間違い電話の女
一
通話キーをタップすると、かん高い女の声が響いてきた。
「なぜ、来てくれなかったの? あれほど約束したじゃない。きょうが最後だと言ったでしょ。わかった、もういい。もうどうなってもかまわない。死んでやるッ!」
相手を確認もせず、若い女は一気にまくしたてた。
「あのう……」
「えっ」
こちらの声に気づいたのか、女の口調が変わった。
「ナオキじゃあ……」
うかがうような女の表情が見えるようだった。
「違いますが」
シャワーから出てきたばかりの男は、まだぬれている髪をタオルでふきながらケータイを持ち替えた。
「おかけ間違いのようですね。何番に?」
相手のそこつぶりがおかしかったが、死んでやるは尋常でない。
「それに、死ぬは穏やかじゃないですよ。ちょっと冷静に」
彼は、もともと多弁な方である。相手が親密であろうとなかろうと、思いついた言葉を、つい口にしてしまう。それでトラブルになることも少なくない。
「あなたに何がわかるのよ。ひとの気持ちも知らないで、冷静にだなんて。勝手なこと、言わないでちょうだい!」
叫ぶやいなや、女は一方的に電話を切った。
やれやれ、と彼は携帯を置いた。
女子が元気なのもいいが、もう少ししとやかであってもらいたい。男と同じでは、特段いっしょにいたいと思わない。
あわてて出てきたバスルームを片付け、ベッドに戻ってくると、再び携帯が鳴った。
同じ人物だった。
「ごめんなさい。さっきは興奮していたものだから、つい大声を上げてしまったの。あのひとが……」
彼女の声がうるんだ。
前のコールと落差は大きかった。どちらが女の本性なのだろうか。彼は興味を持った。
「よかったら、ちょっと話してみない? 少しは楽になるかもしれないよ」
あのような切羽詰まった叫びを聞けば、だれだって事情を知りたいという気持ちになる。決して、若い女性の声だからというわけではない。男は自分に言い聞かせた。
電話の向こうで、はなをすする音が聞こえた。
「流れに携帯を落として、データもみんな壊れてしまったの。きょう新しいのを買ってきたばかりよ。彼の番号を入れたつもりだったけど、間違ってたのね」
どこか投げやりな言い方が、悩みを悩むのさえ放棄した女の追い込まれた気持ちを表しているかのように思えた。
彼は、黙って聞いていた。
「以前は、あんなじゃなかったのに」
こう言ったあと、無言が続いた。涙をこらえ、悲しみにうちふるえる女の体温が伝わってくる。
沈黙に耐えられなくなって、彼が口を開いた。
「いつから連絡がないの」
立ち入りすぎたか、と思ったが、もう遅い。だが、相手は、案外素直に答えてきた。
「もう三か月近くになるわ」
「携帯には?」
「出ない」
「メールは?」
「着いているのかしらね」
「相手は独身?」
「……」
根拠があるわけではなかった。だが、なぜかそんな気がした。
「ごめん、嫌なことを聞いたようだね」
返事のないのが答えだった。二人の関係が複雑なようなのがわかった。
「いいわよ、知られたって、どっちみち……」
途中で声がつまった。あとの言葉を想像して、彼も緊張した。
「こんなW県の山の中からじゃあ、おいそれと彼を何度も追っては行けないし」
うすぼんやりとしていた女のイメージが、徐々にはっきりしてきた。
「W県? ぼくもいたことがある」
前の仕事で、同県の営業所勤務をしていたことがあった。
「あなたの知ってるのは、街の中でしょう。わたしのいるのは、一番山深いところよ」
「じゃ、I村?」
「知ってるの? その一番奥なのよ、山の谷小学校前というバス停があるところ」
かなりへんぴな土地だ。海岸線から一時間以上もバスに乗る。
海辺から何時間も山間地へ入るところはたくさんある。だが、行き止まりで、民家がまばらにしかないところとなれば、やはり辺地と感じるのはしかたない。
「毎週のように遊びに出たり、彼が最終バスで登ってきて、朝一の便で帰ったりしてたわ」
恋人との楽しかった思い出を語るときは、明るく生き生きとした声になった。
「やさしかったのよ。たずねて来るときは、いつも私のお気に入りの黄色いバラを持ってきてくれるの。次の日の朝、その花はいつもバス停の花瓶に挿しておいた。私の幸せをほかの人たちに、少しでもおすそ分けしてあげたかったから」
