8かつての意趣返しに打って出た
ニマニマした口元。細く曲がる目。
そのどれもが気持ち悪い。
これまでその顔に幾度となく視界に囚われた。
背筋が凍る。
呼吸の仕方を忘れたかのように息が上手く吸えなくなった。
こいつはーー
「曽屋...くん」
呼び捨てにしかけたが無意識のうちに『くん』が付く。
本能がそうさせたのだ。
曽屋朔真。
同じクラスのクラスメイト。
しかし『ただの』クラスメイトではない。
曽屋は俺を掴んだままの腕を前後に動かす。
その動きに合わせて俺の体も揺れた。
「なあなあ大ピンチ。センパイに借りた金、利子つけて返さないといけないんだけどさー、さっきちょぉっと財布覗いたらまたそれがちょぉっと足りなくてー」
だからなんだよ。
「...へー、そうなんだ」
ここで『それじゃ、さよならー』なんて言えたらどれほど良かったことか。
「な?な?貸してくんね?俺らトモダチだろ?」
懐かしいセリフだ。
曽屋はごく稀にだがこうやって俺に集っていた。
ここで貸さずにいればもっと関係は変わっていたのかもしれないが俺は俺でそれを受け入れた。
こういう馴れ馴れしい態度とかなんだかんだ周りに馴染めなかった俺に良くしてくれたことなんかがあって俺は『友達かぁ...』なんて満更でもなくなっていたのだ。
今にして思えば思考回路がショートしていたのだ。
...いや、こいつにすら嫌われてしまったら夢を描いた高校生活そのものが終わってしまうとさえ思っていた。
だからいつもくっついていた。
「しょうがねぇな」なんて言いつつ曽屋は優しくしてくれた。
たまにこうして金をせびって来ることもあったっけ。
まあ、返すと言いながら返って来た覚えはないのだが。
拒否した瞬間、友達は終わりだと言われることは怖かったし、当時の俺にとってそれが全てだったのも理由の一端だろう。
顔を上げると曽屋が「ほれほれ」と手を差し出してくる。
当時の俺ならここではいっと素直に渡しただろう。
だが今の俺は知っている。
こいつの『本性』を。
ここで媚びへつらっても意味は無い。
『ただその時期が先延ばしになるだけだ』。
だから俺は
「ごめん、それは無理」
清々しい気持ちでそう言ってやった。
この時の曽屋の唖然とした顔は忘れられない。
※
「は、はぁっ!?」
まさか断られるとは思ってもみなかったのだろう。
曽屋は目を見開き、口をぽかんと開けたあといつもより高いトーンでそう言った。
「マジ、どういうイミ?」
曽屋は眉を寄せ目を吊り上げたかと怒気を含ませた声で腕に力を入れた。
その拍子にグイッと首元が締まる。
体が震えそうになるのを懸命に堪えた。
たとえ知り合いでもこの粗暴な振る舞いはさすがにビビる。
過去の記憶というオプションがついたら尚更。
それでも俺は内心を悟られないように気をつけながら口の端を釣り上げた。
当時の俺とは違う、『今』の俺の口調で。
「言葉通り。金が欲しいなら他当たってくれる?それじゃ」
それだけ言い残して腕をスルッと抜けた。
驚きからか腕の力が抜けていて案外すんなり抜け出せる。
このまま見逃してくれるなら万々歳...なんだけどなぁ。
「おい、待てよ」
ま、そう来るわな。
そりゃこれまでなんでもホイホイ話を聞いてくれた奴がいきなりいきり立って突っかかって来るときた。怒るのも分かる。
だけど俺にも心があるということを理解して欲しい。
今はまだ善人面してるみたいだけどさ。
「お前、マジでどーいうつもりなん?俺らトモダチじゃなかったの?」
苛立ちを隠そうともせず曽屋は俺との距離を少しずつ詰める。
だけどさ。
俺がかつてそう言ったとき、お前なんて言ったか知ってるか?
それはまだ先の話だから分からないだろうけどな。
「友達だからって、金の貸し借りはマズイでしょ」
「いやいや。大変なときに助け合えるからこそ友達だろ?なぁー、頼むよぉ」
手を合わせて拝んでくる曽屋。
だけどどこか薄っぺらい。
本当に悪いとは思ってないんだろうなー...
とりあえずこの場さえ乗り切れば勝ちだ的な?
俺はもう一度「それじゃ」と言って立ち去った。
関わるだけ無駄。
どうせこいつの中じゃ俺が金を出さないなんて選択肢は初めからないのだ。
それに今縁を切られてもこっちは痛くも痒くもない。
早いか遅いか。それだけの違いなのだ。
搾取される金も少ない方がいい。
数歩歩いたところでグイッと強引に肩を掴まれる。
「おい、ふざけんな」
これまでとは違う強い怒気を含んだ表情だった。
遠巻きに見ていた野次馬がざわめくのが分かる。
「なぁ、あれヤバいんじゃね?」「先生呼ぶ?」
その大勢のコソコソ話はここまで聞こえてきた。
さすがにこの騒ぎはマズいと思ったのか曽屋は舌打ちして腕を離した。
「...てめ、ぜってぇ後悔するかんな。友達『ごっこ』ももう終わりだから」
ドスを効かせた声でそう言い残し曽屋は去っていった。
曽屋の蹴りあげた地面から砂埃が舞う。
その姿が校舎に消えていくと次第に肩の力が抜けた。
このままへたりこんでしまいそうになるのを膝に力を入れて堪える。
騒ぎを見ていた野次馬達は俺を遠巻きに見ながら早足に校舎へと消えていく。
...やってしまった。
まさか天敵に噛み付く日が来るとは。
バクバクとまだ心臓はうるさく鼓動する。
だが恐怖や緊張からでは無い。
これは『興奮』だ。
どこか夢見心地な気分で俺は大きく息を吸った。
ずっと言いたくても我慢していたこと。もちろん直接的な言い方ではないけれど態度に表すことが出来た。
まあ、これから起こる『未来』は想像出来るけどさ。
それでも『やってやった』という高揚感が湧き上がり、俺は笑った。