section1:神世界⑤
自分は、数歩後ずさった。
その光景を、見たから。
その食性を、知ったから。
この体は、恐怖に慄くことはない。
息も上がらない。
身体が嘶くこともない。
本来であれば、その灼熱の冷血が恐怖を知ることはない。
だが、自分はそうもいかない。
人間の魂だから。
創造力を持つゆえに。
それを、考えてしまう。
身体はそのままに、魂が震えていた。
恐怖に、震えていた。
ゼウスは、こんなものを相手にしろとでもいうのか?
自分が触りたくないほどのおぞましいものを殺すために?
そう考えたくなった。
そうとした考えたくなかった。
だが、それは自己のうちで否定される。
あの喧嘩の中で、ゼウスはこう言っていた。
「出来るのなら、自分でやっている」と。
それがあの時出てきただけのでまかせであれば、ある意味で納得だ。
だが、自分はあれが「嘘」とはどうしても思えなかった。
それこそ、怒りに任せて「童貞」などとこちらを怒らせるような罵倒をぶつけるだろうか?
嘘に対して、あの神はそこまで怒りを「偽ることができる」のか?
そこが自分の中で引っかかっている。
これが、神や英雄でさえ対処できない理由
それが解らなかった。
そして、自分はそれを聞いた。
聞いてしまった。
濃い霧の奥から、何かが這いずるような音がする。
ずる、ずる。
ぞり、ぞり。
巨大な何かが、自身を引きづるような鈍重な音を聞いた。
大地を抉りながら迫る、音を聞いた。
そして、自分はそれを見た。
見てしまった。
霧の奥、それが姿を現す。
それを見た自分は、その光景に思わず戦慄した。
そしてそのまま、踵を返してその場を後にする。
あれを、どう相手にしろというのか?
根源的恐怖がそのまま形になったかのようなあれを、どうすればいいのだと。
それは、手であった。
幾百の、腕であった。
それの先に、手がついていた。
赤黒く、そして湿っている。
それは、蛇のようにその体をくねらせ、あの合挽き肉へとやってきた。
食事をするために。
それぞれの手のひらには、口がついている。一つの目がついている。
まるで食事という行為の最小を突き詰めたかのような形をしていた。
手のひらで肉を掴み、そのまま喰らい、飲み込む。
自分は逃げた。
背後で、肉を貪る音を聞いた。
肉を、
肉を、
そのわずかな命の脈動を感じる肉を
啜る様に喰う手のひらの怪物から
自分は、逃げたのだった。
霧の中を、自分は駆けた。
その心は、余りの出来事に恐怖で塗りつぶされていた。
あの時、あの禁足地で出会ったどの化物たちよりも、それは醜悪で
人間の心をそれこそ喰いつくさんとする狂気が、あそこにあった。
しばらく自分は走り続けた。
そうして、霧の中で立ち止まる。
目の前には、森が見える。
自分は、わが身を焼く。
身体の底から湧き上がる冷気を消すように
恐怖を、紛らわせるように。
炎に包まれた自分の周囲の大地と蛆を焼く。
そうして、自分は逃げた。
逃げる、選択をしたのだった。
深い森はその運命をも受け入れたかのように、静かな夜を迎えていた。
その中で、自分はあの光景を見ていた。
忘れようと努める度、それを自分の脳はまるでスクリーンに映された映画のように自分へ見せ続けた。
手のひらにある、円柱状の口腔が伸びて、肉を喰らうあの様を
肉を掴んで離さない、その指の間から
女が食われる光景を、脳がフラッシュバックし続ける。
その光景が、あの赤と黄色のように自分の脳すらも塗りたくっているかのように
鮮明な記憶となって、自分はその光景を見ていた。
もしかせずとも、あれを焼くことが
自分がゼウスより課された仕事なのだろう。
なれば、どうして人の心なぞ宿したんだ。
そう悪態をつく。
ただの獣であれば、命じられるままに従う獣であれば
あの火山にいた、狼のようであれば
迷いはしなかったろう。
逃げたりしなかっただろう。
それで、よかったのではなかろうか。
そう思えて仕方ない。
その夜は、とてもではないが眠れる気がしなかった。
自分は、ふらふらと森の中を歩いていた。
まるで亡者のように歩いていた。
心が、冷えていくのが感じる。
どうして、と何度も考える。
あの火山で、狼たちから逃げるときのように
青銅の巨人を打倒した時のように
クラゲから一晩中逃げ続けた時のように
あの怪獣を前に、最後まであきらめなかった時のような
必死さが、まるで出てこない。
何とかしなければという意志がわいてこないのだ。
それは多分。自分には何の影響もない。と考えているからだ。
あの時、あの「運び屋」に意にも介されなかったように
蛆に関しても、何の問題もなかったように。
あの腐泥に包まれた空間では、水の冷たさに怯える必要がなかったゆえに。
自分への脅威度が、まるでなかった事であろうか?