黄色いバラを好きな女は珍しい。花言葉のせいだろうか。
「あす一日だけバス停で待つつもり。それからは、どうなるか……。早く考えることをしなくてもいいところへ行きたい」
大きくため息をもらし、言葉が途切れた。泣いているのかもしれない。
「切るわね」
突然、最後の言葉が飛び込んできた。心の準備をしていなかった彼はあわてた。
「待って」
呼びかけたとき、もう携帯は切れていた。
着信履歴をもとに、その後何度もコールしたが、彼女は呼び出しに応じなかった。
二
翌朝、彼は列車に乗った。I村へは遠かったが、半日ほどで行けない距離ではない。
車内から電話して、四、五日休暇をとるとクライアントに告げた。自宅勤務の請け負い仕事だから、急ぎのものがない限り時間的な融通がきく。
昨夜はベッドへ入っても、眠れなかった。死んでやるは、まさか本気と思わなかったが、まったくのうそとも否定できなかった。
ネットでダイヤを調べ、早朝のJRに飛び乗った。
W県へは五年ぶりである。途中で各駅停車に乗り換え、ひなびた海岸沿いの駅に降り立ったのは夕方だった。
ここからはバスで山道をたどる。
便は、日にたった三往復である。朝に上がったバスは昼に下りてきて、夕刻ふたたび登っていく。終点で一泊して、次の日朝一番で下る。
車内は、町で用事をすませたお年寄りたちがぱらぱらと席を占めていた。
両側からひさしの迫る細い道を抜けると、畑地が広がった。やがて、山肌が一方の窓を覆った。
バスは流れに沿って、九十九折を登っていく。エンジンのうなりが大きくなり、からだが左右に揺れた。
窓の外が暗くなった。山国の日暮れは早い。いつの間にか、乗客はもう二、三人に減っていた。
次は終点、山の谷小学校前です――
室内灯がついた薄暗い車内にアナウンスが流れた。
彼は背伸びして、ヘッドライトに照らされ迫ってくるバス停をフロントウィンドウ越しに見つめたが、期待に反し、だれも待ってはいなかった。
ドアステップを下りると、ひんやりとした山の空気がからだを包んだ。
人家はまばらだが、さすが終点だけに、小さな待合室が設けられてある。軒下に外灯がともり、小さな虫たちが舞っていた。
降りた乗客たちはすぐに散ってしまい、彼だけが残った。
「来なかったのだろうか」
彼は、ひとりつぶやいた。不吉な想像が頭をよぎり、胃の辺りが重くなった。
待合室はがらんとしていた。壁ぎわに長いすが取り付けられ、三つの数字だけがさびしく並んだ小さな時刻表が張られている。
急用でも出来て遅れているのかもしれないと考え、ここで待つことにした。
小学校前という名前だが、正しくは、元小学校前である。廃校となって久しい。
人も、車もまったく通らない。道の先に転回場所や宿舎があるのだろう、乗ってきたバスの姿も消えていた。一時間あまり待っても、彼女はやはり現れない。
ベンチで寝たらいいと考えていたが、扉はなく寒気が強い。山の気温を計算に入れていなかった。
寒さを紛らわすために、立ち上がって部屋の中を歩き回った。
柱に一輪挿しがほこりをかぶっている。ここに、彼女はバラをさしていたのだろうか。
赤さびたホーロー看板、時期はずれの祭りのポスターが、いかにもさびれた村のバス停を演出していた。
光のはずれたところに、白い小さな案内板が見えた。近寄ると、「温泉旅館、スグソコ」とある。板にペンキで手書きした、質素な広告だった。薄汚れて、矢印が消えかかっている。
こんなわびしいところに大した温泉旅館があるとは思えなかったが、一晩ここで過ごすのは耐えがたい。
彼は歩き出した。
三
しばらく行くと、明かりが見えた。道端に、商人宿風のガラス戸がはまった建物が建っている。
女将らしい中年の女性が出迎えた。他に従業員がいるようには見えず、せいぜい家族か、下働きの者とで切り回しているふうだった。
通された部屋は、こぎれいにまとまっていたが、いわゆる観光地の旅館とは程遠い。
林業の盛んだったころ、行商人らを相手に結構はやっていたこの宿も、最近では物好きな旅行者や、官庁の職員が山林の視察や調査にきたとき利用する程度だという。
農家の副業に旅館を開いているようなものだと、女将は笑った。
