EP1 覚醒
ウィリアムは朝型の少年ではない。どちらかといえば一分一秒でも長くベッドに貼りつくタイプである。そんな彼でも今日ばかりは夜明けを告げる銅鑼の音を待たずして目覚めることができた。寝ぼけ眼をこすっていると向いのベッドに腰かける少年が冷やかすように声をかけてきた。
「おや、珍しい。ようやっとお天道様がでてきたとこだっつーのに」
「まあ、今日ばかりはうかうか寝てられないからね」
「違いねえ」
そう言いながら笑う少年は、だらしない寝間着姿のウィリアムとは対照的に制服に身を包み、腰には剣を携えていた。
「君は平常運転ってところだね」
「そんなこたぁねえさ」
少年は言葉とは裏腹に涼しげな顔をしてみせる。そして思い出したように傍らのカバンをまさぐり始めた。それに合わせ、ウィリアムもいそいそと着替えだした。だが、ズボンを履き替えたところで、ウィリアムはふと気づいたように探し物の真っ最中のルームメイトの方を向いた。
「エドワード」
と、ウィリアムは目の前の少年の名を呼んだ。
「なんだ?」
そう答えつつ、エドワードはカバンから目を上げない。
「まさか、今日も朝の鍛錬をしていたのかい?」
「おうよ」
「こんな日までやることないだろうに」
と、ウィリアムは若干のあきれと尊敬を込めて述べた。
「ま、習慣だからな。やんねえと逆に気持ち悪くって」
対するエドワードは、さもなんでもないことのように答えた。そしてカバンからお目当ての道具一式を取り出すと、愛剣の手入れを始めた。そういうものかねえ、とウィリアムは小声でつぶやきつつ洗面台へ向かう。
「そろそろ行けるか?」
ややあって、エドワードは愛剣から目を離さずにウィリアムに問いかけた。
「うん。待たせたね」
顔についた水滴を拭きつつウィリアムは答える。エドワードはそれを聞くなり跳ねるように立ち上がった。
「なあに、いつもよか断然早いって」
「それを言われちゃうとな・・」
頭をかきつつ言い、ウィリアムはエドワードの後について部屋を出た。
朝早いにも関わらず、食堂は制服に身を包んだ少年たちで賑わっていた。配給口で朝食を受け取り、ウィリアムとエドワードは席に着いた。冷めたパンにバターを塗りながらウィリアムは辺りを見回す。昨日までは様々な話題が飛び交っていた食堂だが、今日は勝手が違うようだ。
「皆そうなんだろうけど、なんか落ち着かないよね」
「ん?そりゃそうだろ。なんつったて、今日は卒業試験だ」
卒業試験―すなわちセプトリス王立騎士学校の卒業試験である。ウィリアムがここに来たのは今から三年前のことであった。別に彼自身が騎士になりたいと望んだわけではない。いや、よしんば望んでいなかったとしても彼はここの生徒となっていたであろう。なぜなら、彼は生まれながらにして騎士だったからだ。ウィリアムは名門騎士一族たるフォート家の嫡子としてこの世に生を受け、騎士となるべくして生きてきたのだ。一部の例外を除き、ここ生徒は皆ウィリアムと同じような境遇である。要は、彼らにとって王立騎士学校に入ると言うのは一種の通過儀礼なのである。そもそも、ここ十年近く目立った戦争のないこの国、セプトリスにおいて、軍事訓練など大した意味は持たない、というのが、この国における一般的な認識だった。現に生徒たちが剣に触れるのは午前中のみ、その後はマナー・教養など『本当に役に立つ』ことを学ぶのである。そしてそれら机上の学問の試験は昨日終わった。残すは実技試験のみ、という状況である。
「でもまあ、『市井の神童』からしたら卒業試験なんて余裕綽々ってとこかい?」
「さあ、どうだろうな」
