section1:神世界⑥
しん、と静かな夜闇が世界を包み込むなか、自分はそこにいた。
静かに、男を見ていた。
男は静かに寝息を立てている。身体を食いつぶさんとしていた蛆たちもいなくなり
苦痛に悶えることも、もうないらしい。
自分はゆっくりとその様子を見ている。
夜は、ゆっくりと過ぎていた。
男が目を覚ましたとき、すっかり世界は朝日を迎えていた。
ぱちりと開いたスカイブルーの双眸はまだまどろみの中で濁りを帯びている。
自分はその様子を確認すると、ゆっくりと体を起こし声をかける。
「気が付いたかい?」
男は反応し、きょろきょろと周囲をうかがう。
そして、自分と目が逢う。
その反応は、強烈だった。
まるで忍者のような軽い身のこなしでバク転を決めると自分に対し拳を構える。
その顔は引きつり、こちらを万全の態勢で警戒している様子であった。
わかり切っていたものの、さすがにこの反応は来るものがある。
言語が通じない以前に喋る狼を前にして平然としていろ、というほうが度台無理な話ではあるのだろうが。
だが、その様子を見て自分は安心した。
「元気そうだな、良かった」
めげずに声をかけてみる。相手からすれば穏やかになく狼と対面する程度にまで警戒心をといてくれればよいのだが、男の変わらぬ顔面を見るに期待は薄そうだ。
自分はがっくりと肩を落とす。まぁ狼なのでうなだれるようにしてため息をつくのだが。
そうしているうちに、自分は男へ背を向け歩き始める。
会話も通じない、意思疎通以前に相手側から完全に拒絶されている以上この行為に意味を感じなくなっていた自分は敵意がないことを示すと同時に諦観の意を込めて
無視することにした。
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男は、混乱していた。
あの夜、自分たちはそれこそ今目の前にいる怪物へ対応するため夜回りをしていた最中であった。
親友2名に誘われる形で参加した男たちは、果実をいくつかとったのちに野営の準備をしていたところである。
男はもう少し周囲を見回るため先に親友2人をおいて周囲を散策したのちに再び戻ってきたのだ。
親友たちはすでに果実を幾つか食べ終え、地面に皮が転がっている。
そうして自分もその果実を口に入れたときだ。
喉を通ったのち、その違和感を覚えた。
その違和感は激痛となって男を襲い、悶える男の傍で親友たちが
怪物へと変わっていくのを目の当たりにしたのだ。
肉が裂け、そこから這い出た触手に体を覆い尽くされていく親友たちを見て男は恐怖した。
そして転げまわるように、その場から逃げ出したのだった。
それを思い出した男は、今自分の体はどこも痛みを感じていない事に気が付いた。
そのことを自覚した男が周囲を見回しても、あの黒い怪物の姿はどこにも見当たらなかったのだった。
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自分は、ゆっくりとあの場所を目指し、歩いていた。
選択した。
自分は選択した。
一度は捨てたその選択を、拾い上げた。
周囲が湿気を放つ。
まるで血なまぐさいサウナに入っていくように、自分は再びこの霧の世界へ足を踏み入れるのだった。
相変わらず、なにを考えているのかわからない「運び屋」達はこちらを襲う気配もなく
空腹のものは霧から出ていき
腹を満たして、霧へ舞い戻ってくる。
その腹に、醜悪な御馳走を携えて。
自分はそれを見た。
あの時、あの夜に男達が成ったあれを見た。
全身を蠢く触手。
ぬらぬらと溶液にまみれたその体躯。
イソギンチャクのように、顔面から肉の花を咲かせたその怪物たちが
自分の方へとやってきていた。
「やっぱり、ダメか」
あの日、あの夜。
自分は殺した。
あれらになった男達を殺した。
あれらにとって、それを成す存在を「無視」はできないだろう。
自分たちの生活圏に殺人鬼がいて、無関心でいる人間なんていないように。
既に自分は、あれらにとって「殺人鬼」であった。
なら、そうなるのだ。
その腕を這う触手が形を変えていく。
ぬらぬらと、肉が収縮を繰り返し、凝固していく。
その両腕に肉の刃物が形成されたとき。
自分は、鈍剣を抜く。
一振りの鈍剣が深紅に染まる。
周囲の大地と大気を焼く。自分の魂の熱が
鈍剣に注がれていく。
あれらが駆ける。
速い。速い。
