第1節
俺、高槻和也が病院の自動ドアを抜けた時、鼻腔を刺す消毒液の匂いが、これから起こるであろう決定的な悲劇を予告しているようだった。走り抜けた無機質な廊下の先、集中治療室の前の長椅子に、親父とお袋は力なく座っていた。
「遅かったな」
親父は項垂れたまま、これまで聞いたことのないような弱々しい声でそう呟いた。母親はただ、虚ろな目で床の一点を見つめている。声をかけることすら憚られた。
俺の妹、高槻静流は、生まれた時から「ライラー病」という聞き慣れない難病を患っていた。詳しいメカニズムは医師に説明されてもよく分からないが、体の様々な機能が徐々に、しかし確実に衰えていく病だ。それでも静流は、入退院を繰り返しながら、持ち前の明るさで病気と闘ってきた。だが、今回の様に突然倒れて救急搬送されたことはなかった。最悪の事態が、すぐそこまで迫っている。
やがて、ICUの重い扉が開き、担当の医師が出てきた。俺たちは弾かれたように立ち上がる。
「ご家族、揃われましたね。こちらへ」
通された小部屋で、医師は検査結果の画像をモニターに映しながら、淡々と、しかし言葉を選びながら説明を始めた。要約すれば、こういうことだった。静流の身体は、もはや病気の進行に耐えられる限界を超えている。複数の臓器が機能不全に陥っており、生命維持装置なしでは一時間と持たない。そして、その装置を使ったとしても、残された時間は長くない。あと数日もつかどうか、というのが医学的な見解だった。
「本当に……本当に、どうにもならないのですか。静流は今まで本当に頑張ってきたのに……」
お袋が絞り出した声は、祈りとも絶叫ともつかない響きをしていた。
「これまで本当に、ご本人もご家族も頑張ってこられたと思います。我々も最後まで全力を尽くします。どうか、近くで見守っていていただけますか」
医師の言葉は、無慈悲な死の宣告に他ならなかった。親父もお袋も、その事実を静かに受け止めるしかないのか、無言のまま俯いている。俺は、握りしめた拳が爪の食い込む痛みで震えていることだけを、どこか遠い世界の出来事のように感じていた。