そう言って、エドワードは肩をすくめた。実のところ彼はこの学校における『一部の例外』だった。『市井の神童』のあだ名が示すように、エドワードは騎士の家の生まれではなく、商家の次男坊だった。幼い頃より騎士を目指し、家の手伝いをする傍ら勉学に打ち込んだ。そしてその秀英っぷりを認められ、騎士学校への入学を許可されたのだった。それも学費免除という特権付きで。ウィリアムは入学当初ルームメイトのバックボーンなど知らずに友になったが、一連の経緯を知り、エドワードを快く思わないものも多かった。そのような者らが彼を揶揄する目的でつけたあだ名が『市井の神童』だった。だが、直にこのあだ名は敬意をもって呼ばれるようになった。
「おっ、なんかミスター天才が謙遜しちゃってるじゃないの」
そう言ってエドワードの隣席に着いたのはモアと言う名の少年だった。
「ったく、わざわざ俺たちのとこまで来て最初に言うことがそれかよ」
「ははっ、悪いな。でも、ただでさえ落ちんのは二割以下って噂だ。お前なら楽勝だろ?」
「さあな。試験ってのは時の運だ」
「それもそうか・・特にロウ教官に当たっちまったら最悪だぜ」
笑いながら話す二人。ごくごく普通の光景だ。だが、いささかセンチメンタルな今日のウィリアムは『まさかこの二人がね』と心の内で呟いていた。モアは元々エドワードを快く思わないグループの一人だった。エドワードに対し、おおっぴらに何かをする者はいなかったが、小さな嫌がらせはいくつもあった。そんな状況にエドワードは・・・何もしなかった。彼らに向かって恨み言を言ったり、報復をすることもなく、ただひたすら日々の鍛錬をこなしていた。そのうち彼の快活な人柄に惹かれ、一人、また一人とエドワードに与する者は増えていった。そしていつしかエドワードを快く思わない者の方が少数派となってしまっていた。エドワード自身がそうなることを見越していたのか、ウィリアムにはわからない。ただ、エドワードが並外れた人望を持っていることだけが確かだった。
「じゃあな。まあ、お互い頑張ろうぜ」
そう言ってモアは去っていった。
「おう!・・・んじゃ、俺たちも行くか」
「ああ、そうだね」
そして二人は運動場へと、今日の試験が行われる場所へと歩いて行った。
あついな・・。運動場に着いたウィリアムが最初に思ったのはそれだった。夏の暑さもさることながら、運動場を包む異様な熱気がその正体だろうか。ウィリアムはふとエドワードの方を向いた。大抵のことには動じない彼も、さすがに緊張しているようで表情がこわばっていた。
「なんだ?顔にバターついてる?」
「いや、そういうわけじゃないよ」
「ならいいけどよ・・」
そう言いつつエドワードは土の上に腰を下ろした。ウィリアムもその隣に座った。この卒業試験では同じ部屋の者がペアになって剣術を披露する。そのため、ウィリアムには羨望と同情、両王の視線が向けられた。前者はエドワードがペアであることで見栄えが良くなると考えて、後者はエドワードと比べられることで評価が落とされると考えてのことであろう。ウィリアム自身にも、騎士学校きっての秀才とペアを組むことが吉と出るか凶と出るかはわからなかった。
「どうした、震えてるぞ」
不意にエドワードがウィリアムに声をかけた。
「ああ、まあ、武者震いだよ」
と、取り敢えずは強がってみるウィリアムだったが、
「嘘つけ」
と一蹴されてしまった。
「正直、緊張しててね。心臓が口から出てきそうだ」
「気負うなっつても無理な話だが、まあいざって時は俺がフォローしてやる。深呼吸でもして頭ん中カラにしとくこった」
ウィリアムは友の言う通りゆっくりと呼吸した。実際、ウィリアムがミスしたらエドワードが上手くそれを補ってくれるのだろう。それをする実力も優しさもエドワードは持ち合わせていたし、そういった連携も採点対象だと伝えられていた。だが、それでいいのか?という疑念もないわけではない。ともかく今は目の前の試験に集中しよう、そう思い、ウィリアムは景気づけに自分の頬を叩いた。