これでは、まるで。
(まるで、自分みたいだ)
現世でも、自分はそういう存在だった。
自分以外の他人は総じて「それぞれの世界」の中で生きている。
交流とは、コミュニケーションとは、相互理解を円滑にするツールであるという。
それはつまり、「それぞれの世界」を上手に繋げることでそれぞれの世界が軋轢を生まないようにするためのツール。とも考えられる。
自分はそれが苦手だった。
「自分の世界」は他の人の世界に比べ、少々独特であったゆえだろうか。
「他人の世界」に興味を引かなかったためだろうか。
なんにせよ、自分は軋轢を生んでしまった。そのせいで、不利益を被る事が多かった。
苛めも受けた。
いろいろな仕事も押し付けられた。
成果を奪われたりもした。
そんな中で、自分の世界は
徐々に、他人の世界への相互理解をしなくなっていった。
流されるままに、流される。
そんな「自分の世界」を護るために、より受動的な感覚になっていった。
その感覚が
自分の世界が
あの光景を前に、逃走を選択させたのだろうか。
自分には、関係のないことだろうから。
困るのは、他人とあのクソジジイだろうから。
自分は、英雄にはなれない。
ただ、不死身の怪物であるだけの…人間である。
他者への理解を喪失している現代人なのである。
(自分は、自分は…)
なんて、醜いのだろうか。
そう、想わずにはいられなかった。
ふらふらと、歩く。
生気のない足取りで、歩く。
ふと、目の前の木が目に映る。
あのオレンジもどきが成っている、あの木だ。
(そういえば、また数日くらいなにも食っていなかったっけか)
死んでいるためか、あのような光景を見たためか
まるで食欲がわかない。
死んでいるために、これ以上死なないのは肉体だけで
心は、死にかけていた。
オレンジもどきを見るまで、食欲のことすら完全に忘れ去っていたのだ。
鈍剣で、オレンジもどきを突き落とす。
コロコロと、足元へ転がる。
そして、それと目が合った。
オレンジもどきに穴が開いていた。
小さな穴だった。
そのから這い出た蛆が、こちらを見ていたのだ。
「…ヒッ」
上ずった声で、そのオレンジを蹴り飛ばす。
息は荒げない。
ただ、この体から急速に熱が奪われているような錯覚を覚える。
意を決し、再びオレンジへと近づく。
幻覚ではない。
そのオレンジの中を、風呂を浴びるように蛆が躍っている。
貪り、腐らせていく。
既に、ここまで浸蝕が進んでいる。
つまり…
頭の奥、その奥の奥
そこが、まるで氷に漬けられたかのように
冷えていくのを感じた。
あの女性も
あの男達も
ともすれば、あの集落も
既に…
刹那、闇夜に響く。
それを聞いた、自分は思わず駆けている。
この予感だけは、当たってくれるな。と祈るように
自分は、悲鳴の聞こえたほうへ駆け抜けた!
そこに、広がっていたのはまさに自分が予感したことでった。
呻く男。
身体を掻きむしり、その場で身じろぎ、狂うように暴れていた。
自分が近づいてなお、気が付くことなく。
男は何かに抗っていた。
自分は、周囲にそれがないかを探した。
それを見つけてしまう。
一口齧られたオレンジもどき。
そのうちで蠢く、小さな蛆を。
(…馬鹿野郎!この、馬鹿野郎が!)
自分は男の元へと戻る。
呻き、暴れ、苦しむ男。
みればあの時の、男の一人だった。
自分の頭上に丸太の墓標をおっ立てたあの男達のうちの一人であった。
助ける、理由なんてない。
だがこの時の自分はそんなことは構わなかった。
魂が、熱を帯びていくのを感じていた。
どうすれば、いい。
どうすれば、何をすればいい。
どうすれば、いいんだ。
自分は男をみながら、必死に考える。
泡を吹き、苦しむ男。
その口腔より、蛆が泡とともに溢れだす。
もう、時間はない。
自分は、鈍剣を生み出す。
それを、男へ向ける。
せめて、このまま苦しむことなく…
だが、その流れを生み出せない。
出来ない。
出来ない。
出来るわけがない。
やれる、訳がない!
その刹那
本当に、その刹那。
魂が、熱を帯び
その熱が、自分の脳を温めていく。
あるひらめきが
電気信号となり、全身へある命令を送る。
自分は、男の首元へ思いきりかぶりついた!
男は驚愕の表情とともに、それを引き剥がそうともがく。
殴られ、
暴れられ
その逞しい指が自分の目を潰しても
構わない。
構うもんか。
これはきっと、自分の選択の結果。
あの時、逃げた自分の選択の結果だ。
それを罰する痛みなのなら
罪を雪ぐための、痛みなら。
今の自分には、その痛みこそ必要なのだ!
己を鞭うつ、罰の痛みが必要なのだ!
