EP2 戦人
セプトリスの王都カリーを設計した人物は、数学的能力に極めて優れていたのだろうと推測される。王城を中心とする真円、カリーを俯瞰すればそのように見える―残念ながらセプトリスに航空技術はいまだ現れてすらいないので、その素晴らしさを正しく認知できる者はいないのであるが―その円の外周には堅牢な石壁があり、外敵の侵入を阻む。カリーの外は「郊外」と呼ばれる。大小の街や村が点在する地である。郊外の先にあるのは国境である。国境の先には、セプトリスと時に覇権を争い、時に通商を行う国々がある。だが、東側だけは別だ。東の国境を越えた先にあるのは「大砂漠」である。そこに住む民族を、セプトリス人は「砂漠の民」と呼ぶ。
砂漠の民は放浪民族である。国家を作らず、広大な大砂漠を絶えず移動して暮らす。少数民族である彼らが、それでも近隣諸国との諍いに巻き込まれずに生き残っているのは、大砂漠の過酷な環境の恩恵と言える。昼は灼熱、夜は極寒。植物も動物も現地の者以外には未知。大砂漠を越えるという難事を覚悟してまで砂漠の民を滅ぼそうという国は久しくなかったのである。それに、砂漠の民と共存する旨味もないわけではなかった。年に一度、砂漠の民の商人が外部に輸出する美しい宝石細工。大砂漠原産の良質な宝石を用いて作るこれを有することは、近隣諸国の上流階級にとって一つのステイタスであった。
しかし、均衡は突然崩れる。きっかけは当代セプトリス王が即位二十五周年記念式典で行った演説である。老王ヨハン=ルックラン=プラジェントは国民にこう訴えかけた。「このまま聖地を夷狄の好きにさせていてよいのか」と。聖地はセプトリス神話における創世神が誕生したとされる場所である。大砂漠の中央より西側にあるこの地は、運命のいたずらか、砂漠の民にとっても聖地であった。砂漠の民の間で伝わる神話における神々が誕生した地であるという。所詮、人間の考えなどどこでも同じようなものだ、で片付く話ではある。しかし、このことを以てしてセプトリス人と砂漠の民の先祖が共通であると考える学者もいるそうだが、その話はここでは割愛する。
聖地の扱いについては、先々代の王が砂漠の民と取り決めを交わした。争いを好まぬ王は、年に一度、セプトリスの神職の者が彼の地の神殿に礼拝することを条件に、聖地の支配権を砂漠の民に譲り渡した。以来数十年、聖地は砂漠の民に管理されていた。ヨハン王はこの状況に異を唱えたのである。王はレコンキスタ、すなわち聖地奪還のための戦いを開始すると宣言した。大砂漠の過酷な気候はやはり砂漠の民に味方し、戦いは長引いた。しかし、圧倒的な軍事力の差は埋めがたい。最終的に砂漠の民はセプトリスに屈服した。砂漠の民のほとんどが戦死或いは他国の奴隷となった。そして聖地の支配権は完全にセプトリスが掌握することとなったのである。
以上はウィリアムが騎士学校の講義で習った内容である。そして、この話の続きがロウ教官の口から語られた。終戦から十年近くがたつ近年になって、砂漠の民の残党による反乱が多発しているのだという。主にセプトリスの交通の要衝を押さえる形で反乱は起きている。このままでは国内の移動は勿論、国外との取引も危うい。したがって、勅令による大規模な残党狩りが組織され、ウィリアムたちもその中に組み込まれたというわけだ。
その説明を受けたのは、まるで一年以上昔のことのようにウィリアムには思えた。実際には二か月も経っていないのだが。その一か月半ほどで、ウィリアムの相貌は以前とはまるで別物になっていた。彼を変えたものの一つが、餓えである。戦場ではただでさえ満足な食事は難しい。それに加えて、砂漠の民の残党軍は、村々から物資を強奪したのち、その地を焼き払うことを好んだ。これを、焦土作戦という。これにより、食料確保は困難を極め、セプトリス軍は極限の飢餓に悩まされることとなった。もう一つが、恐怖である。砂漠の民の戦法は、あまりにも卑劣であった。助けを求める村人の下へ行くと、それは変装した砂漠の民であった、などということは日常茶飯事。逆に、殺した相手が、実は砂漠の民の服装をさせられた民間人だったということもあった。直接的被害はないとはいえ、このような体験は着実に兵士の心を蝕んだ。砂漠の民の奸計はこれにとどまらない。民間人の子供を人質にして、兵士の動きを封じる。森に拠点を構えるセプトリス軍を、森の中に息づく命ごと焼き払う。