「エドワード=ブラック、ウィリアム=フォート」
とうとうウィリアムたちの名が呼ばれた。だが、ウィリアムは聞き違いであることを祈った。その声に呼ばれることはウィリアムにとって、いや全生徒にとって、この試験落第する可能性が最大まで高まることを意味していたからだ。どうか間違いであってくれ、そう祈りつつウィリアムはその声の主の方を向いた。その初老の男は彼らを見据えていた。もう否定しようがない。ウィリアム、エドワードの試験監督は、鬼と恐れられるトーマス=ロウ教官だ。
とかく、この学校においてはロウ教官の恐ろしさを伝えるエピソードには事欠かない。いわく、実技訓練に不平を述べた生徒を逆さづりにした。ホームシックに駆られ、脱走を図った生徒を雪の中全裸で放置した、等々・・。何より恐ろしい―特にこの時期の生徒にとって―のは、合格率八割と語られるこの試験で、残りの二割は全てロウ教官の監督下で生じているという噂であろう。その噂はお世辞にも情報通とは言えないウィリアムの耳にも届いていた。それ故、彼は一抹の絶望感を胸にロウ教官の前へと向かった。
「ブラックと、フォートだな」
はいっ、と二人は間髪入れずに答えた。
「貴様らの模擬戦はこの儂が見る。存分に戦うがいい」
はっ、と二人はまた同時に答えた。そう、この実技試験では模擬戦、わかりやすく言えば決闘の真似事が行われる。ただし、相手を倒すことより、訓練で教えられた『型』に則って剣を捌くことが重視される、と事前に伝えられていた。しかし・・
「それと」
位置に着こうとした二人をロウが呼び止めた。
「貴様らの小手先の技の見せ合いに興味はない。実戦と思え。敵軍の兵士と向き合っているつもりで戦え」
ウィリアムは内心歯ぎしりをした。この学校を騎士の子息の通過儀礼と考える者たちが多い中で、ロウは紛れもなく異端だった。昨今、騎士と言えど王の前で行う御前試合程度しか剣を振るう機会はない。しかし、ロウは常に『実戦』という言葉を用いた。他の教官たちが数十年前に現役を退いた老人ばかりなのに対し、ロウは十年前まで第一線で戦っていたことも関係しているのかもしれない。ともかく、ロウの命令はウィリアムにとっては大いに逆風であった。まともに戦ってエドワードに勝てないのは勿論だが、無様な負けっぷりを晒せば間違いなく落第になる。しかし、それをエドワードが慮って手心を加えようとしたところで、間違いなく見破られ、二人とも落第になる。したがって、ウィリアムは本気のエドワードと戦い、少なくともロウの眼鏡にかなう戦いっぷりを見せなくてはならないのである。そこまで考えが至り、ウィリアムは自分の棺桶が目の前で作られるのを見ているような気持になった。だが、そこで、ウィリアムの肩に手がのせられた。
「なぁに、心配すんな。お前さんなら大丈夫さ」
エドワードはそうウィリアムにささやいた。ウィリアムは一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに力強く頷いた。
ロウの鋭い眼光に見つめられながら、ウィリアムとエドワードは剣を構えた。どちらの剣も三年前に支給されたものだ。初めて手に取った時は大振りにすぎるように感じたものだが、今ではよく手に馴染んでいる。入学時に支給された木剣共々、ウィリアムにとってはここでの生活を象徴する品々だ。そして、目の前にいる友の剣を見つめた。よく手入れされているが、ウィリアムのものより若干小振りになっている。人一倍鍛錬し、繰り返し研磨した証である。そこから少し視線を上げる。エドワードもまたウィリアムを見つめていた。兜の隙間からしか表情は見えないが、何故か微笑んでいるように見えた。そうだ、とウィリアムは思う。彼とエドワードはこの六年間、常に寝食を共にしてきた。勿論、いつでも順風満帆と言うわけではなかった。特に二年前の喧嘩はひどいものだった。その時の話を蒸し返されると未だに二人とも羞恥に顔を染める。しかし、そういったことはあっても、二人にはこの六年で築き上げた『呼吸』がある。大丈夫、大丈夫だ。ウィリアムはそう自分に言い聞かせた。お互いの本気をぶつけ合えば、きっといい戦いができる。ウィリアムはそう信じ、剣を握る手に力を込めた。