ウサギのように足の触手をバネのようにしならせ
汚泥を何するものかと、跳来する。
その湿った一撃を自分は受ける。
自分の体毛を皮膚を。
肉を突き刺し、臓物までその刃が届く。
皮膚が、肉が熱い。
映画で見たように、強酸に触れた人間の皮膚が焼けるように。
自分の体が焼かれていく。
強烈な酸の臭い。
蠢くあれらがそのまま自分に齧りつく。
啜るように、自分の肉を喰らい始める。
そして、自分は
「なるほどな」
とだけ呟く。
流れを、イメージする。
それは火
熱を放つそのエネルギー。
それは、蛇。
大地をうねるように這う、その動き
それをイメージする。
あれらが自分の肉を削ぎ、啜り、喰らう。
その身に蛇が巻き付いているのも知らずに
炎の蛇があれらを焼く。
炭化の工程を跳躍し、灰燼と変える。
自分の熱を感じる。
轟々と燃え滾る、そのエネルギーを感じる。
迫るあれら。
対峙する自分。
だが、だが。
自分が本当に対峙するのは、あれらではない。
流れをイメージする。
足元から、大地へ
蛇が這う。
無数に、四方八方に。
深く、深く。
蛆の放つわずかな熱を、蛇が追う。
あれらが再び、自分へと迫る。
両腕を自分の腹へと突き刺し
目玉を啜り
骨を砕かんと一撃を加える。
あぁ、痛い。
痛くないわけなどない。
酸が体中を焼き溶かし
骨を砕かれ、肉をそぎ落とされる
目玉を直接啜られる。
痛い、痛い、痛い。
思わず、食いしばる。
痛くないわけなどない。
この地獄のような苦痛の中でも、自分はイメージし続ける。
大地の深く、奥の奥。
蛆の熱を感じるその奥まで。
あれらの重みに四肢が堪えかね、その身が崩れる。
瞳が啜られ、空洞になった肉の中で腐泥が注ぎ込まれていく。
生ぬるい水が眼の奥へ満たされていく不快感。
それでも、自分はイメージする。
苦痛と、焦燥のノイズが削られていく命を感じさせる。
だが
それでも
それでもと
自分を止めることはできない。
その冷たさを自分が感じた。
届いた。
蛆のいない、その先へ。
未だ腐っていない、大地を
彼らにとっての未開拓領域まで、蛇が届いた!
自分は鈍剣を構える。
その刃のない切っ先を下に構える。
その熱は、鈍剣そのものを崩壊させる、その分水嶺
あとほんの一滴、水が滴るだけでも溢れるような表面張力ギリギリまで熱を込めた鈍剣を構える。
その下にあるのは、自分。
いままさに、あれらによって骨肉を貪られ続ける、自分へとむけられている。
限界まで、耐えた。
際限のない、苦痛の中
暗中を模索し続けた。
終わりがないと思えたその苦痛。
それを、終わらせる。
自分は思わず、食いしばっていた口が緩む。
緩んで、笑った。
自分めがけ、万感の一撃を振り落とす。
天より降る隕石のように
あれらと、その奥で貪られ続けた自分事
その鈍剣が大地へ貫通していく。
自分が見た光景が赤く、赤く染まっていく。
蛇が導火線のように、鈍剣の爆発を伝播させ、炸裂していく。
大地が、赤く染まっていく。
急速に
苛烈に
この地獄を火で包む。
自分がこの目で見た、あの地獄の火を
あれらが知らないであろう、本当の地獄を
大地が震える。
その熱と、衝撃に。
苦痛に悶えるように震える。
枯れ木が消滅し
泥は溶岩となる。
赤々と大地が染まる。
この世界が、出血をしたかのように
赤い大地の中、蠢くあれらだったもの。
周囲ことごとくに沈められた、かつてあれらだったモノの中
ゆっくりと起き上がるものがいる。
それは、顔の半分が骨まで見えているほどに食いつぶされた、赫い狼。
瞳の奥を白く輝かせ、紅蓮の体毛を迸らせる。
その瞳から、白い涙が、灼熱の涙が流れている。
-スイタ―
-オナカガ、スイター
幼子の声がした。
いくつもの、声がした。
-イタイ、クルシイ-
-オナカガ、スイタ-
-クライ、クライ-
-オナカガ、スイタ-
「……」
その声の意味することは解る。
あれらはただ、空腹を満たしたかっただけなのだ。
-アツイ、アツイ-
-クルシイ―
-タスケテ-
-タスケテ-
-タスケテ-
その声は、木霊し続けた。
涙の代わりに、灼熱を流す自分の中で木霊し続けたのだった。
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男は、その光景を遠くから見ていた。
あの化物を追いかけてあのおぞましい霧の奥へと入っていくところまでは見た。
やはり、あいつは…
