section2:地獄は続くよどこまでも。等活地獄最前線②
眼前に迫る、空色の壁。
それは火口で見たそりたつ岩壁の比ではなく
まさにこの火山一帯を覆い尽くしていた。
(この中にいる生物は一切外に出さない…ってことかよ!)
狼たちが同族でさえ喰らうことをいとわない理由が
どうしてここまで来た自分を襲わなくなったのか
そのすべての理由が圧倒的なその存在感をもって説明された。
夜の闇が、点々と赤い溶岩を映す中
同じように夜の闇に、空色の壁は仄かに照らされている。
自分に、もう一度これを触る勇気はない。
だが
(諦めるつもりは、ないんだよな。これが)
自分は空想する。
この先に広がる世界を。
きっとこの先は、地獄とは程遠い世界が広がっているだろう。と。
酸っぱいブドウの対義語とも取れるその夢想は
今は自分を突き動かす、原動力となる。
その辺に転がっていた、石ころを口に咥える。
あの狼たちとの死闘の中ですっかり身体機能は取り戻していた。
器用に口と前後の脚を動かす。
鈍剣を構え、石を中に放り投げる。
(行くぜ、ホームラン!)
石ころに対し、鈍剣を振りかぶってぶつける。
気持ちやさしめにぶつけたため、割れることなく猛進する。
眼前にそびえる壁に石ころが直撃する。
直撃した、次の瞬間
自分の頭部の半分が吹き飛ばされた。
しかも、抉れた肉が収集と音を立て水蒸気を発する。
ゆっくりと石化を始める。
(あぁ、くそが!)
地獄は自分を逃すつもりがないらしい。
自分の脳天に、鈍剣を構える。
次に自分を襲ったのは、漆黒の闇だった。
朝日が差す。
無情な夜明けだった。
徹夜明けに無理やり浴びせられたような、しこりのように胃の腑を沈める不快な疲労感とともに意識を取り戻す。
(あぁ、クソが)
空色は、生前好きな色の一つだった。
今この瞬間までは。
露骨な嫌悪感とともに、まじまじとその空色の壁を見やる。
じろじろと眺めても、その色を変えず、そこにあり続ける。
穴一つ見当たらないその壁に
絶望する。
鈍剣を構える。
ありったけの力を、籠めずに。
その壁に押し付ける。
ゆっくりと押し付ける。
ぬるりと壁へと吸い込まれる鈍剣。
壁自体は厚みを持たないらしく、その鈍剣はあっさりとこの壁を貫通し、自分より先に世界に触れる。
だが、それも一瞬。
まるで、歯車のように
引き金を引いた銃のように
後方彼方へ鈍剣がはじき出される。
みれば、壁を通したところから崩壊している。
何の騒ぎかと巨柱を携えた狼が溶岩より現れるが、自体を察したのかすぐに自らを灼熱へと戻す。
(これは…)
一体、なんなんだ?
一難去ってまた一難?ここじゃもう二難くらい降りかかってくる。
自分は、思考を走らせる。
多分ここまで脳を稼働させたことは生前でも数えるほどもないかもしれない。
生きることは、思考することにある。
そうとさえ思えた。
よく上司にどやされたものだ
「頭を使え」と。
お前のその禿げ頭に頭突きをかましてやろうかと内心悪態をつくこともあったが、結局「頭を使う」事をその時ではすでに放棄していた。
何も、考えずに生きていたかったからだ。
今となってはすでに『今は昔』の話であるが。
とぼとぼと、歩く。
空色の壁に沿うように、歩く。
期待はしていないが、それでも何もしないよりはまし
自分に言い訳するために歩いた。
何処かに、抜け穴はないか?
何処かに、薄くなっている場所はないか?
何処かに、打開策たりえる何かはないか?
じっと壁を見続けても、それは変わらずそこにそびえ続けていた。
無慈悲な空色が、そこにあり続けた。
既に、思考は放棄していた。
何も思い浮かばない。
何もできない。
無情な諦観に包まれている自分をあざ笑うように、空色の壁は常に左にあり続ける。
「諦めろ」そういい続けているようにも感じた。
諦めたくない。
でも
石になった後、自分はどうなる?