「始め」
と、ロウが静かに告げた。だが、ウィリアムもエドワードも動かなかった。互いに相手の体を観察していた。長い、しかし数秒程度の沈黙の後、先に動いたのはエドワードだった。エドワードの一撃を、ウィリアムは正面から受け止めた。金属同士がぶつかる音が響き渡る。刹那、エドワードの剣がウィリアムの刃の上を滑った。そしてその勢いを殺さぬままエドワードの突きがウィリアムの喉元を狙った。鎧と兜の隙間である、当たれば間違いなく致命傷だ。しかし、ウィリアムはすんでのところで剣先から首をそらす。一旦距離をとって体勢を立て直そうとすウィリアム。そして左手の盾を構えて追撃に備えた。だが、エドワードはそこに己の盾をぶつけた。盾を通じて伝わってくる衝撃に、ウィリアムの手は僅かに痺れる。そのすきを逃さず、エドワードは土の上を転がってウィリアムの背後を取ろうとする。それを横目で見やり、ウィリアムは回し蹴りで対応した。エドワードはその蹴りを体の向きを変えただけで躱すと、後ろへ軽く飛び、距離をとった。そしてエドワードはあろうことか盾を背中に背負い、左手の剣を両手で持ち直した。その行動の真意をウィリアムが推察する間もなく、エドワードはその状態のまま突進する。不意を突かれながらも辛うじて突きを繰り出すウィリアム。だが、まるで突きが来るのをわかっていたかのようにエドワードは最小限の動きでウィリアムの攻撃をかわし、一気に彼の懐へと入り込むと・・
「そこまで」
ウィリアムは自分の荒い呼吸を感じた。彼の喉元にはエドワードの剣が添えられていた。これはあくまで模擬戦だ。だが、ついさっき彼か感じた恐怖は間違いなく死への恐怖だった。蛇に見込まれた蛙のように、ウィリアムは指一本動かすことはできなかった。エドワードが剣を下ろし、鞘に収めて初めて金縛りが解けたように体が動くようになった。辛うじて平静を保ちつつ、ウィリアムはエドワードと互いに礼をし、ロウにお辞儀した。
「うむ。結果は明日発表される。今日はゆるりと体を休めよ」
それだけ言ってロウは名簿に目を落とした。その姿が二人に、この場から去れと告げていたので、ウィリアムとエドワードは自室へと引き上げた。
昼食後、エドワードは用があるとのことでどこかへ消えた。ウィリアムはこの機に一人で校内を散策することにした。六年間も在籍していたのだ、今更新しい発見はない。だが、明後日からは来ることもないと思うと妙に心が騒ぐ。たっぷりと感傷的な気分を味わったところで、空がオレンジ色に染まった。ウィリアムは自室に戻り、ベッドに寝転んだ。思い出すのは午前中の卒業試験のことだった。エドワードと手合わせしたのは今日が初めてではない。それこそ入学当初から何度も剣を―あるいは木剣を―交えてきた。最初の内は多少家で手ほどきを受けていたウィリアムの方が勝っていたが、直エドワードが連勝記録を伸ばすようになった。ここ三年くらいで考えれば今日はよく食らいついた方だろう。だが、今日のように死を感じたのは初めてのことだった。エドワードの剣には紛れもなく殺気があった。最初の突きにしたって、ウィリアムの反応がもう少し遅ければ命を奪われていたかもしれない一撃だった。それこそ本当に『実戦』のような戦いだった。確かにそうしろとの指示はあった。だが、だからといって簡単にできるものではない。いつの間にここまで差が開いていたのか・・ウィリアムは一種の恐怖を感じていた。
