第5節
静流が退院し、我が家に戻ってきたのは、あの悪夢のような出来事から一週間後のことだった。病院側は最後まで原因不明の現象に首を傾げていたが、身体機能に異常がない以上、退院させざるを得なかった。
「静流、おかえり!」
玄関を開けるなり、お袋は感極まった様子で静流を抱きしめた。親父も「無理するなよ」と優しく声をかけている。静流は、無表情のままこくりと頷いた。
リビングには、ささやかな退院祝いの食事が並べられている。まるで、何事もなかったかのように。いや、悪い夢が全て終わり、幸福な日常が戻ってきたのだと、両親は信じようとしていた。俺を除いて。
その日から、奇妙な共同生活が始まった。
静流は、驚くほど「普通」だった。テレビを見て笑い、食事もする。両親との会話も、以前より口数は少ないものの、成り立っていた。そのあまりの普通さに、俺自身も「あの日の恐怖は、俺の考えすぎだったのではないか」と錯覚しそうになる瞬間があった。
だが、「違和感」は夜にやってきた。
自分の部屋で寝ていると、階下のキッチンで物音がした。泥棒かと思い、そっと階段を降りてリビングを覗くと、ソファに静流が座っていた。テレビもつけず、ただ暗闇の中、虚空の一点を見つめている。その姿は、まるで充電中の機械のようだった。
「静流? どうしたんだ、眠れないのか?」
俺が声をかけると、静流の首が、ぎこちない動きでゆっくりとこちらを向いた。暗闇に慣れた目に、その表情のない顔が浮かび上がる。
「……眠るって、何?」
そう問い返してきた。その声は、純粋な疑問に満ちていた。まるで、睡眠という概念そのものを知らないかのように。
「いや、人間は普通、夜は寝るもんだろ」
「人間は」
静流は、俺の言葉を繰り返した。そして、ふっと口元だけで微笑んだ。
「お兄ちゃんは、優しいね」
会話が噛み合っていない。いや、意図的にずらされているような、薄気味悪さがあった。その晩、俺は自室のドアに鍵をかけた。同じ家の中に、理解不能な存在がいる。その事実が、じわじわと俺の精神を蝕み始めていた。両親は、静流が夜通し起きていることにも、まだ気づいていなかった。