温泉とは名ばかり、二、三人入ればいっぱいの小さな風呂場に冷泉を引いて沸かしているだけ。これでは、大看板でデカデカと宣伝するわけにもいくまい。
簡素な食事のあと、散歩がてらバス停まで歩いてみたが、やはり彼女はいなかった。
部屋に戻ると、床がとってあった。流れの音をまくらに眠る。
裏の渓流から河鹿の声が聞こえた。フィフィフィフィという小鳥のような鳴き声が、たまっていたストレスを消し去っていってくれるようだ。夢見心地に、来てよかったと思った。
次の日、もう一日泊まることに決めた。
「さおはある?」
女将に聞いた。
終日、流れに釣り糸を垂れた。渓谷の風が心地よい。鮎は、塩焼きにしてもらった。
終バスを見に行ったが、やはり無駄だった。
次の日も、その次の日も泊まった。彼女のことが気になるのはもちろんだが、静かな山の空気にもっと包まれていたくて、なかなか帰る気が起こらなかった。
六日目になった。もうこれ以上家をあけておくわけにはいかず、午後のバスで発つことにした。
昼食のあと、支払いをすませ、バス停へと向かった。女将はていねいに道路まで出て、見送ってくれた。
バスは、すでに来ていた。乗り込もうとして、何気なく待合室を振り返ったとたん、薄暗い室内に浮かんでいる黄色のバラが目に飛び込んできた。
しまった、と悔やんだ。昨夜は宵の口から飲み始め、つい深酒をした。おかげで最終便を見にいくこともできず、きょうは二日酔いで朝寝してしまった。
彼女は再会できたのだ。恋人は朝の便で下っていったのだろう。胸にあたたかいものが浮かび上がってくるのを感じた。
ステップから足を外し、待合室に戻ってみた。黄色いバラがあまい香りを漂わせている。ほこりで汚れていた一輪挿しのきれいに洗われているのが、女の幸福感をいやがうえにも感じさせた。
彼女と出会えなかったのは残念だったが、二人の幸せそうな情景を思い浮かべることができたのは何よりだった。
もう一度、電話したものかどうか迷っていたところだった。何度もかけてこられたら、あのひとも迷惑だっただろう。
どういう事情か知るよしもないが、もうこれ以上彼女が傷つくことのないようにと心から願った。
エンジン音をうならせながら、バスは走り出した。窓の外を流れ去るバラの軌跡が、いつまでも目に残った。
四
客を見送ったあと玄関先を掃除していた女将の耳に、聞き覚えのあるバイク音がした。
道を見やると、姪が坂道を登ってくる。
「今度のお客さん、五日も泊まってくれたのよ。助かるわぁ。この不景気でしょう。現金収入の少ない時期だから」
近づいてきた娘に、声をかけた。
「なら、よかった」
彼女も、にっこりと笑った。
「じゃあ、これ五日分のお手当て。バラの代金も入ってるわよ」
女将は、白い封筒を手渡した。
「うれしい。ちょうど、お小遣いがなくなりかけていたんだ」
娘はほほ笑んだが、
「でも、ちょっと気がひけるな」
と、うしろめたそうな表情を作った。
「なぜ。別に、あの人は何も損をしたわけじゃないわよ」
女将は、なぐさめるように言った。
「宿泊代分だけサービスは受けたんだし、自然の中でゆったりと都会のストレスを解消したし。ドラマのような美女との出会いを夢見ることが出来て、いうことないじゃないの」
あははは、と大きな声で、娘は笑い出した。
「電話でどうして美女だとわかるのよ。こんな山出し女を」
「いいえ、男ってそんなものなのよ」
女将が、途中でさえぎった。
「頭の中で理想の女性を組み立てて、すてきな出会いを想像する。恋人に捨てられた女なんて、最高のシチュエーションよ。ぼくが彼女の力になってみせる、なんてね」
「そうかなあ」
「満足して帰ったわよ。顔を見ればわかる」
「ホント? ならいいわ」
娘に笑顔が戻った。
「じゃあ、いくわね」
彼女は、グリップを引いてエンジンをふかした。
「気をつけてね。あ、小説の勉強進んでる?」
女将はたずねた。
「うん、絶対に新人賞をとってみせる」
「そう、がんばってね」
バイクはUターンして、もと来た道を戻っていった。
「またお願いねぇー」
女将は叫んだ。
「わかったー」
娘は手を振りながら、緑の中に消えていった。
(了)
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