足の先まで、脳髄のすべてが石になった後自分はどうなってしまう。
この世界に来て、初めて恐怖した。
自分が死ぬ可能性に、恐怖した。
不死身の化け物とは何だったのか。
こんな薄壁一枚超えることもできない、ちっぽけな存在に過ぎないのか。
目の前の、森が
手を伸ばせば届きそうな、世界が
今ではとてつもなく遠くに感じた。
一方、右を見れば火山へ続く岩の獣道のいたるところで赤い双眸がこちらを見やる。
憐れむわけでなく、自らの『王国』を護るべく出動した主たちの警告。
立ち入れば殺すという、純粋な赤い双眸が自分を見やる。
だが幸いなことに、この壁との境界線にいくばくかの空間があり、その中にいる限り外見上は同族たるあの狼たちが襲い掛かってくることはない。
これまでの状況の中で、数少ない安堵を感じる事実であった。
その安堵が心を支配したのか、瞼が重くなる。
身体がふらつく。
まるで一の切れた操り人形のごとく、崩れ落ちる。
意識と体が相反する動きを始めるように感じる。
前に進もうとする体と、
闇へいざなおうと縋る意志。
思えば、朝からずっと歩き続けていた。
夜の闇が、青と赤に染められているのを感じながら
自分は、眠りについた。
この世界に来て、初めて眠りについた。
目を覚ましても、ここが現実だった。
夢幻のように元に戻る元はない。
既に自分を形作っていたものを、自分で手放しておきながら
今更また欲しがるのは、傲慢としか言えないのだろう。
自分は左にそびえるその壁を見た。
ひと眠りしたためか、比較的頭は軽くなっている。
まだじんわりと重いが、それでもこの朝日を浴び続ければいやでもはっきりしてくるだろう。
生前なら、まずやることは洗顔だった。ぬるま湯で顔を洗い、社会人としてとりあえずの清潔感だけは保つようにしていた。
直感が、何かを告げる。
鈍い快楽に浸っていた自分の身体を何かが駆け巡る。答えを求めて駆け巡る。
自分は、周囲を見回し、それを見つける。
一掬いする。
それは、溶岩だった。
壁に向かい、鈍剣の面の部分で叩きだす。
ぼちゃり、と音を立てて溶岩は空色の壁へ突き刺さる。
そして、猛烈な水蒸気を発しただの石となる。
そしてその周辺から凍り、崩壊する。
これほど、憂鬱だった朝のルーティーンをこなしていた過去の自分へ感謝したくなったことはなかった。
こんなことに気が付くのにおおよそ二日駆けた自分の鈍さに、改めて呆れた。
水だ。
これは水だ。
それもかなりの冷度を持つ水。
異世界版、過冷却水の壁だ。
-過冷却水-
自分の生前、銭湯上がりに過冷却されたサイダーを飲んだことがある。
どろりとした氷塊の中で炭酸がはじけ、その甘美な味に驚いた記憶がある。
水は本来、摂氏零度を下回る環境にあると氷に変化する。小学生の理科の授業でも学ぶことだ。
細かいことは覚えていないが、要するに水の中の分子が動きを止めると氷になる…はずだった記憶がある。
だが、水ほど我々に近しくそれでいて奇怪な物質もそうそうない。
興味本位で調べた範囲を自分は必死で思い出そうとする。
たしか、水が氷るための条件において何らかのエネルギー(衝撃)がいる、なのだとか。
そのエネルギーを与えることなくゆっくりと冷やし続けた水分は零下十度を下回っても凍ることがないらしい。
その状態で水分のカタチを保ち続けているものを過冷却水と呼ぶ…とのことだ。
生前インターネットで聞きかじったにしてはまぁまぁ覚えていたものだ。
要するに、この水はとんでもなく冷たい液体で出来ている。
同時に自分の体は致命的なまでに水、とくに冷水が弱点である。
ここまではほぼ確証出来る仮定である。
だが、それでは腑に落ちないこともある。
火山の内側から受けた刺激に対し弾き返すようなあの動きへの説明が出来ないこと
過冷却水であるのなら石を投げこんだり鈍剣を差し込んだ地点で、氷になるときに発生しうるエネルギーによって壁のすべてが凍り付くではないかという疑問。
これに対する答えは出ていない。
なのでこの水を「異世界版過冷却水」と呼ぶわけだ。
また、それがわかった所でここからの脱出につながる何のとっかかりにはなりえない事もまた事実であった。
あくまでパズルのピースのうち、幾つかが正しく当てはまっただけの状態。
一つの絵になるにはまだ、考えることが多いようだ。
