第6節
決定的な異変は、食卓で起きた。
「見て、静流。今日はエビチリよ。元気になったんだから、もう食べられるでしょ?」
お袋が、上機嫌で大皿をテーブルに置いた。生前の静流は、軽い甲殻類アレルギーがあり、特にエビは好んで食べなかった。そのことを指摘しようとした俺を遮り、お袋は「大丈夫、大丈夫! 病気が治ったら、体質も変わるのよ」と楽観的に笑う。
静流は、無表情のままエビチリの皿を見つめていた。そして、箸を伸ばすと、ぷりぷりとしたエビを一つ掴み、躊躇なく口に放り込んだ。
俺は息を呑んでその様子を見守った。親父も、どこか不安げな表情をしている。
静流は、ゆっくりとエビを咀嚼し始めた。その時、俺の耳に奇妙な音が届いた。
ポリ、ゴリ……。
硬い何かを噛み砕くような、不快な音。静流は、エビの身だけでなく、尻尾の硬い殻まで、表情一つ変えずに噛み砕いているのだ。
「静流、殻は食べなくていいんだぞ」
親父が慌てて言うが、静流は聞こえていないかのように咀嚼を続ける。ポリ、ゴリ、ポリ……。その無機質な音だけが、リビングに響き渡る。お袋は、その異常な光景から目を逸らすように、「あらあら、よっぽどお腹が空いてたのね。カルシウムも摂れていいじゃない」と、無理やり肯定してみせた。その声は、かすかに震えていた。
静流は、口の中のものを飲み込むと、真っ赤なソースで汚れた唇を舐め、俺の方をじっと見た。
「おいしい」
その一言に、俺は背筋が凍るのを感じた。これは、俺の妹じゃない。妹の記憶を利用して、妹のフリをしているだけの「何か」だ。そして、その事実に気づいているのは、この家で俺一人だけだった。
食卓は、地獄のような沈黙に包まれた。誰もが、目の前の料理に手をつけることができなかった。ただ、ポリ、ゴリ、という不快な咀嚼音だけが、高槻家の崩壊が始まったことを告げるカウントダウンのように、響き続けていた。