「ウィリアム」
と己の名を呼ばれたことでウィリアムは思索の海から帰ってきた。
「なんだい?」
ウィリアムが目を開けると当のエドワードが自分をのぞき込んでいた。
「・・寝てたのか?」
「いや、考え事してただけ。で、何?」
そう答えるとエドワードはウィリアムに一枚の紙を渡してきた。
「ああ!忘れてた!」
その紙は、卒業前夜祭の招待状だった。
「ったく、案外お前さんも抜けてるとこあるよな」
「ごめんごめん、今支度する」
ウィリアムは大急ぎで着替え、あきれ顔のエドワードとともに大広間へと駆け出した。
卒業前夜祭というと公式行事のような趣が漂うがそうではない。ウィリアムたちが入学するずっと前の生徒たちが自主的に始めたものだった。しかし、近年では楽団を呼ぶほど大きな行事と化している。普段は何かと小うるさい教官たちも、この時ばかりは無礼講として多少のお祭り騒ぎは容認している。中には自らもパーティーに加わる教官すらいる。その一方でけしからんとして毛嫌いしている教官もおり、その筆頭がロウだった。こんな乱痴気騒ぎは聞くに堪えないとばかりに自室へ引きこもっているのが常だという。それ故、ウィリアムは一瞬己が目を疑った。あろうことか、そのロウ教官が大広間の隅で盃に口をつけているのである。
「エドワード、あれ」
ロウを指し示しつつウィリアムは傍らの友に声をかけた。
「ん?ああ、ロウ教官か」
「なんでまた教官がいるんだろう」
思わずそう口にしたウィリアムだったが、事も無げにエドワードは返す。
「ま、偶にはハメ外したいって思たんじゃねぇの?」
羽目を外す?しかめっ面で生徒を睥睨しながら酒を飲むことが?そう思いったが、口にはしなかった。気にはなるが議論するほどのことではないと判断したのである。
「取り敢えず今は腹ごしらえだな。サーモンありますように!」
言うなり、エドワードはビュッフェへ突撃していった。その後を追いつつウィリアムは辺りを見回す。基本的には立食会のようなスタイルだ。皿を手に持ちながら、皆思い思いの相手と会話を楽しんでいる。一時はダンスパーティも兼ねていたそうだが、余りにも盛り上がらず取りやめになったそうだ。男同士のダンスを楽しめる酔狂なものはそう多くはなかったようだ。正直、食べて、話す、その二点のみしかすることはない。なにか特別なことがあるわけではないが、まあ、こういうのは雰囲気の問題なのだろうな。とウィリアムは一人納得した。事実、彼自身なんとなく高揚感めいたものは感じていた。試験が終わったというのもあるだろうが、やはり場の空気と言うものの影響は大きい。
「サーモンもローストビーフもあるたぁ、気が利いてるな!お前はどうすんだ?」
目を輝かせながらエドワードが話しかけてくる。ウィリアムは自然とほほ笑んでいた。
「取り敢えずサラダでも貰おうかな」
食事は前菜から。ウィリアムはまあ、セオリーというやつが嫌いではなかった。御馳走に舌鼓を打ちながら二人は他愛もない話に話を咲かせた。何も特別な話をする必要はない。卒業と言ったところで、皆騎士になるに決まっている、いつでも会える関係に変わりはない。と、ウィリアムは考えていた。まあ、試験に落ちればあと一年ここで忍従の時を過ごす必要があるわけだが。エドワードにそんな心配があろうはずもない。ウィリアムも、今日の結果はいささか不安だが、昨日の筆記試験は割かしよくできた気がしていた。故に、卒業についてさほど心配はしていなかった。
「いよいよ俺も騎士になるってわけだ」
エドワードは事実をかみしめるように言った。
「そうだねえ」