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何度か死にかけたものの、挑戦は終わらない。
ゆっくり鈍剣を差し込んだ際、貫通していたように見えたそれは実は貫通しておらず膜のように鈍剣を覆い、こちら側へ弾き飛ばしたことが分かった。
そのことを理解するために、三度鈍剣を壁に突き刺し。
もう一度頭を丸ごと自分で潰す羽目になった。
石を打ち込んでも見たが、同じように石そのものを護るように打ち込めば容易く弾き返される。
全力を持って打ち込むには、ここの石ころたちは脆すぎる。
だが、一つ理解するたび
一つづつ、探るたびに
自分は、うれしくなった。
この際、人型でなくてもいい。
自分のような、異形の化け物であった場合は少し戸惑うが、それでもその存在を思わずにはいられなかった。
知的生命体の存在を
ここにもいるのだと
獣の世界ではなく、自我と知識を持つ生物の存在を。
信じられるようになった。
もし、そのようなものたちと相まみえることがあれば
(なんでもいい、話をしたい)
この世界についてでもいい
自分の滑稽な身の上話でもいい。
なんでもいい、コミュニケーションをとりたかった。
慟哭と悲鳴、獣の咆哮
火山からあふれる溶岩が奏でる煮沸音。
時折吹き込む風の音。
会話という複雑な音を、聞きたかった。
魂が、他人を欲していた。
だからこそ、挑み続けることができた。
自分は最終手段に出ることにした。
その身より再度、鈍剣を生み出す。
今の自分では一度に生み出せるのは二振りまで。
精度を保つ意味では一振りがせいぜいである。
そんな鈍剣を構える。
一つを、槍のように横に構え
一つを、振り上げるように構える。
この鈍剣の衝撃、そしてその威力。
その一撃に耐えられうる代物。
自分が持つものの中では、これが最も最適解であった。
イメージする。
うねる溶岩の対流。
ぶつかる衝撃で大地を突き上げるその力。
流れを籠める。
十分に込めた
振り上げた刃が、横に構えた鈍剣をしたたかに打ち据える。
鐘を撃つような鈍い金属音とともに、鈍剣が弾きだされる。
眼前に白い円を生み出し跳ぶ鈍剣は
空色の壁へと突き刺さる!
鈍剣は瞬く間に凍り、威力を失っていく。
良く伸びるゴムのような壁が、役目を果たさんとする。
だがそれでも
質量×速度が生み出す暴力を止めることは
その壁にはできなかった。
急速に、水壁は凍り始める。
少しづつ氷結していく。
過冷却のサイダーをまじまじと見た時のような
ゆっくりと固まっていく様子を見た。
そして、勝利の音が鳴る。
氷が玉砕する音が響く。
道が、拓けたのだ。
「や…やった!」
自らが穿ち、開けた穴を前に歓喜の声を上げる。
「やったぞ!やったんだ!」
喜んだ。この世界に来て純粋に喜んだのはこれが初めて出会った。
だが
周囲に地鳴りが響く。
「な、なんだ…」
自分は周囲を見やる。
そして、気が付く。
この壁は、誰も外に出さないようにする作用を持っていた。
魔法的にいうのなら、いわば障壁だ。結界とも言い換えられる。
この中に潜む灼岩の不死狼たちを外に出すまいとした知的生命体による産物だ。
そいつが賢いのなら、自分のような安直な愚者でなければ
用意しているはずだ。
大地が裂け、それは姿を現す。
土にまみれたその姿
ボロボロと土砂をまき散らし現れたそれは
保険を。
もしもへの備えを。
「それ」は咆哮を上げる。
この世界に来て初めて見た金属の質感。
無機質に光る瞳が、自分を捉える。
「それ」は自分の世界でいうのなら、たとえるのなら
自律兵器
明らかの自然のそれとは相反する。
金属の巨人がその姿を現す!
役目を果たすために。
「それ」が水壁の内側へと至る。
瞬間。凍っていた水が溶け始める。
固体が液体に変質し、再びの水壁となる。
自分は、震えている。
「それ」の発する咆哮の振動で
純粋な恐怖で。
だが
自分は再び鈍剣を構えなおす。
その顔にもう恐怖はない。
必死に歯を食いしばり、恐怖に抗う。
(俺は…もう決めたんだろ)
生き抗うと
死に腐れるまで
ここじゃないと
死に場所を世界に求めた。
(…だから!)
今一度、見据える。
「それ」を
背後に広がる世界を
真に求める死に場所を
(俺の死は…お前じゃねぇ!)
孤狼は咆哮を上げた!