直接の白兵戦が主であったレコンキスタとはわけが違った。セプトリス軍は剣や弓を使った戦闘でなら近隣諸国の中でも一二を争う強さであった。しかし、このような人道を無視したゲリラ戦は全くの未経験であった。それ故、被害は日に日に拡大する一方となってしまっていた。
その命令はあまりにも唐突だった。
「撤退?」
とウィリアムは聞き返す。
「ああ。どうやら当初想定していた以上の被害が見込まれてるそうだ。とっとと撤退して体勢を立て直せ、だとさ」
エドワードは淡々と告げる。ウィリアムは溜息を漏らした。
「今更?馬鹿にしていやがる」
ウィリアムはそう吐き捨てた。彼が砂漠の民を憎む気持ちに変わりはない。だが同時に、国軍の上層部にも怒りを覚えていた。想定外、という言葉を何度聞いただろうか。砂漠の民の奸計で被害が出るたびに指揮官たちはそう言った。戦死者を悼むことなく、己の責任を転嫁する者がほとんどだった。それ故、ロウ教官、いやロウ隊長への視線が変わった。ロウは豪放な物言いに反して常に慎重であった。既にこの戦が戦の体をなしていないことも最初から気づいていた。新米兵士十人のうち、戦死者が一人で抑えられているのは彼のおかげと言ってよかった。
「ロウ隊長はなんて言ってるんだ?」
ウィリアムがそう聞いたのは、それらの事実から来るロウへの信頼があったからだ。
「隊長も撤退には賛成だ。前々から立て直しを主張してた人だからな」
「そうか、ならいいんだ。」
エドワードの答えはウィリアムにとって予想通りだった。しかし、彼には一つだけ心残りがあった。
「砂漠の民に、一矢報いたかったんだけどね。」
努めて冷静に言ったつもりが、隠しきれない怒りが語調に現れてしまった。ウィリアムにとって、砂漠の民は弑すべき「悪」と化していた。だがなにもウィリアムだけが特別だったのではない。生き残った九人の新米兵士の大部分が、同じ憎しみを抱えていた。
彼らは皆父や祖父からレコンキスタの武勇伝を聞いて育った者たちである。華々しい刀槍剣戟の世界への憧れを持っていた。そして、武勲を立て、身を立てたいという功名心も持っていた。しかし、実際に戦場に広がっていた世界は、彼らの期待を大きく裏切った。砂漠の民が仕掛けてきたのは正面から激突することを避けるゲリラ戦だった。奇襲と謀略が支配する戦場に、新米兵士が磨いてきた剣術の腕はまるで通用しない。そもそも剣を交えることがないのだ。気づいた時には燃え盛る炎が背後から迫り、味方と思っていた人物が襲ってくる。これが戦なのか?話に聞いたレコンキスタとは全く違う惨状。あまりにも大きいイメージとリアルの乖離は、彼らに砂漠の民への憎しみを植え付けた。砂漠の民に報いを受けさせる、いつしか新米兵士八人の戦う動機は変化していた。だが、ただ一人、憎悪に心を染めない少年がいた。
「一矢報いたいのは、砂漠の民の方だったんじゃねえか?」
エドワードは小さく、しかしはっきりと言い放った。ウィリアムは信じられないと言いたげな表情で友の顔を観る。
「セプトリスに先祖代々の土地獲られたんだ、復讐してえって気にもなるだろ。」
「連中を擁護するつもりか?」
そうじゃねえ、とエドワードは答える。
「心情の問題だ。砂漠の民だって人間だ、てめえらが思ってるような悪魔じゃねえっていいてえんだよ。」
心の内を見透かされ、挙句馬鹿にされたようでウィリアムの顔が歪む。不快感に任せて彼は反論した。
「あんなことをしてる時点で連中は悪魔だ。君だって見たはずだ、到底人間の所業とは思えない。」
気が立っていたのはウィリアムだけではない。エドワードも、長い戦いでフラストレーションをためていた者の一人であった。彼は対けんか腰になってウィリアムに返答する。
「はっ、てめえ戦争を何だと思ってたんだよ。まさか試合前の一礼でもする気だったのか?」
「そういうことを言ってるんじゃないだろ!」
ウィリアムは思わず拳を作る。その時であった。
「ブラック!フォート!何をしておる!」
