8 太陽と月
「人ってさ、死ぬのが早いか遅いかはあるよね」
トモヤは普段より少し、軽く話した。サトルに真意を気付かれるのが、面倒だったからだ。サトルは知ってか知らずか、わりと、快活に「問」に応えた。
「うん!やっぱりさ、人間、人からどう見られるか、よりも、どう生きる、か、、そういうところだよね!」
クラスメイトのトモヤは深く頷いた。
「そうなんだよ……、お○○○は侮れないよ!だからさ、サトル……、お前も好きな人がいるなら、たまには、しっかり瞳を見ながら、伝えないと」
サトルは、このようなトモヤとの電車での会話した夜、過去にこんなものを書いていたのを思い出した。それから、サトルは、トモヤの箇条書きのような信念に感謝した。
[太陽と月と]
1
太陽のように自ら燃え続け、生命を包み込む熱と光の運動を産出し、披瀝し、全開に輝かせ、全身全霊で何かを素直に愛していく働きかけと、月のように、自らは輝かずに、無化し、媒体となり、ただ「他」からの光を受けとり続け、何かに素直に愛されていく働きかけによって、世界を照らしていく営み、これらの双方の光の性質やエッセンスを人が、取り戻していったときに、人に宿る総合性の一部が回復してくるように、わたしは感じる。どちらかだけでは、まだ、途上であり、双方の感受性を育てていくことが肝要であるように、わたしは思う。双方があって、ひとつ。またこの陰陽の関係性には、何事にも当てはめることができる。表と裏、男性と女性、火と水、胎蔵界と金剛界、この世とあの世などなど。
この総合性とは、世界のありとあらゆる中心や千仞、末端、根底や根源の最浅から最深まで流れ、浸透し、泉のように湧いている、とある生命や性質の営みではないだろうか。つまり、この世界の全てにはこの総合の素粒子が、必ず、宿っているのでは、ないだろうか。
このとある生命や性質の営みの可能性、総合性やその素粒子を、たとえば「アミュー」と名付けてみる(ここでは、アミューとするが、アミューと言っても、言わなくても、良い。元々名前すら確定的ではない、流動的かつ、不動で普遍な存在や営みである為、それぞれの捉え方や発音で、わたしは構わない立場にいる。それぞれの立場や状況、感性や風土に合わせれば良い。したがって、現時点でのわたしは、アミューとしているが、10年先、否、明日さえも、わたしでさえ、アミューとしていないかも知れない)。
この全てを貫き、通じている力や法則である「アミュー」に気が付いたときに、人は、神様の片鱗に触れ、その鼓動を聴きはじめることが可能となると、わたしは思えてならない。
この世界の全てには、この総合の素粒子であるアミューが宿っている為、神様のなかにも、人間のなかにも、自然のなかにも、動物のなかにも、万物のなかにも、銀河の果てにも、存在している。このアミューによって、繋がり、刺激し合い、ホロニックな関係性によって、連動、共震し、現実や出来事が弾き出され、創造されているように、わたしは思う。それぞれのアミューから萌芽していく生命体には、違う働きかけや輪郭や個性を持っているが、根幹や根っ子には、この天衣無縫なる、ひとつなぎのアミューが躍動している。
2
それにしても、不思議だとは、思いませんか?太陽と月は、あんなにも性質やスケールが違うのにも関わらず、地球の地上から見れば、日食が起きてしまうほど、ロマンチックに重なり合い、ひとつになってしまうのですから。中二病だと思われても、メルヒェン野郎だと思われても、そんなことは、どうだって良いくらい、世界はひとつであり、神様からの親愛なるプレゼントを授かっているように、わたしは、感じざるを得ないのです。この感動と胸の高鳴りは、どうしようもないくらい、わたしのなかでは、スゥハースゥハーと呼吸をしているのであります。
3
太陽さんや月さんは、いつも、わたしたちを照らしてくれています。たとえ雲さんによって、さえぎられたとしても、太陽さんが昇れば、明るくなり、朝を迎えられ、必ず、昼はやってきます。それと雲さんの上では、太陽さんも月さんも輝き続けてらっしゃいます(雲さんも、たおやかです)。それから太陽さんが今度は地球さんの反対側を照らす為に、月さんがバトンタッチをしてくれて、太陽さんのかわりに、わたしたちの休暇や眠りを、あたたかく、やさしく、見守ってくれているのです。
どっちの方が、どうだとかって、よく言われているようですが、それは、わたしからしましたら、大きな検討違いをしてしまっているように、思うのです。それでは早合点です。たとえば、夫婦ということでしたら、どちらかが、優れていて、どちらかが劣っている、なんてことは、あるのでしょうか。それぞれが、それぞれのかけがえのない大事な役割や愛を担っているではないですか。夫婦仲を良くすれば、家庭が天国になり、世界が平和になっていくものです。夫婦が二人で一人であるのと、同じように、太陽さんと月さんも、おふたつさんで、ひとつであると、わたしは、思います。
また、すでにこの世界に昔から臨在されている太陽さんと月さんを、敬うべきです。どちらかが欠けていたとしましたら、わたしたちは、何も生きていけないのですし、バランスさえ見失います。何事も、何ものでも、言えることだと思いますが、存在しているということは、神様の計り知れないご経綸とおゆるしと、愛のエネルギーや働きかけがそこにあって、存在しているのですから。存在は、当たり前ではなくて、奇跡なのですから。あなたさんも、わたしさんも、あの星さんも、この国さんも、犬さんも、あの猫さんも、魚さん花さん海さん、山さん、街さんも、大奇跡なのですから。