ウィリアムにも感慨深いものがあった。親の敷いたレールに従う自分たちとは違う、自分の意思で騎士になると決めたエドワードの努力を、彼はいつも隣で見つめていたのだ。
「長かったな」
それはエドワードの偽らざる本音だっただろう。幼い頃から騎士と言う一つの目標だけを見つめて生きてきたのだから。
「お前さ」
とエドワードは続けた。ウィリアムは返事を促すように小首をかしげた。
「騎士になったら、何がしたい?」
「何って・・」
正直、質問の意図を図りかねた。ウィリアムとて騎士になった自分の姿を想像したことくらいはある。だが、それだけだ。いや、そもそも騎士と言う職に、やりたいことを選ぶ自由などが存在するとは思えなかった。幼い頃父に、騎士とは何をするのかと尋ねたことがある。父の答えは「王に忠誠を尽くすこと」だった。幼子にその言葉の意味が分かるはずもない。今度は世話係のフランシスに、父上はいつも何をしているのか、と尋ねた。フランシスは父のように抽象的な言葉を使うことなく、いつもわかりやすく物事を教えてくれたからだ。フランシスの答えはこうだった。「坊ちゃま。旦那様は王様のおられるお城を守っていらっしゃるのですよ」毎日?と幼いウィリアムが尋ねると、「左様でございます。とっても立派なお仕事ですよ」とフランシスは答えた。その時はその言葉を額面通り受け取ったものだ。だが、成長するに従ってわかったことがある。王城が攻められるような事態はそうそう起こりえないと言うことだ。来るはずのない敵から王を守る、それが騎士の仕事だとしたら、存外つまらないものだ。そう思った。だが、十年前に「それ」は起こった。戦争である。父も将校として出兵した。その時の血沸き肉躍るような武勇伝にウィリアムは心躍らせたものだった。そうだ、そうだったな。ウィリアムはその時の感動を思い出していた。
「戦ってみたい。ここで学んだことを試してみたい」
自然とそうつぶやいていた。その瞬間、エドワードの目が大きく見開かれた。そして不敵な笑みを浮かべた。
「言うじゃねぇか。俺も負けちゃあいらんねえな」
「エドワードも?」
今度はウィリアムが驚かされる番だった。エドワードも同じことを考えていたと言うのだろうか。だが、そう問い返す前に別の声が割って入った。
「よう、お二人さん」
モアと、ウィリアムには名のわからない少年二人だった。だが、エドワードは顔見知りらしい。
「おう、お前らか、どうした?」
「まあそう焦るなよ。ウィリアム、こいつ借りていいか」
モアはエドワードに親指を向けて言った。
「ああ」
「おいおい、俺には説明なしか?」
エドワードがわざとらしく怒ったふりをする。
「あー」
と、モアは一瞬ウィリアムの方を見て躊躇いを見せたが、すぐに話し始めた。
「ベンのやつが遠征の時のメンバーの集合画を描きたいっつっててさ」
ベン、か。顔は思いつかないが、その名にウィリアムは心当たりがあった。絵が上手いと評判の少年だった。彼がトイレの壁に書いた落書き―首から下がドラゴンになっているロウ教官の絵―は未だに語り草になっている。
「なーる、いいか、ウィリアム?」
と、エドワードはウィリアムに尋ねた。
「ああ、行っておいでよ」
特に躊躇いなくウィリアムは答える。それを聞いて満足したように頷くと、モアはエドワードを引っ張って去っていった。
ウィリアムとエドワードには共通の友人というのがあまりいなかった。基本、二人で行動しているため、他の友人と交流するのは遠征で別のグループになった時など、お互いがいない時しかなかったからだ。現に、ウィリアムは今まさにエドワードと肩を組んでいる少年の名を知らない。いつも一緒にいるからこそ、わからないこともあるんだよな、ウィリアムはつくづくそう思う。せっかくのパーティーを一人で過ごすのもつまらない、ウィリアムは、手に持っていたグラスの中身を一息で飲み干すと、話し相手を探して歩き始めた。