そう考え、集落へ戻る最中。男は感じたことのない衝撃と「それ」によって思いきり吹き飛ばされた。そしてそのまま、集落を囲っていた柵へ思いきりぶつかってしまう。
身体へ迸るその感覚を男は感じたことなどなかった。
その視界を覆うあの色を、あの霧に包まれた大地を今や覆い尽くすその色を、男は見たことがなかった。
息が、できない。
体中から何かが迸る。
渇く、渇く。
身体からあふれるその水を、男が拭ったとき
眼前に広がる光景を信じることができなかった。
まるで、自分が知らない世界へと繋がったかのようだった。
見たことも、聞いたことも、感じたこともない世界。
木々が、大地が、水が全てその色へと染まっていく。
集落のほんの手前まで迫るその色
風を感じる。感じたこともない感覚を与えてくる。初めて浴びる風だ。
男は、ただただ恐れた。
あの化物の、底知れなさと、異物感に恐れをなした。
男は、「火」を知らなかったのだ。
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爛々とした灼熱を自らに集める。
骨を拾う、という言葉があるが今の自分の場合この熱こそそれにあたる。
あれらによってそぎ落とされ、折られた骨肉を蘇生していく。
禁足地より以降、死線を潜り抜けた自分の再生力は目覚ましいほどであった。
今では少しの冷感程度であれば腹に溶岩を溜めることなく過ごすことはできる。
真冬の中全裸で過ごすような寒さを感じる事が嫌でなければ、であるが。
あれらも、蛆も運び屋もそのほとんどが消滅しているだろう。
あとはこの焼き払った大地の奥で再び同じようなことを繰り返し…
まぁ、あの美しい木々事焼き払う必要も出てくるかもしれないが。世界平和のためだ。
なんて考えていた時、自分はあの男を見た。
豆粒のように小さいが、よぅく目を凝らすと確かにあの時の男のようなものを見た。
まさか、集落ギリギリまで焼く必要があるとは…あの時逃げてしまった自分の選択を取り戻すのにもう幾何の時間がかかってしまっていれば。
そう思わずにはいられなかった。
熱エネルギーの流れを上と下に集中させることで集落へは文字通りの「余波」となった強風が吹いたであろうが、大丈夫だろうか。
「というか、ここからあの男が見えるって、さ」
割と位置関係的には近い場所にあったのだろうか。
何はともあれ、自分にはもう関係のないことだ。
「とにかく、あとは周囲の捜索を…」
そう考えた自分の体毛を風がくすぐった。
後ろから前へ、柔らかく吹いた風。
思わず、そちらへと振りむいた。
日差しが差し込む中、それは自分に対して影を作るように立っていた。
男が、立っていた。
さっきまで、あそこでほとんど点にしか見えないほどの距離にいたはずの、男。
「‥‥‥‥へ?」
自分が素っ頓狂な声を上げるときには、男の腕が自分の首をしたたかに打ち据えていた。
その腕に、青色の光が放たれていた。
身体から急速に熱が奪われていく感覚に襲われたのと同時に自分は、自分の胴体を見ていた。
そして男に乱暴に体毛を捕まれた。
その首が石化していくのを感じながら自分はただ茫然とするしかなかった。
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そののち、男に壺のようなものに突っ込まれ何処かへと運ばれて来たわけである。
当たり前だが、壺の中であるため周囲の光景は見えない。
そんな中、壺の蓋が開けられた。
差し込む日差しの中で、その柔らかな頬とまんまるの綺麗な瞳を持つ、黒に近い灰色の肌の子供がこちらを見ていた。
「‥‥‥‥どうも」
そう声を発した瞬間。自分は宙を舞った。
首が一瞬だが空を飛んでいた。
驚愕の表情をしたその子供に壺ごと投げ飛ばされたのだ。
そうして、今自分は首だけとなってここにいるわけだ。
そうして、これまでの経緯を振り返ったわけなのだが。
「なんの打開策にもなんねぇじゃねえかあああぁぁぁぁぁぁ!?あの恩知らずがぁぁ!」
首が元気に喚き散らしながらごろごろと転がり回る光景をみれば大抵の人間は恐怖に慄くだろうが
今の自分にはそんなことを気にかけることもなく誰に対しするものでもなく当たり下すことしかできなかったのだ。
本当に、この世界に来て自分は
地獄を歩いているような気分だ。
本当に、碌でもない世界にいるのだと再認識するのだった。




