2 シャーペン
サトルの内面世界で繰り広げられていることは、ちっぽけな自分をああじゃないこうじゃないと拘っていたり、そんな自分を忘れて、ありありと壮大な世界や無限というものに想いを馳せたり、理論的には分からないことを感覚的には理解していたり、やっぱり勘違いしていたりと、わりとポヤッとしている。
サトルには好きな人がいる。サトルは所謂「好きになった人が好き」というタイプで、秩序だってはいないが、一目惚れは今までにはなかった。友達と思っていたが、だんだんと特別な感情が湧いてきて、それが噴水のようになり、理性では抑えられない感覚が強く迫ってくるようになって、胸がなんだか動く。好き。このようなパターンが多かった。
とある春の日、サトルは筆箱を忘れてしまった。隣の席になった菅谷さんに仕方なくシャーペンを借りることになった。菅谷さんとは普段、そこまで会話することもないが、時々SNSで炎上している件に、新たな解釈を用いた冗談などを飛ばし合ったりと、気まずい雰囲気にもならなかった。このような調子だから
「菅谷さん、ごめん。シャーペン借りていい?筆箱忘れちゃって」
「へ、ああ。いいよ」
「今日返すね」
「うん」
何気なく借りた。サトルの特徴からして、この何気なさが、不用意だったかも知れない。このシャーペンを借りたことによって、菅谷さんが好きになってしまったからだ。
サトルは黒板に書き連ねられている文字をノートに写していった。はじめのうちは、菅谷さんから借りたシャーペンをとりわけ意識していなかったが「生産」という言葉を書こうとしたときに、ふと、ある思いがよぎった。
そういえば今日もノートに写していたけれど、これが実現しているということは、筆箱を忘れたぼくにとっては、奇跡のようなことだ。シャーペン。シャーペンを商品にして生産するまでに、どれだけの人々が関わっているのだろう。シャーペンの芯。うん?ひょっとして、人は形にして、実現し、実用していくことに、命懸けなのではないだろうか。そうして愛の川から流れてきたシャーペンをこのように、ぼくは握っている。あ、シャーペンについて、こんなにも噛みしめて、味わうようなことはなかったな。今まで軽かったシャーペンが、繊細な生きものを抱いているような感覚になる。大事大事にしないと……。う~ん、何気なく文房具を買ってきたけれど、これもこれで縁や出逢いなのかも知れない。シャーペンのこのちょっとした彎曲が、水晶のような血液が光り流れているようにみえる。そして、ぼくは、シャーペンの芯を押して出す。
それにしても、菅谷さんには感謝しないとな、え、そういえば多感な感情が促された今日だったけれども、菅谷さんが使ってたということは……、今日の閃きや想いは、間接的ではあるけれど、菅谷さんの息がかかっていたから、お裾分けして頂いたのかも知れない……え!考え過ぎかな、あれ、ちょっと可笑しいな。兎に角、菅谷さんのことをもっと知りたい。
サトルはこの日から、シャーペンを大事にするようになった。何よりも、授業が終わってから、シャーペンを返す頃には、席替えをしたくないほど菅谷さんを意識するようになった。水仙の名前の由来になった、ギリシャ神話の美少年ナルシスが池に映った自分自身を好きになった話に、似ているかも知れないが、種がやがて芽生えていくように、小さな恋が、不器用で静かだけれども、確かに、ここに芽生えた。