「やあ、フォート家の」
しばらく歩いていると後ろから声をかけられた、ウィリアムは振り向いて声の主に答えた。
「やあ、ブラウン家の」
ウィリアムの前にいるのはチャールズ=ブラウンという名の少年だった。この少年、付き合いの長さで言えばエドワード以上である。というのも、フォート家とブラウン家は親戚関係にあり、ウィリアムとチャールズもはとこという間柄にあるのだ。そういった事情から、ウィリアムとチャールズは幼い頃から何度かともに食卓を囲んできていた。
「一人か?『色』はどうした?」
悪戯っぽく笑いながらチャールズは言った。
「そのネタは勘弁してよ。そんなんじゃないっていうのに」
ウィリアムが困り顔を作って答えると、チャールズはまた笑った。色、つまり恋人のことだ。ウィリアムとエドワードがいつも共にいることから、この類の揶揄をしてくるものは少なくない。まあ、このような言いがかりの被害を受けているのはウィリアムたちばかりではないのだが。男ばかりで六年間も過ごせば、多少は発想が貧困になるのも仕方ないだろう。しかし、卒業生の約一割が本当に上流貴族の『色』になってしまうという噂は、妙な説得力があり恐ろしい。
「それにしても今日は災難だったよな。ロウ教官にあたるなんてさ」
「君もロウ教官だったのかい?」
驚いてウィリアムが尋ねると、チャールズは苦笑しながら答えた。
「ああ、名前を呼ばれたときは肝が冷えたよ」
ウィリアムは深くうなずいて共感を示した。でも、とチャールズが続ける。
「ウィリアムにはエドワードがいたからまだマシじゃないか?俺たちは二人ともテンパっちゃって大変だったよ」
今度はウィリアムが苦笑する番だった。実際、エドワードのおかげで何とかなった節はある。こんなんだからエドワードに依存してるなんて言われちゃうのかな、とウィリアムは昔誰かに言われた言葉を思い出す。エドワードに助けられているのは確かだが、依存とはまた違うとウィリアム自身は思う。しかし、その言葉を言った人物の目にはそう映らなかったらしい。
「しかしロウ教官には参るよ。こないだもさ・・」
とチャールズはロウ教官への愚痴を零しだす。ウィリアムもそれに同調するうち、何人か同級生が集まり、思いのほか盛り上がった。その後も様々な話題に花を咲かせるうち、気づくと卒業前夜祭も終わりの時を迎えた。ウィリアムは、友らに別れを告げ、自室へ帰った。全身をくまなく支配する疲労に負け、ウィリアムは辺りをよく見ずにベッドに倒れこみ、夢の世界へ入り込んだ。それ故、前夜祭が終わったにもかかわらず、一向に隣のベッドの主が返ってくる気配がないことに気づかなかった。
案ずるより産むが易しとはよく言ったもので、「その日」が来てしまえば意外と平静な心持でいられるものだ。そんなことを考えながらウィリアムは騎士学校の廊下を歩いていた。実際、もっと意外なことがあった。
「珍しいね、エドワードのが僕より起きるの遅いなんて」
目をこすりながらエドワードは答えた。
「ああ、昨日ハッスルしすぎたんでな」
ウィリアムは苦笑を以て答えた。自分が部屋に戻ったのもかなり遅い時間だったが、その時ですらエドワードが返ってくる気配もなかったのだ。それはまあ、ハッスルしたんだろうな、とウィリアムは思う。しかし、彼が聞きたいのはそんなことではなかった。意外性で言えばエドワードの寝坊など些細なこと。本当に意外なのは、エドワードが、大抵のことには飄々として動じない友が、その顔に明らかな緊張の色を浮かべていることだ。ウィリアムにはエドワードの頬を伝う冷や汗すら見て取れた。何故そこまで緊張しているのか、そう尋ねることもできないほど張り詰めた空気をエドワードは身にまとっていた。重苦しい空気を感じると、かえって饒舌になるものは少なくないが、ウィリアムもその人だった。合格者の名を記した掲示板への道を歩く間、ウィリアムは絶えず舌を動かした。二人の会話の主導権を握るのは往々にしてエドワードなのだが、今日は珍しくその立場が逆転していた。
