は徐々に引き、代わりに雨上がりのような土の匂いが漂い始めている。
キースは、足元のクマを見下ろし、深いため息をついた。
「……機能は完璧だ。汚水も引いた。だが……」
「だが?」
「なぜ、この国をお伽噺の王国にしたがるんだ、君は」
彼は頭を抱えていたが、その表情は柔らかかった。
少なくとも、胃に穴が開くような緊張感は消えている。
* * *
翌朝。
王都は騒然としていた。
昨夜までの地獄のような悪臭が嘘のように消え、空気が澄み渡っていたからだ。
そして、市民たちは足元にある「それ」を発見した。
「なんだこれ? クマ?」
「誰かのイタズラか?」
人々は最初、遠巻きに見ていた。
しかし、子供がその上で飛び跳ねても滑らないことや、踏むと妙に心地よい弾力があることに気づき始めた。
「これ、聖獣様の使いじゃねえか?」
「昨日の聖女様の光は臭かったけど、このクマは臭いを消してくれたぞ!」
「踏むと幸せになれるらしいぞ!」
根拠のない噂は、汚水よりも早く広がった。
広場では、通勤途中の商人や主婦たちが、わざわざクマの蓋を踏んでから通り過ぎていく。
中には手を合わせているお婆さんまでいた。
私はキースと共に、その様子を路地裏から眺めていた。
「……宗教が生まれているな」
「あはは、気に入ってもらえてよかったです」
私が笑うと、キースは呆れたように鼻を鳴らした。
「まあいい。結果として民が安心したなら、それが正義だ。……礼を言うぞ、セレナ」
彼は少し照れくさそうに視線を逸らし、ボソリと言った。
「君の作るものは、見た目はふざけているが……温かいな」
その言葉に、私の胸がトクンと跳ねた。
温かい。
そんな風に私の魔法を評価してくれたのは、彼が初めてだった。
「さあ、行くぞ。次は港の補修だ。休んでいる暇はない」
「えっ、もう次ですか!? 私、寝てないんですけど!」
キースは私の抗議を聞き流し、クマの蓋を踏んで歩き出した。
その足取りは、昨日までよりもずっと軽そうに見えた。
背後では、リリア聖女が「あれは私が召喚した聖なるクマです!」と必死に演説していたが、誰も耳を貸していなかった。