最悪だ、とウィリアムは思う。よりによって隊長に見つかった。ロウの鉄拳が二人に振り下ろされる。
「戦場で喧嘩だと?愚かな真似をするな!」
貴様らも、とロウは他の新米兵を見渡して言う。
「何故止めんかった?」
沈黙する少年たちであったが、その答えは明らかだった。ゲリラの恐怖で心が荒み切った新米兵にとって、二人の喧嘩はいい娯楽だったのだ。対岸の火事ほど面白いものはない。既に彼らはそのような心境になっていた。ロウに見つかった時点で此岸に飛び火して来たも同然ではあったが。普段の労なら連帯責任と称してその場の全員に罰を課しただろう。しかし、結局ロウは一通り説教したのみで一切罰を課すことはなかった。後になってウィリアムは、ロウなりに新米兵士の抱える苦しみに同情していたのだと気づく。また、連帯責任を課せば新米兵士たちは発端であるウィリアムとエドワードを恨んでいただろう。当時のウィリアムにそういったロウの思慮に気づく余裕はなかったが。
この騒動の翌日、ロウ隊を含む一団の撤退が始まった。前日のわだかまりを抱えつつも、ウィリアムとエドワードは相前後する形で行軍していた。一団が谷間を歩いていた時であった。凄まじい轟音と共に、いくつもの巨大な石が転がり落ちてきた。散り散りになる一団。それを待っていたかの如く、どこからか砂漠の民が現れ、セプトリス軍を襲った。ウィリアムも、大柄な砂漠の民と見えていた。いざ、と踏み出したその時、目の前の男が倒れた。その胸には黒塗りの矢が刺さっていた。振り返らずとも、それがエドワードのものとわかった。この瞬間、ウィリアムの胸中で昨日の一件によるしこりが完全に解けてなくなった。一瞬笑みを湛えつつも、顔を引きしめてウィリアムは次なる敵へ向かっていった。
カラン、と音を立てて手から剣が滑り落ちる。力が勝手に抜けちゃうな、とウィリアムは思う。ウィリアムの周りには敵味方含む無数の死体が転がっている。傍目から見れば、戦の残酷を凝縮したような光景に見えるだろう。しかいし、その中心にいるウィリアムが抱く思いは一つ。
「生きてる」
生の実感、それだけであった。ようやく感覚が戻ってきた手で、彼は剣を拾いあげた。研ぎ直せばまだ使えるかな、とボロボロの刃を見て思った。愛剣を鞘にしまうと、彼はその場に腰かけた。正直今再び砂漠の民が襲ってきたらひとたまりもない。だが、戦いの後の高揚感がそんな不安を打ち消している。辺りを見回すと、いくつかの隊はもう隊列を組み直していた。ふと、砂漠の民の死体に刺さる黒い矢が目に入る。ウィリアムはこの戦いの最初に襲ってきた男を思い出す。今、彼の視線の先にいるのはアレ以上の巨躯を誇っていた。その巨体が、まるで何かに覆いかぶさるように倒れている。ウィリアムは何の気なしに、いや、一抹の不安を抱えてその死体に近づいた。それはまるで突然何もないところから現れたように思えた。一本の腕が、大きな下の下から伸びていた。ウィリアムの心臓は早鐘のように鼓動を刻んだ。違う、そんなはずはない。肉体が告げる知らせを、頭で否定しながらウィリアムはその死体を蹴り飛ばす。そこにあったのはあるセプトリス人の死体だった。その表情は苦悶に歪み、胸には一本の剣が刺さっている。恐らく、先ほどの大男が死に際に彼を貫いたのだろう。
「エドワード?」
ウィリアムの隣で誰かがそう呟いた。それを聞き、ウィリアムは友の姿を求めて辺りを見回す。だが、隣にいた少年が彼の肩を掴んで死体の方を向かせる。
「何してんだよウィリアム!エドワードが!」
ウィリアムの脳はまるで錆び付いたかのように動かない。周りの声がやけに大きく聞こえた。エドワード!と叫ぶロウ隊長の声が聞こえる。まだ生きてるぞ!という叫びも聞こえる。なんだ、生きてるんだ。ウィリアムはその場に跪いた。死体と思っていた少年の唇がもの言いたげに動く。そしてウィリアムに向けて震える腕を上げた。もう大丈夫だよ。ウィリアムは目の前の見知らぬ少年を安心させようとその手を取る。刹那、少年の表情は先ほどと打って変わって穏やかなものとなった。その穏やかな顔を、いつもと同じ顔を見てウィリアムが少年の名を認識したのと、少年の腕から一切の力が抜けたのは全く同時であった。
「エドワード!」
ウィリアムは絶叫した。