「それで、教官がさ」
「着いたか」
「え?」
ウィリアムはエドワードの視線を追った。その先には青い制服に身を包んだ少年の山ができていた。
「ああ、やっと」
ウィリアムはエドワードの耳に入らないようにつぶやいた。正直部屋からせいぜい十分もあれば着く場所なのだが今日は妙に長く感じた。これで一安心、といいたいところだが、何かがおかしい。
「皆、やけに騒がしいね」
そう、掲示板の前は例年に比べ、異様、言えるほどの喧騒に包まれていたのである。心がざわつくのを感じながら、掲示板の前へと歩みを進めた。
異様さの原因は一目でわかった。いつもなら掲示板には一学年の八割、百人前後の名前が記されている。しかし、ウィリアムの眼前にある掲示板には、どうみても十人程度の名前しか記されていない。心臓が普段の数倍の速度で拍動するのを感じながら、ウィリアムは掲示板の上に視線を滑らせた。
「あった・・」
溜息とともに安堵の一言が漏れた。ウィリアムはこの喜びを友と分かち合うべく、エドワードに向き直った。だが、
「そうか、なら行こうぜ」
そこにあったのは驚くほど醒めた目だった。それは実力に裏打ちされた自信の表れと言えるかもしれない。しかし、それにしてはあまりにも無感情な顔つきだった。とはいえ、そんなことより聞き質さねばならないことがウィリアムにはあった。
「行くって、どこに?」
「右下を見ろ」
エドワードに促され、ウィリアムは掲示板の右下へ目を向けた。そこには、小さな文字で一言、こう記されていた。
以上、卒業資格取得者十名は九時に教官室Ⅰまで来ること。
「教官室Ⅰって、ロウ教官の・・」
「ああ、時間に余裕はあるが、早めに行くに越したこたぁねえだろ」
ウィリアムの内心の恐怖など知らぬ顔でエドワードは歩き始めた。ウィリアムは後れを取らぬようついていくしかなかった。
ロウ教官が不機嫌なのはいつものこと。たとえ自分から呼び出しておいて口を開かずに生徒を睥睨していても驚くに値しない。だが、だからといってこの沈黙の堪えがたさは寸毫も緩和されない。故に、ロウ教官が重い口を開いた時、ウィリアムは正直溜息をつきそうなほど安堵した。
「貴様らは、今日を以てしてこの王立騎士学校を卒業する」
それはそうだろう。
「つまり、貴様らは騎士になるということだ」
ウィリアムはなぜか胸がつかえてくるのを感じた。
「騎士となれば王の命に従って戦うことが義務となる」
そういって、ロウは僅かに息を吸った。
「貴様らは明日、儂の部隊の兵として砂漠の民殲滅作戦に加わることになる。」
少年たちは刹那氷像のように硬直した。だが、次の瞬間、口々に疑問を発した。曰く、何故まだ騎士になったばかりの自分たちが戦場に行かねばならないのか。本来であれば、王城の警備に就く筈ではないのか。その中にあってウィリアムはただ震えていた。初め、ウィリアムは自分が恐怖故に震えているのだと思った。だが、違う。ウィリアムの手は自然と愛剣へと伸びていた。彼は、まだ見ぬ戦場でそれを振るうことへの高揚感に震えていたのだ。
「これは勅命だ。騎士ならば国王陛下の命には従うのが道理。理解し、疾く備えよ」
一方でロウは少年たちに最後通牒を突きつけていた。
「出て行け」
ロウは一言命じた。少年たちは不満を抱えつつも教官室を後にした。自室へと向かう途中、ふとウィリアムは隣にいる友の顔を盗み見た。その顔にはウィリアム自身と同じ高揚が浮かんでいたが、相変わらず頬には冷や汗があった。