自分は、流れを「感じる」
全身で
その魂で
流れを感じる。
自分の体毛へもぐりこみ、そうするために蛆が表皮を破った際
自分はそれを焼いた。
焼くことができた。
その時の、熱を覚えている。
蛆のわずかな熱を、覚えている。
この男の体はひどく冷たい。
まるで氷のような男だ。
だが、それだからこそ
この男の体で蠢き
肉を喰らい、卵を産み付ける
その装置の熱を知る。
僅か、本当に僅か
男に潰された、その瞳より
溢れた血を、操る。
血を口の中へ
歯の奥から
男の血の中へ
急げ
急げ
止まるな
止めるな
その血は
蛆を貫く、針となった。
微細な、針となった。
あの時、リンゴやオレンジを焼いたあの火
あの火のように、針を極小化し、蛆の体内に打ち込んだ。
そして、鈍剣を爆ぜさせたあの時のように
蛆の内より、それは破裂した。
卵にも刺さった針も
そのことごとくが、男を蝕む毒を焼き払う。
そのたびに、男は跳ねる。
痛みに震える。
そうして、全ての蛆と卵を焼き切ったのち
自分は喉を嚙むのをやめた。
男はその場に崩れ落ち気を失っている。
(こんな夜中に、明かりもなしに何をやってるんだこいつは)
そう思ったが、そんなことはどうでもいい。
自分はそれを見ながら、そう思う。
口から、無数のそれを生やした男が
…男であったものがやってくる。
体中を、ぬめりとした触手に覆われている。
それらが重なり、一つの肉体を形成していた。
男を、形成していた。
こうなってしまっては、もう間に合わないだろう。
それが、2人。
あの時、自分へ丸太を撃ち付け続けた男。
その男を夜の訪れとともに止めせさせた男。
それぞれが、肉体を蛆とその卵によって変質されていた。
怪物に、なっていた。
こうやって、あいつらは勢力を広げるのか。
大地を掘り進め、その下より様々な動植物へ卵を生み出すあの蛆。
蛆の産む卵が生み出した蛆が、その肉を喰らい、さらに卵を産み
そうして、あれを生み出す。
あれは、運び屋とも異なる。
蟻で例えるなら
運び屋を「働きアリ」とするのなら
こいつらは「軍隊アリ」
彼らの内より、彼らを滅ぼす怪物。
その死体はいずれ蛆たちの温床となり、新たな「開拓拠点」となる。
その拠点より放たれる、蛆と胞子が世界を蝕むカビを生み出す。
蛆とカビによる「世界の開拓」。
長期的な視点で見た時、これほど効率化された侵略行為はそうそうみられない。
そういう、怪物たちである。
そうさせないためには…
「…そうさせないために、自分が必要。ってわけか」
やっとわかった。この世界にはびこるカビの「システム」。
火がいる理由。
自分は、魂が熱を帯びていくのを感じた。
鈍剣が赤く、赤く森を照らす。
赤熱化した鈍剣が、空気を熱していく。
他人なんて、どうでもいい
これは変わりない。
でも、ダメなのだ。
そう自分に言い続けても、ダメなのだ。
人にミスを押し付けたこともある。
だが、それらの人間たちのミスを知られることなく修整し続けてもいた。
成果を奪われた際も、言い出さなかった。
怖かったからとか、上司だからとかではなく
「それでもいいか」と思えたから。
苛められている時でさえ、それが自分であるうちは構わなかった。
ダメなんだ。
自分は、自分をどこまでも愛せることができない。
死を直感させるほどの「地獄」でなければ、食欲や睡眠欲などの生きるための欲望でなければ自分を自分で突き動かすことはできない。
それの癖に、どこまでも他人の世界が発するその声に、抗えないのだ。
「助けて」って声に、抗えないのだ。
自分は、英雄じゃない。
高潔さはどこにもない。
謙虚でもないし、誠実な部類でもない。
博識なんて、自分の反対を意味する言葉でさえ思える。
だが、自分は
「兵隊アリ」を焼く。
その鈍剣で焼切る。
炎に包まれ、蠢くことなく
赤く光を発し、炭を経ることなく
即座に灰となり、消滅させる。
その瞳は蘇生している。
だが、その瞳には、未だ赤く血が流れていた。
魂が、熱を帯びる。
それでも、自分の限界を知った。
救えない、命があった。
選択を、誤ったと思った。
「……すまない」
赤い涙を流しながら自分はその灰に向かって言葉を発する。
自分は、英雄なんかにはなれない。
自分は、どこまでも「他人のためにしか何かを成せない」
自分の命は大事だ。だがそれ以上に、「誰か」のために何かをしてしまうのだ。
少なくとも、過去の自分は飢えていたのだ。
居場所を
いてもいい理由を。
何より、「ありがとう」というときの笑顔が見たいから。
自分は、本当にどうしようもないお人好しなのだから。




