第3話 泥沼の街道と、お花畑の舗装
グチャリ、と嫌な音がした。
目の前で、荷物を満載した馬車の車輪が、深さ三十センチほどの泥の中に沈み込んだ。
「あーあ、またかよ! 押せ! 誰か手を貸してくれ!」
御者の怒号が飛び交う。
馬はいななき、泥まみれになりながらもがいているが、進む気配はない。
「……酷いですね」
「ああ。地獄絵図だ」
私の隣で、キース局長が苦虫を噛み潰したような顔で言った。
ここは王都へと続く主要街道。
本来なら国の動脈となるべき道だが、今は巨大な沼地と化している。
「先月の長雨で地盤が緩んだところに、無理やり馬車を通した結果がこれだ。舗装予算を申請したが、宰相に却下されたよ。『泥など乾けば固まる』とな」
「乾くのを待っていたら、荷物が腐っちゃいますよ」
「その通りだ。実際、野菜は腐り始め、都の市場では価格が高騰している。……さらに悪いことに、急を要する薬品もこの渋滞に巻き込まれている」
キースの声には焦りが滲んでいた。
彼はまた懐から胃薬を取り出そうとして、瓶が空であることに気づき、舌打ちをした。
「セレナ。君の出番だ。この泥沼をどうにかできるか?」
「埋め立てますか? でも、普通の石畳だと、重みで沈んじゃいますね」
私は顎に手を当てて考えた。
地盤が豆腐のように脆い。
そこに重い石を置けば、石ごと沈んで余計に酷いことになる。
必要なのは「軽さ」と「強度」。
そして、沈んだ気分を吹き飛ばすような「華やかさ」。
ありますね。とっておきの在庫が。
私の脳裏に、前世の記憶が蘇る。
春の演劇公演で作った、あの伝説のセット。
主役が登場するための、とびきり目立つ通路。
「任せてください。泥の上だろうと、絶対に沈まない道を作ってみせます」
「頼む。……嫌な予感しかしないが、背に腹は代えられない」
キースが半歩下がったのを確認して、私は泥沼の前に立った。
イメージするのは、一直線に伸びる舞台。
演者を輝かせるための、最高の花道。
「『舞台装置生成』――セットNo.12、桜花絢爛の道!」
私は大きく両手を広げた。
指先から魔力が放たれ、泥沼の上空で光の粒子となる。
それは一瞬にして質量を持ち、寄せ木細工のように組み合わさっていく。
ババババッ!
軽い音が連続して響き、泥の上に「道」が敷かれていく。
幅六メートル、長さ数百メートルに及ぶ、一直線の舗装路。
完成した瞬間、周囲の喧騒がピタリと止んだ。
馬車を押していた男たちも、御者も、そしてキースも、口をあんぐりと開けている。
無理もない。
そこに現れたのは、ただの道ではなかったからだ。
色は、鮮やかな桃色。
それも、ただの桃色ではない。目が覚めるような、毒々しいまでに明るい色だ。
表面には、これでもかというほど大量の「桜の花びら」が描かれている。
しかも、ただの絵ではない。
魔術的な演出効果により、歩くと足元からキラキラと光の粉が舞い上がり、どこからともなく優雅な琴の音色が聞こえてくる仕様だ。
まさに、歌劇の主役が歩くための「花道」。
泥と汗にまみれた街道に、突如として出現した異空間。
そのあまりの場違いさに、世界の理が狂ったかのような静寂が流れた。
「……セレナ」
背後から、地を這うような低い声がした。
振り返ると、キースが眼鏡を外して眉間を揉んでいた。
「なんだ、あの色は」
「春の新作セットです! 泥の色って茶色くて地味でしょう? だから補色で明るくしてみました」
「目が……目がチカチカする……」
キースはよろめいた。
あれ? 不評だろうか。
結構可愛いと思ったのだけど。
「おい、これ……乗っても大丈夫なのか?」
呆然としていた御者の一人が、恐る恐る桃色の道に足を乗せた。
フォン……♪
足元から光が溢れ、優雅な効果音が鳴る。
御者はビクッと飛び上がったが、すぐに足元の感触に気づいたようだ。
「……固い? いや、柔らかいぞ?」
彼は靴底を踏み鳴らした。
コツコツという硬質な音はしない。
ゴムのように衝撃を吸収しつつ、しかし決して沈み込まない不思議な踏み心地。
「表面には滑り止め加工と、振動吸収魔法をかけてあります。卵を落としても割れませんよ」
私が胸を張って説明すると、御者は半信半疑で馬車の手綱を引いた。
「よ、よし、行ってみろ!」
馬が桃色の道に蹄を乗せる。
いつもならガタガタと揺れる荷台が、まるで氷の上を滑るようにスムーズに進み出した。
車輪の回転音が、驚くほど静かだ。
泥に足を取られることもない。
「す、すげえ! 全然揺れねえぞ!」
「馬が軽々と進む! これなら都まで半分の時間で行ける!」
歓声が上がった。
立ち往生していた商隊たちが、我先にと桃色の道へと雪崩れ込んでいく。
「どけ! 俺が先だ!」
「なんだこの道、花びらが舞ってるぞ!?」
「うおおお! 快適だ! まるで王侯貴族の馬車に乗っているみてえだ!」
次々と通過していく馬車。
その光景は、さながら「桃色の絨毯を行進する凱旋パレード」だった。
荷台に乗ったおじさんたちが、キラキラ舞う光の中で満面の笑みを浮かべている姿は、正直言ってかなりシュールだ。
「どうですか、局長! 完璧な仕事でしょう?」
私は得意げに振り返った。
キースは死んだ魚のような目で、桃色の道を見つめていた。
「……機能性は、完璧だ。文句のつけようがない」
「でしょう?」
「だが、この景観破壊はどうにかしろ。街道が乙女の夢の中みたいになっているぞ」
「えー、殺風景よりいいじゃないですか」
キースは深いため息をついた。
しかし、その表情は先ほどまでの焦燥感とは違い、どこか安堵が含まれていた。
「……まあいい。これで薬が届く。王の命も繋がるだろう」
「え? 何か言いました?」
「独り言だ。行くぞ、次の現場が待っている」
キースは私の背中を押して歩き出した。
彼もまた、桃色の道を踏みしめる。
フォン……♪
無骨な軍靴の足元から、可愛らしい愛の徴のような光が舞い上がった。
キースの背中が一瞬、ピクリと震えた気がした。
「……あとで、術式の書き換え方を教えろ。絶対にだ」
彼の耳が少し赤いのを見て、私は「照れ屋さんだなあ」と心の中で笑った。
この道が、国の運命を左右する重要な供給線になるとは露知らず、私はキースの隣で軽やかに桃色の道を歩いていった。




